テラーノベル
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レオンは荒縄を素早い動きで手に巻き付け、ざらつく繊維が掌に食い込む感触を確かめながら、バルコニーへと脚をかけた。その姿は、まるで獲物を仕留める前の獣のようだ。オルファ侯爵は彼の姿を目にすると、信じられないといった表情で身を乗り出し、思わず椅子から立ち上がった。そして叫ぶ。
「やつを逃すな!捕らえよ!」
その形相は必死で、眉間にシワを寄せ口元はワナワナと震えていた。衛兵たちは一斉に槍を持つと玄関のドアに体当たりし、中へと押し入る。勇ましく弓矢を構えた衛兵の姿に驚いた人々は、我先にと物陰に隠れ、鼓笛隊は楽器を放り出して逃げた。シンバルの音が砂埃の舞う広場に虚しく響く。
私の髪を掴んでいた処刑人たちは、思いもよらぬ出来事に慌てふためいた。頭上を飛び交う矢尻、それは飛び魚のように宙を切り裂いた。
「何をしているのだ!早く処刑してしまえ!」
オルファ侯爵の声は上擦っていた。
「処刑!?こんな所で死ぬ、獅子頭橙子じゃねぇ!」
いや。正確には事故で一度死んでいるよな……うん。けれどそう易々と、この首を切り落とされちゃ困るってもんよ。オランジェットの体に憑依した獅子頭橙子がどこに行ってしまったのか……謎のまま死ぬなんて、真っ平ごめんだ。
「うおりゃっ!」
私は最後の力を振り絞り、処刑人たちに体当たりをした。恰幅の良い一人はその場で尻餅をつき、もう一人は小さな叫び声をあげて処刑台から転げ落ちた。私の手首は荒縄で拘束されたまま。それでも、砂に塗れた処刑台に膝をついて起き上がり、ただ一点を睨みつけた。鈍く光る刃の向こうには、怒りで顔を赤くしたオルファ侯爵と冷めた表情のミーア男爵令嬢がいる。奴らは王太子殺害の罪をオランジェット・ドナーに擦りつけ処刑しようとした。
「許せねぇ……」
握り拳に力を込めたその瞬間、私の体は眩しい朝日が降り注ぐ空へと、ふっと羽ばたいた。羽ばたいたような気がした。ギシギシと鋼のポールが軋む甲高い音が耳をつんざき、冷たい風が頬を鋭く掠めてゆく。けれど、すぐに湿り気を帯びた温かな手が私の脇腹を強く抱きしめた。レオンの体温がじんわりと染み込み、ブランコのように大きく揺らされながら、向かいの教会の尖塔の屋根へと飛び移る。着地の衝撃が膝を震わせる中、見上げると、逆光に浮かぶレオンのブロンドの髪が金色に透け、朝の光を浴びてあまりにも眩しかった。
「本当に助けに来てくれたんだ……」
朝を告げる青銅の鐘がけたたましく鳴り響く中、二人の足音が屋根の上で軋んだ。
「君は……なかなか勇ましいね」
レオンは目を細め、肩をすくませて小さく笑った。私もつられて笑ったけれど、教会の屋根の上はゾッとするほど高く、広場で指差す人々が蟻の行列みたいに小さく見えて、今度は膝がガクガク震え出した。彼は私の腕をそっと掴み、脇差の短剣を滑らせるように抜くと、手際よく手首の荒縄を切り裂いた。縄が落ちる音が風に紛れ、解放された手首には青紫色の痛々しい痕が浮き彫りになっていた。レオンは眉を寄せ、「大丈夫かい?」と少し掠れた声で囁きながら、私の顔を真正面から覗き込む。
「あー、大丈夫だよ」
揺れる深い金色の瞳が私を捉えて離さなかった。
「痛そうだ……、後で薬草を塗ろう」
「ありがとう」
レオンは、美しく繊細なまつ毛が私の頬にそっと触れるほどの至近距離で、不安そうに眉を寄せた。パーソナルスペースが異常に狭いのか、目が悪いのか……とにかく息がかかるほど近い。その吐息が温かく甘くて、私の胸は一気にときめき、鼓動が馬鹿みたいに乱れ跳ね回った。頬が熱い。自分でも赤くなっているのが分かる。ついさっきまで断頭台の上で膝をつき、死の恐怖に震えていたのに……今はもう、天にも昇る気分だ。
甘酸っぱい、恋。恋ってこれか!
とうとう私にも来た!
恋、恋……?と思った瞬間、ドーベルマンのように鋭い目をした川上の顔が脳裏に浮かんで、我に帰った。
「はっ!リバーは!?」
教会の尖塔の十字架にしがみつきながら、冷たい石の感触を胸に感じて広場を見下ろすと、人相の悪い数人の男たちがリバーを引きずるようにして走り去っていく姿が目に入った。その慌てふためく後ろ姿は、まるであの時、組同士の抗争で若い衆が川上を庇いながら血まみれで逃げてゆく姿と重なった。
「やっぱり……みんなこの国に来ているんだ」
掠れた声で独り言が漏れる。風に吹き飛ばされそうなほど小さな呟きだったのに、レオンは鋭く耳を澄ませたのか、不思議そうに、どこか訝しげに首を傾げてきた。
「……誰の話?この国って?オランジェはこの国の人間じゃないのか?」
私は焦った。心臓が喉まで跳ね上がる。ここで正直に言えばすべて終わりだ。自分がどこの国にいるのか、そもそも自分の家がどこにあるのかも分からない。ここは、とにかく分からないフリをしてその場を凌ぐしかない。
「……私、オルファ侯爵に婚約破棄を言い渡されて……その……そのショックで、自分が誰だか分からないの」
声が震えた。緊張で喉がからからに乾いて、掠れて心許ない。
「名前は分かるのに?」
レオンの声は優しいままなのに、その奥に好奇心と、ほんのわずかな疑念が混じっていた。風が頬を打つ。ごまかせなかったかもしれない……。
「えーと……」
レオンは優しく微笑むと、静かに右手を差し出した。握って、という無言の誘いだ。私は怯えながらも震える指先をそっと彼の掌に乗せた。次の瞬間、温かく大きな手が優しく包み込み、ぐいっと引き寄せられる。胸と胸が触れ合い、熱が伝わる。鼓動が重なり、どちらのものか分からなくなるほど近かった。
「このままここにいても仕方ない。僕たちの隠れ家にご招待するよ」
掠れた声が耳をくすぐる。言葉が終わるより早く、レオンは私の体を軽々と抱き上げた。そして教会の屋根から、まるで猫か野獣のように、隣の屋根へと音もなく飛び移る。一歩ごとに風が髪を逆撫でし、広場から放たれた衛兵の矢が空しく空を裂いて落ちていく。私は確かに、自由を手に入れた。
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