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大学の講義が終わり、すちはキャンパスを出て駅へ向かって歩いていた。
歩道に差しかかると、前方から見慣れた後ろ姿が目に入る。
「──らんらん?」
振り返った男は、黒いジャケットに身を包んだ、冷静な瞳を持つリーダーだった。
「……すちか。お前も今、終わり?」
「うん。久々じゃん、帰りに会うの」
「たまたまだよ。こさめと飯食う予定で、近くまで来てた」
「ああ、いいね。……ってか、少し話せる?」
「ん? なんだ?」
すちは少し足を止め、視線を落としてから切り出した。
「……昨日、みことが俺んちに泊まった」
「みことが? ……なんかあった?」
「うん。雨の中、傘も差さずにぼーっとしてて。反応も鈍かった」
らんの表情がわずかに引き締まる。
「そのあと、うちで風呂入れてたら──脱衣所で鏡見て倒れた。
呻いて、呼吸も荒くて、落ち着くまで時間かかった」
「……」
「そのあと聞いたら、『たぶん鏡が苦手』って言ってた。理由は本人もよくわかってないみたいだったけど」
らんは数秒間、何も言わずに宙を見つめていた。
その目はいつもより深く、鋭さを帯びていた。
「……みこと、昔からちょっと“距離”ある感じあったよな。
笑ってるけど、どこか心が触れない。そういうとこ、思い当たる」
「うん、俺も……。でも、もっと近くで見たら、余計に気になる」
すちはわずかに息を吐き、言葉を続けた。
「無理に聞き出すつもりはない。でも、俺はあいつを安心させたい。
ほんとの意味で、笑ってほしいって思った」
「……そっか」
らんは一言だけそう言い、懐からスマホを取り出した。
「じゃあ、もしまた何かあったら、すぐ連絡しろ。こっちも気をつけてみとく」
「ありがとう。らんらんも……頼りにしてる」
「ふ。……お前がそんな顔するの、珍しいな」
「……好きなんだと思う、俺。みことのこと」
静かに、しかしはっきりと。
その言葉にらんは目を細めて笑った。
「じゃあ、なおさら守ってやれよ。お前がその気なら、俺は全力でサポートする」
「……うん。絶対、そうする」
──雨が上がった街の夕暮れ。
すちの心に灯った想いは、らんという仲間により、静かに共有された。
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朝、慌ただしくも少しだけ気持ちに余裕がある時間。
着替えを終えたみことは、自分の服ではないシャツの袖を見下ろした。
(……すちくんの、服)
洗濯済みのシンプルな白いシャツ。
少しだけ袖が長くて、着慣れないはずなのに、どこか落ち着く。
クローゼットにかけてあったそれを、ためらいながら手に取ったのは今朝のこと。
昨日の雨で自分の服はまだ乾いておらず、すちが用意してくれた一着だった。
(におい……)
そっと胸元に顔を寄せてみる。
ふわりと鼻先をくすぐる柔らかな洗剤と、すちの優しい匂い。
不思議と、昨日の温もりが甦ってきて、ふわりと表情が緩んだ。
___
大学ではいつも通り、みことは一人でいた。
図書館の自習スペース、学食の隅のテーブル、講義前の廊下──
誰かと一緒にいるわけではないが、どこかで誰かがいつも視線を向けていた。
「今日も、麗しいな……」
「いや、ほんとかわいい。声も仕草もふわふわしてて……」
「もっと話してみたいけど、あの空気感に踏み込む勇気が……」
「てか、かっこよくね? 喧嘩強いって噂もあるし」
囁かれる声は男女問わず。
みことの存在は、どの教室でも静かに浮き、目立っていた。
だが、本人はその視線にまったく気づいていない。
話しかけられれば柔らかく笑って返し、天気の話にも、レポートの愚痴にも、きちんと耳を傾ける。
でも──自ら誰かに近づこうとは、ほとんどしない。
(……一人でいる方が、楽)
心のどこかで、そう思っている節がある。
ただ、その孤独に浸っているわけではない。
講義が終わり、次の教室へ向かう途中。
ふと立ち止まり、シャツの裾を指でつまむ。
(……まだ、におい残ってる)
思わず小さく笑った。
いつもの表情ではない、誰にも見せたことのない、ごく小さな微笑み。
それを、たまたま近くを歩いていた数人が目撃して──
「今、笑った……?」
「やば……今の、反則じゃん……」
「好き……」
胸を押さえて崩れそうになる者、スマホを取り出し絵を描き始める者。
そんな騒ぎも、もちろんみことは知らない。
静かに、けれど確かに。
昨日すちと過ごした時間が、みことの内側にじんわりと広がっていた。
孤独は変わらない。けれど、あたたかいものがひとつ、心に残っている。
それが、今のみことにとっての支えだった。