「聞いてもらってもいいですか?」
しばらくの静寂の後、口火を切ったのは遠藤だった。
遠藤が何を話そうとしてるのかわからないけど、聞こうと思った。
_____ときおり見せるあの、翳りの意味がわかるかも?
「はい、私でよければなんなりと。んーと、そっち入ってもいいですか?」
私はカウンターの奥にある、面接の時に腰掛けたソファセットをさした。
「どうぞ、入ってください。お茶、どうですか?」
そう言うと背の低い冷蔵庫から、ペットボトルのミルクティーと緑茶を出してくれた。
「すみません、緑茶でお願いします」
私に緑茶を渡すと、遠藤は私の対面に座ってゆっくりと話し始めた。
「2年前、僕のせいで、息子に怪我をさせてしまったんです」
「え?」
「共働きでお互いに忙しい時期でした。たまたま休みの日に、妻が仕事で急遽家をあけることになって、僕が息子を連れて公園に行ったんですが……。
取引先からクレームの電話があって、少しの間ジャングルジムにいた息子から目を離してしまったんです、そして……」
そこまで話してまた、ミルクティーを一口。
「高い所から落ちてしまって、足の骨を。その後遺症でうまく走れなくなってしまいました……」
「そんな……」
「そのことで妻は僕より自分自身を責めてしまって、精神的に参ってしまって。すべては僕のせいなのに」
「……」
何も言えなかった。
遠藤の奥さんの気持ちが痛いほどわかってしまう。
もしも私がその立場なら、奥さんと同じように自分を責めると思う、どうして夫に預けてしまったのだろうと。
自分の夫である雅史に、圭太を預けてそんなことになったら、私もとことん自分を責めるだろう。
_____そもそも雅史は圭太を預かったりしないだろうけれど
「それで、今は二人と距離を置いて生活してるんですが、この前は息子が遊びに来ていたんです」
「すみません、知らないこととはいえどうでもいいことで連絡をしてしまって」
_____タイミングが悪かったんだ
ちょっとホッとした。
私は、ペットボトルのキャップをくいっと開けると、ごくごくと一気に緑茶を飲んだ。
ふっと息をつくと、感じたことを言葉にする。
「そんなことがあったんですね。でもそれは遠藤さんの奥さんの気持ちもわかります。自分の子どもにそんなことがあったら、私も夫ではなく自分を責めると思います」
「どうして僕ではなく自分を?」
「それが母親というものかもしれません。うまく言えませんが」
「そういうものですか……」
「なんとなく、ですが」
うちの夫だとちゃんと見ていてくれないから、というハッキリした理由があるけれど。
「妻はその後、仕事を辞めました。息子との時間を第一にしたいからと。けれど少し大きくなって幼稚園に行くようになったら、“また仕事がしたい”と」
「それも、なんだかわかります。ずっと子どもと家にいると世間から切り離されたようで、孤独感とか妙な焦りを感じますから」
「そうみたいですね。それでまた一緒に暮らすことになったんですが」
「それはいいことじゃないんですか?」
「まあ、そう望んでいたことなんですが。自信がないんですよ、しばらく離れていたことと、離れることになった理由を考えると。妻はまた頑張りすぎて、不安定になってしまうんじゃないかとか、また息子に怪我をさせてしまったらどうしようとか考えてしまって」
_____本当にご家族のことを大切に思ってるんだなぁ
目の前で、家族のために心を砕いている遠藤のことが眩しく見えた。
「私、思うんですけど。そんなふうに思ってるということをそのままご家族、奥様に話してみてはどうですか?」
「嫌がられたりしないでしょうか?」
「そんなことはないです、もしも私だったらうれしいです、家族のことを真摯に考えてくれてるとわかったら」
頭の中には、小憎らしい雅史の顔が浮かんできた。
同じ夫という《《男性》》なのに、どうしてこうも違うのか。
_____比べてもしょうがないけど
「岡崎さんにそう言われたら、話せそうな気がしてきました。今度きちんと話してみます」
なんとなく遠藤の顔が明るくなった気がして、ホッとした。
「きっと気持ちは伝わると思いますよ」
「ありがとうございます」
お礼を言われて、私もうれしくなった。
_____遠藤さんがうれしそうだと、私もうれしいんだな
不思議な感覚だった。
それから次の仕事のデータを受け取り、実家に寄って圭太を連れて家に帰った。
簡単にご飯を済ませて、圭太とお風呂に入って寝室にきた。
「ばぁばとどん、した」
「ん?ようい、どん?かけっこしたの?」
「そうだよ」
「どっちが勝ったの?」
「ばぁば、あいたたたって、まけましたって」
近頃は成長も著しくて言葉も増え、運動も活発になった。
_____怪我の後遺症か……
もしも、自分のせいでこの子にそんなことが起こったらと想像しただけで身震いして、思わず圭太を抱きしめた。
「おかーたん?」
「ん?ん、圭太、可愛いね、大好き」
「ぼくもおかーたんしゅき」
遠藤のことを少しだけ思い出して、なぜかほんわかしてうたた寝をしてしまった。
ふと目が覚めて枕元の時計を見た、23時を過ぎていた。
起き出して、今日受け取ってきた次の仕事の準備をしようとリビングへ行ったら、ドアの向こうから雅史の声がした。
なんだか楽しそうな声だ。
_____帰ってたんならパソコンは開けないな
仕事をすることは諦めて、もう一度寝ようとしたとき、耳を疑うような雅史のセリフが聞こえた。
「だから、金なんかいらないんだって。女ってさ、不思議なもんでよその旦那さんの方が欲しくなるみたいだぞ。俺が手本を見せてやるよ」
_____手本?
誰かと電話で話しているようだ。
私は気配を消して、そっとドアの中の雅史のセリフに耳を傾けた。
「うん、そうだよ。愛妻家でイクメンってやつがモテるぞ」
_____モテる?誰が愛妻家でイクメンなのよ!
思わずドアを蹴飛ばしたくなったが、ぐっと堪えた。
それにしても誰と話しているんだろうか。
会社の同僚でこんなふうに話す人はいなかったはず。
プシュッと音がして、また缶ビールが開けられている。
「そういうわけだから、まぁ、ちゃんと結婚生活を送れよ。そのうちチャンスがくるから」
_____チャンス?浮気の指南?何様なんだろ?
こんな夫では、もしも遠藤みたいな境遇になっても、あんなふうに真摯に向き合ってはくれないだろう。
また比べてしまう私がいた。
その後、じゃあまたなと聞こえたので、慌ててベッドに戻って毛布をかぶった。
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