テラーノベル
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最近、仕事を詰め込みすぎて酷く疲れが出てきてしまった。
仕事では動作が緩慢になり、ちょっとしたミスが増えた。プライベートでは外に出ることが大幅に減り、かと言って趣味に専念しているわけでもない。そんな、いつもはしないような無精な生活を送ってしまっていた。
このままではいずれ何処かでボロが出るだろうと思い、気分転換に少し長めの休暇を取った。
休暇初日。なんとなく気持ちを晴らそうとして、人が全くいない穴場の海へと足を運んだ。
そこへ着いたはいいものの、泳ぐ…というよりも運動自体があまり得意ではない上に、そもそもこの茹だるような暑さの中でまともに動ける気がしなかった。そんな中で何故海へと来たのか自分でもよく分からないが来てしまったからには楽しむしかない。そのまま、あてもなくぼんやりと海岸を歩き続ける。どこを見ても澄み切った青。天気は気持ちがいいほどの快晴で空と海との境界線が曖昧になっていた。うんざりするくらい、水天一碧な海日和にも程があった。
ふと、遠くの沖の方に視線をやると人のようなものが岩に座っているのが見えた。よく目を凝らしてみるがそれはどうも、鈍く陽光を反射した鱗を持つ魚のような、淡く黄金の光を受け、儚げに俯く人のような…どちらも等分にある姿形で──
「〜♫」
そんなことを考えていると歌声が聞こえてきたような気がした。
その歌声はまるで、温かい陽だまりの粒子が海底まで柔らかいままそっと届いたかのように、心地良く澄み渡るようで。気づいた時には心を奪われ、つい聴き入ってしまった。
その歌声はどこか聞き覚えのあるような旋律で、つい懐かしさを覚えた。
しかし、それがこちらに気づいた途端歌声は止まってしまい、その人のようなものはいつの間にか消えていた。どこか心の底で寂しさを覚えつつ、もしかしたら幻覚でも見ていたのかもしれないと思うことにした。今日は早く寝よう。
*
────再び来てしまった。
昨日、あの海で謎の歌声を聞いてからどうも頭から離れず、家に帰っても寝る前でも思い出してしまうほどだった。
朝が来ようともそれが変わることはなかった。
昨日と同じくぼんやりとあてもなく海岸沿いを歩いていると再び歌声が聞こえてきた。
もしかすると昨日の人魚?かもしれない。
歌声がする方向を見ると、昨日と同じく岩の上に座って彼女は居た。
昨日と違うところといえば、少しリズムや雰囲気がゆったりとしていた。別の歌だろうか。
再び昨日と同じくその心地よい風に揺られるような歌声に聴き入り、静かで穏やかな余韻に浸る。
すると彼女は再び、こちらに気がついてしまった。まずい、また昨日みたいに逃げられ──
『…あれ、キミは人間かな?』
ふわり。小さな花が春に溶けたような、柔らかい微笑みだった。
夏の陽光が容赦なく降り注ぐ海辺に彼女はそこに居た。足が勝手に動き、気づいた時には彼女に近寄っていた。
よく見ると下半身は魚のように鱗に覆われた鰭で、上半身は人間のような形だった。
コスプレか、或いは本物か…。
「…人魚?」
慌ててバッと口を手で覆った。
つい、ぽつりと言葉に出してしまった。
恐る恐る相手の表情を確認する。
…変わらない笑顔。怒ってはなさそうだ。
『そぉ。人魚さんなの。かわいいでしょ?
