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雨の降る帰り道。
人通りの少ない歩道を、服のまま、傘もささずに歩く一人の少年がいた。
「……みこと?」
人影を見つけて、すちは思わず駆け寄った。
みことはびしょ濡れのまま、ただぽつんと立ち止まっている。
「みこと!」
返事はない。
「おーい、って……濡れすぎ。風邪ひくよ」
2度目。
「みことってば!」
3度目で、ようやく――
「……すち?」
ぼんやりと目を瞬かせ、やっと現実に戻ったように、みことが声を発した。
「おまえ、何やってんだよ。傘もささずに……」
「……なんか、歩いてた」
「“なんか”じゃねぇよ。……ったく、こっち来て」
すちはみことをぐいっと傘の中に引き寄せた。
濡れた髪が触れて、しん、と冷たい温度が伝わってくる。
それでも、みことはふわりと笑って――どこか心ここにあらずのように、すちの横を歩いた。
「服、これ。あとタオル。風呂わかる?」
すちの家の一室。
差し出された着替えとタオルを抱えて、みことはこくりと頷く。
「……ありがとう。すち、やさしい」
「甘やかしてんの。おまえがそういうの、下手そうだから」
すちはそう言いながら、濡れたみことの髪をタオルで軽く拭ってから、そっと背を押した。
「風呂、先入ってこいよ」
脱衣所で、みことは静かに服を脱いだ。
ハンガーにかけようと振り返った瞬間――
視界の端に、自分の体が映った。
(……あ)
鏡。
その中で、どこか他人のように見える自分の体。
うっすらと青痣の跡。濡れた髪が張りついた顔。
(いや…だ……)
息が詰まり、肩が震え――
「っ、う……ぐ……っ、あ……っ」
倒れ込むようにその場に崩れた。
「みこと!?」
音を聞きつけてすちが駆け寄る。
「だいじょぶ、っ、ちが、……なんでもない……っ」
震える体を、すちはためらいなく抱き寄せた。
タオルが濡れた肌に貼りつくのもかまわず、力強く、でも優しく。
「みこと、大丈夫。大丈夫だから。俺がいるから」
「……っ、うん……」
呼吸が落ち着くまで、すちはずっと背中をさすりながら、何も言わず、ただそばにいた。
数分後。ようやく呼吸が整ったころ、すちが静かに問いかける。
「……何があった?」
「……わかんない。でも……たぶん、鏡が、苦手……かも」
「鏡?」
「なんか、自分が映るの、怖くて。昔から……なんとなく、ずっと」
みことは自分の膝を見つめながら呟いた。
「浴室にも、あるよな…」
すちは一瞬だけ考え、それからすっと立ち上がった。
「じゃあ俺も一緒に入る」
「えっ……!? だ、だめ、俺、一人で……」
「ダメ。決めた。おまえ、拒否権ない」
「そ、そんなこと……」
「甘えられないおまえに、今は俺が勝手に甘やかす番。いいから立って」
そう言って、すちはみことの手を取り、ゆっくりと立たせた。
「……目、閉じてればいい。鏡も見せないし、洗うのも手伝うから」
「……やっぱ、すちって変な人だ」
「それ、褒め言葉でいい?」
「……うん、すちだから、いい」
その夜、浴室からは静かな水音と、やさしい手の音だけが聞こえていた。
まだ「好き」とは言えない。
でも確かに、ふたりの距離は、濡れた夜に溶けていくように、少しずつ近づいていた。
___
浴室の中には、やわらかな湯気が満ちていた。
バスタブにはお湯が張られ、みことは腰かけて、すちに体を預けるようにして座っていた。
「……じっとしてて」
すちはシャワーを使いながら、泡立てたボディソープを手に取り、みことの背を丁寧に撫でていく。
「……くすぐったい……けど、きもちいい……」
「そりゃどうも」
肩、腕、指先、背中――
どこもかしこも、優しく扱うその手つきに、みことの体が自然と脱力していった。
一通り洗い終えると、すちはみことをそっと湯船へ促した。
「浸かって。あったまってよ」
「……うん」
湯の中に沈んでいくと、みことの頬がほのかに赤らんだ。
すちはその後ろに回って、今度は泡立てたシャンプーで、みことの髪にそっと手を伸ばした。
「頭、洗う。目、閉じて」
「……ん」
くしゅくしゅと、泡の音が響く。
爪を立てず、やさしく指の腹でなぞるようなその感触に、みことの瞼がとろりと落ちていく。
「……すちの手、あったかい……きもち……」
「おい、寝んな。溺れるぞ」
「ふふ……」
すちは苦笑しながら、シャワーでゆっくり泡を流した。
髪がさらりと湯に流れ、みことがふわりとため息を吐く。
「はい、おしまい」
「ありがと、すち……」
「次、俺。ちょっと待ってろ」
そう言って、すちはさっと自分の体を洗い、浴槽の反対側からゆっくりと湯船に入った。
湯気に包まれながら、少し黙っていたすちは――
「……みこと、こっち」
そう言って、するりとみことの手を取った。
「え?」
