テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
月明かりが座敷に差し込み、静けさの中で私は身を震わせていた。
胸の奥からせり上がる熱に、どうしても抗えない。体の奥が疼き、汗が背を伝って畳を濡らす。
「……はぁ……どうして、こんな……」
狐である血を引く私にとって、この夜は避けられぬ運命だった。
理性があっても、本能はそれを許さない。指先は勝手に着物の襟を掻き寄せ、乱れた息を止めることもできない。
震える尾が畳を叩き、耳は羞恥に赤く染まって小さく動いた。
そんな私を見下ろしていたのはアーサーだった。
その蒼い瞳は私の醜態を憐れむようで、けれどどこか熱を帯びている。
「菊……もう、抗うな」
低く囁かれ、胸の奥がぞくりと震える。
私は必死に首を振った。
「だ、駄目です……っ。私が……こんな姿を晒すなど……」
「違うだろう」
アーサーは私の顎に指をかけ、顔を上げさせた。
月の光が頬を照らし、涙に濡れた自分の姿が映る。
「お前は狐だ。これは、どうしようもないことなんだ」
「……っ……」
言葉を返そうとしたが、熱が強まり、声が震えて途切れた。
理性が壊れていく。瞳が潤み、喉からは耐えきれない声が漏れた。
「いや……っ、私は……っ」
「大丈夫だ」
アーサーはそう言って私を抱き寄せた。
広い胸に押し包まれ、心臓が激しく脈打つ。
尾がふるふると揺れて、畳を叩く音が部屋に響いた。
熱い吐息が首筋を撫で、私の体は跳ねる。
そのまま押し倒され、畳の冷たさと彼の熱が交錯する。
「……あ、ぁ……」
畳に爪を立て、必死に耐えるが、すでに体は彼を受け入れる準備を整えてしまっていた。
狐としての本能が「受け入れろ」と命じている。
乱れる息、涙に濡れた頬、耳は羞恥で真っ赤に染まり、尾は大きく震えている。
私は震える声で呟いた。
「……どうか……、どうかこれ以上……私を……」
「菊、俺を信じろ。全部、受け止めてやる」
その言葉に、残っていた理性は溶けていった。
私は涙を流しながら彼に身を委ねる。
狐としての宿命――一度の交わりで、多くの命を宿してしまう運命。あの夜から幾日が過ぎただろうか。
私はここ数日、体の重さをひどく感じていた。吐き気に襲われることもあり、食事も喉を通らない。
「……どうして……私の体は……」
ふと、帯の下に手を当てると、以前よりも腹が張っているのに気づいた。
気のせいだと目を逸らそうとするが、確かな違和感がそこにはある。
狐の血を引く者として、この変化の意味を悟るのは難しくなかった。
私は震える声でアーサーに告げた。
「……もしや、私……」
「気づいたか」
アーサーは真剣な顔で頷き、私を医師へと連れていった。
診立てはすぐに下された。
医師は厳しい表情で口を開く。
「……ひとりやふたりではありません。あなたのお腹には、複数の子が宿っております」
「……え……?」
耳が信じられぬものを聞いたと訴えるように動いた。
私は膝の上で両手を組み、震えを抑えきれなかった。
「そ、そんな……ひとりではなく……?」
「四……いや、六……」
「……六……っ」
声が震え、尾が力なく垂れた。
細身の私の体に、これほどの命が宿っているなど――。
想像しただけで息が詰まり、胸が締め付けられる。
私は思わず腹を抱いた。
まだ小さいはずの膨らみが、途方もなく重い未来を示しているようで。
「私の体で……耐えられるのですか……? こんなに……」
嗚咽混じりに吐き出すと、隣に座っていたアーサーが強く私の手を握った。
「菊。お前は一人じゃない。俺が守る。……この子たちも、お前も」
「アーサーさん……」
その言葉に縋るしかなかった。
しかし心の奥底で、私は恐怖していた。
狐としての宿命を受け入れてしまったあの夜の代償が、これほどまでに重いものだとは――。
私はその夜、自らの運命を拒めぬまま、深い闇に呑み込まれていった。
月日が経つにつれ、私の体は目に見えて変わっていった。
細い腰に不釣り合いなほど、腹だけが大きくせり出していく。
かつて鏡に映る自分を「華奢」と思った日々が、今では遠い。
「……重い……こんなにも……」
息をするのさえ苦しい。
少し歩けば腰に痛みが走り、横になれば中で命たちが暴れて安眠できない。
尾は無意識に腹を庇うように巻きつき、耳は小さな物音にさえ敏感に動く。