びっくりした?』
その人魚は悪戯悪戯に笑い、こちらをじっと見つめてくる。まるでこちらを見定めているかのような表情で、初対面の筈なのにもう既に彼女のペースに飲まれそうになっていた。
「びっくりはした、けど…それ、本物…?」
訝しげにそれをじっと見つめる。
偽物の鰭にしては精巧すぎる。反射、形、材質、全てが本物の魚に近い。
コスプレだとしたらかなりストイックなのか、と馬鹿みたいな感想が出てくる。
『うん、本物だよ♡
触ってみる?』
岩の上に座ったまま無防備に鰭をぷらぷらと見せる。その度にきらきらと光を反射して、よく見ると紫やら緑やらが鈍く多彩な輝きとして散らばっていた。
「じゃあ…。」
好奇心には勝てなかった。恐る恐る手を伸ばして、その鰭に触ってみる。
ざらざらとした細かい硬めの触り心地で、ひんやりとした冷たさ。明らかに人間の体温ではなかった。
そういえば、魚の鱗は色素によって色づいている訳ではなく、虹色素胞の中にあるグアニン結晶の層が光を反射し、干渉することでこういった構造色が生み出されているらしい。
角度によって色が変わるのはそのせいだというのをどこかで読んだ気がする。
確か、虫の翅翅も似たような仕組みだったか。
そんなことを考えていると彼女はくすくすと笑う。真剣に観察していた俺が面白かったらしい。
『…ふふ、めっちゃ真剣だったねぇ。
そんなに面白いの?』
余りにもご機嫌そうに笑うから、何故かつられてこちらも笑いそうになる。
「ごめん、嫌だった?」
明らかに嫌そうな顔をしていないのは分かっているが、それでも聞きたかった。
彼女が不快では無かったかどうかを。
『大丈夫。もっと見てもいいよ。』
彼女に許可を貰ったからには知的好奇心が抑えきれなかった。その後はこの暑い中ずっと、彼女の鰭を夢中で観察していた。時折海に足だけ突っ込み、熱を逃がしつつ身体を冷やす時間も取ったが、やはり直ぐに観察へと戻った。
『…ねぇ、キミの名前は?』
彼女にそう聞かれてようやく思い出した。
まだ自身の名を名乗っていなかったことを。
こちらが異種族の彼女に懸念を抱いているのと同じように、彼女も又、異種族である自分になにか思っているかもしれないのにも関わらず、一方的に話しかけ名乗りもせずに彼女の鰭をじっくり観察してしまった。不躾にも程がある。
反省の気持ちが溢れる反面、彼女には何処か既視感を感じていることに気がついた。
なぜ、前から知っているかのような…。
いや、そんなことは考えてる場合じゃない。
「あぁ、まだ名乗ってなかったね。ごめん。零だよ。ただの人間。
君を害するつもりは無いから安心して欲しい。」
そのまま彼女とぽつぽつ話をして、色々わかったことがある。
彼女の名前は薫。薫は大昔に絶滅したであろう人魚の数少ない生き残りであること、人がほとんど来ないこの海で偶に歌を歌って気分転換をしていることなど。
彼女はよく喋る人…人魚?であった。初対面の人間にそこまで詳しく喋っても良いのだろうか、と思うほど。
しかし、明るくご機嫌に話をするその様子は、まるで海の太陽のようで。あたたかくて眩しかった。
『そういえば、知ってる?
人間が人魚を食べたら不老不死になれるってやつ。』
聞いたことはあった。御伽噺御伽噺によくある人魚の話。人魚を食べたらいつまでも若々しくなったり、病気が治ったり、長く生きられたりと様々。
しかし、自身が人魚であるのにそんなことを言えるのか。
俺が悪い思考の持ち主だったらどうするつもりだったのか…。時折露出する彼女の無防備さには、少し心配になってしまう。
「若返ったり、長く生きられたりするやつだよね?」
『そうそう!面白いよね〜。
人魚は食べても美味しくないと思うけどなぁ。
キミはどう?食べたいと思う?』
へらりと笑ってそんなことを尋ねてくる。
その質問を投げかけられた瞬間、一気に彼女が恐ろしく思えた。自分と同じ種族のものを食べてみたいかと、平気で聞く彼女。
もしかして、試されているのか…?
「いや、そんなこと────」
即答しようとしたのに言葉が喉の奥で凍りつき、出ていくのを拒んだかのように口が止まってしまった。改めて彼女の方を見てみる。彼女を見ても食欲が動かされることはないのだが、何となく腹の奥が満たされないような気分になる。
そんなことを考えてしまう自分も恐ろしかった。
『なるほどねぇ。まぁ、どっちでもいいけど。
あ、そういえばさぁ。キミは海って好き?』
突然の話題転換。先程までの張り詰めた空気はどこへやら、彼女は能天気に笑って話を変えてしまった。しかも「海が好きか」という、ごく普通で平凡な話題。
彼女はコロコロと表情も気分も変わるタイプらしい。
何となく、さっきの話を掘り返してものらりくらりと交わされてしまう様な未来が見えた。多分きっと、彼女に失望された。
ハッキリ、「そんなことはない」と答えられなかった自分に。それを悟ると一気に真っ暗な深淵へと突き落とされた気分になった。
『…あぁ。さっきのはただの意地悪な質問だから、あんまり気にしないでいいよ〜』
そんな俺の内心を見透かしたかのようにこの言葉を付け足した。本当に気にしていないのか、それとも慰めるための言葉か。
それでも先程の薫の言葉への返事を何とか捻り出した。
「…海、は好きだよ。
見ているとなんだか懐かしい感じがして。」
海へと訪れたこの2日間ずっと、薄々感じていたこと。
広く青い海原を見つめていると、まるでそこが自分の居場所かのように思えてくる。
恐らくは波音の1/fゆらぎという、心地のよいリズムやマイナスイオンによるリラックス効果なのだろう。
それにしてもこの帰りたいと思う気持ちにはどこか引っかかる。
『懐かしいかぁ、いいね。
じゃあ、またいっぱいおいでよ。
私はよくここにいるから。』
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