「こっち来いって。無理すんな。ほら」
ぐいっと引かれると、みことはすちの胸にすっぽりと収まる形になった。
「……っ!?」
驚いて体をこわばらせたみことだったが――すちの腕が後ろからそっと腰にまわされる。
「……嫌なら、離れる」
「……ううん。びっくり、しただけ……」
「じゃ、ちょっとこうしてる」
しばらくの間、湯の中でふたりの体温がゆっくりと溶け合っていく。
「……すち、あったかい……お湯も……気持ちいい」
「それなら、よかった」
すちは、みことの濡れた髪にそっと口元を寄せながら、声を落とす。
(みことのことが、好きだ)
たったひとつ、心の中にあるその気持ちは、言葉にするにはまだ早い。
でも確かに、腕の中のぬくもりが、それを証明していた。
___
湯上がりのバスルーム。
もくもくと漂う湯気の中、みことが脱衣所の椅子にちょこんと腰かけている。
「動くなよ」
そう言ってすちがドライヤーを手に取ると、
低く響く風の音とともに、みことの髪がふわりと舞った。
「……ふわふわだな」
「え?」
「髪。乾かしてて、癒される」
「あ……うん……ありがと……」
ドライヤーの熱と、すちの指が軽く髪をすくうたび、みことの瞼がとろんとする。
ごく近くで、すちが小さく笑った。
「雨、さっきより強くなってる。今日は泊まって」
「……うん。お邪魔、します」
「お腹、すいた?」
「……ちょっとだけ」
「昨日の残りだけど、出す」
キッチンに並べられたのは、炒め物と味噌汁、そして白いごはん。
質素だけれど、どこか温かい。
ふたりは並んで座り、言葉少なに箸を進める。
「……おいしい」
みことがぽつりと呟く。
「よかった」
たったそれだけの会話で、どこか心が満たされていく。
___
食器を片づけ、歯を磨いて、寝る準備が整う頃。
ベッドに腰を下ろしたすちは、柔らかく毛布を広げながら、声をかけた。
「みこと、おいで」
みことは一瞬きょとんとしたが、なんとなく、すちの温もりを思い出して。
少しだけ頬を染めながら、すちの横にそっと身を預けた。
すちの腕が、優しくみことの肩を抱く。
「……あったかい」
「寒くない?」
「ううん。……落ち着く」
すちは静かに、みことの頭を撫でた。
やわらかい髪をゆっくりとなぞるように。
「……いい夢、見ろよ」
「……すちの手……すき……」
「……ふふ。そりゃ光栄」
背中にも、優しい手のひらが添えられる。
心地よいぬくもりに包まれて、みことの呼吸がだんだんと深く、穏やかになっていく。
「……すち……」
「ん」
「……おやすみ……」
「おやすみ、みこと」
───みことが静かに眠りに落ちたあと、
すちはその顔を見つめながら、思い出していた。
さっき、鏡を見た瞬間に倒れ、呻き声をあげたみことの姿を。
(あれは──)
理由は、わからない。
でも確実に、みことの心の奥に、何かがある。
「……俺が、絶対安心させる」
小さく呟いて、すちはみことの髪にもう一度、手を伸ばした。
撫でるたびに、微かにぬくもる掌。
それが、彼の決意の証だった。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込む。
柔らかく部屋を照らす陽の光の中、布団の中でみことがもぞ、と身を動かした。
「……ん……」
「おはよ、みこと」
穏やかな声に目を細めると、すちが枕元に腰を下ろしていた。
すちの視線は、くしゃくしゃに跳ねたみことの髪に注がれている。
「寝癖、ひど……いや、かわいいな」
「ん……かわ……?」
まだ寝ぼけたみことは言葉の意味もよくわかっていないが、
すちがにこにこと笑っているのを見て、つられるように笑った。
「ふふ。……よく寝れた?」
「うん。……あったかかった」
「ならよかった。ほら、起きて。朝ごはん食べよ」
みことはゆっくりと上体を起こし、ふわぁ、と欠伸を漏らす。
その様子を見ながら、すちはすっと立ち上がり、キッチンへ向かった。
簡単な朝食を終え、ふたりで準備を済ませると、 並んで玄関を出る。
雨はもう止んでいたが、道はまだしっとりと濡れていた。
「途中まで、一緒に行こっか」
「うん」
大学までの道。
特別な会話はないけれど、ふたりの歩幅は自然と合っていた。
やがて分かれ道が近づいたとき、みことがふと足を止めた。
「……すち」
「ん?」
「昨日……ありがとう。助けてくれて」
静かな感謝の声に、すちは一拍置いてから、ふっと笑った。
「どういたしまして。……また困ったら頼って」
「……うん。……行ってきます」
「行ってらっしゃい。みこと、気をつけて」
軽く手を振って、それぞれの大学へと歩き出すふたり。
雨上がりの朝。
残るのは、あたたかな体温と、心に宿るやさしい余韻だった。
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