ある夜、胎動に強く突き上げられ、私は声を漏らした。
「……あ、ぁ……っ……中で……暴れて……」
畳に爪を立て、必死に耐える。
けれど腹の奥から伝わる生命の力強さは容赦なく、私は涙で顔を濡らした。
「……私には……重すぎる……」
そのとき、背後からそっと抱きしめられる。
アーサーの腕が腹を包み込み、温かな声が耳に届いた。
「大丈夫だ、菊。これはお前のせいじゃない。お前の中にいる子たちが、生きようとしているんだ」
「……っ……でも、私……怖いのです。産まれるまで……本当に無事でいられるのか……」
震える声で吐き出すと、彼は私の耳に唇を寄せて、
「お前も、子たちも、俺が守る。……だから、泣くな」
囁きに、胸の奥が熱くなる。
私は羞恥に頬を染めながらも、彼の胸に背を預けた。
尾は震えながらも、少しだけ力を抜く。
狐としての本能が「この者を信じろ」と告げているのかもしれない。
私は腹に手を重ね、わずかに笑みをこぼした。
「……皆……どうか、無事に……」
静かな夜、六つの命が腹の中で確かに息づいていた。
季節がひと巡りするころ、私の体は限界まで膨らんでいた。
立ち上がることも難しく、わずかな動きすら息切れを伴う。
それでも腹の中の命は日に日に力強さを増し、私は夜ごと眠れぬまま過ごした。
そしてある晩――。
「……っ……あ……!」
腹の奥が急激に収縮し、私は畳の上で体を折り曲げた。
襲い来る痛みに息を奪われ、爪が畳に深く食い込む。
尾はばらばらに震え、耳は汗で張りつき、理性を失った獣のように声が漏れる。
「アーサーさん……! 私……っ……!」
「菊!」
駆け寄ったアーサーが私の体を抱き支える。
荒い息を繰り返す私の額から汗を拭い、必死に声をかける。
「大丈夫だ……俺がここにいる。お前は一人じゃない」
「……っ……でも……こんな……無理です……!」
腹の中で命たちが暴れ、次の痛みが全身を貫いた。
視界が白く揺れ、涙が止まらない。
「……皆……産まれるのですか……? 私の体で……っ」
恐怖と苦痛に押し潰され、私は嗚咽を漏らす。
だが彼は私の手を強く握り、揺るがぬ声で答えた。
「全員だ。お前の中にいる命は、ひとつ残らずこの手で受け止める。……だから耐えろ、菊!」
その言葉に縋り、私は必死に声をあげた。
幾度も波のように押し寄せる痛みに身を裂かれながら、ただ彼の手を握り続けた。
どれほど時間が経ったのか。
やがて部屋には小さな産声が響き渡り、私は涙に濡れた顔で天を仰いだ。
「……あ……ぁ……」
1人、また1人。
次々と産まれる命に体力を削られ、声も出せぬほどに疲れ果てていく。
それでも最後の声が響いたとき、私はかすかに笑んだ。
「……無事に……皆……」
全身が汗に濡れ、涙で顔はぐしゃぐしゃだった。
それでも、胸の奥には確かな安堵が広がっていた。
私は狐として、多くの命を抱きしめたのだ。
産声がすべて収まったあと、座敷には静かな空気が戻っていた。
私は畳に身を横たえ、息も絶え絶えに天井を仰ぐ。
汗に濡れた着物は肌に張りつき、体はまるで燃え尽きたように重い。
「……私……まだ、生きて……」
自分でも信じられなかった。
六つもの命を宿し、産み落としたというのに、私はここにいる。
狐としての血がそうさせたのか、それとも――。
視線を横に向ければ、アーサーが小さな命を抱いていた。
その腕にすがるように並ぶ子たちは、小さな手を動かし、かすかな声で泣いている。
「……菊。見ろ、全員……生きている」
彼の声は涙で震えていた。
私は頬を濡らしながら、かすかに笑みを浮かべる。
「……よかった……本当によかった……」
胸に溜め込んでいた恐怖と絶望が、少しずつ溶けていく。
指先が力なく伸び、彼の手を探す。
すぐにその大きな掌が私の手を握り返し、温もりを伝えてくる。
「菊……お前は強い」
「……強くなど、ありません……ただ、必死に……」
言葉はすぐに涙に変わった。
耐えきれず嗚咽を漏らす私を、アーサーは黙って抱き寄せた。
耳は彼の胸に押し当てられ、心音が伝わる。
尾は弱々しく揺れながら、彼の体に絡むように伸びた。
「……もう、独りではない。お前にも、俺にも」
その囁きに、心臓が静かに震える。
私は重い瞼を閉じ、深い眠りに落ちていった。
――六つの新しい命と共に。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!