テラーノベル
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その日は朝から最悪だった。
取引先とのトラブル。
長引く会議。
上司からの修正依頼。
昼を食べる時間もなく働き続けて、気づけば終電一本前だった。
山中柔太朗は重い身体を引きずるみたいに帰宅した。
玄関のドアを開ける。
すると、リビングの灯りが見えた。
「おかえり」
キッチンから顔を出した佐野勇斗が、柔らかく笑う。
その瞬間だった。
張っていた糸が、ぷつっと切れた。
柔太朗は靴もまともに揃えないまま勇斗のところへ走っていって、そのまま勢いよく抱きついた。
「……っ」
「おっと」
勇斗は少し驚いた顔をしたあと、すぐに優しく抱き止める。
柔太朗は何も言わない。
ただ勇斗の胸に顔を埋めて、ぎゅっと服を掴んでいた。
勇斗は片手で柔太朗の背中をゆっくり撫でる。
「お疲れさま」
その声が優しすぎて、余計に泣きそうになる。
「……むり」
掠れた声が漏れた。
「ん?」
「今日、ほんと疲れた……」
珍しい弱音だった。
普段の柔太朗は、あまり仕事の愚痴を言わない。
しんどくても、「平気」の一言で終わらせる。
だから勇斗は、余計に胸が締め付けられた。
「頑張ったね」
低く穏やかな声でそう言って、柔太朗の頭を撫でる。
柔太朗はさらに強くしがみついた。
「……なんか全部だめだった」
「うん」
「ミスするし、空気悪くなるし……」
「うん」
勇斗は否定しない。
無理に励まさない。
ただ静かに聞きながら、柔太朗を抱き締め続ける。
その温かさが、じわじわ身体に染みていく。
「柔太朗」
「……なに」
「今日はもう頑張らなくていいよ」
その一言で、目の縁が熱くなった。
柔太朗は勇斗の胸に顔を押し付けたまま、小さく呟く。
「……はやちゃん、」
完全に甘えている声だった。
勇斗は思わず笑ってしまう。
「なにその声」
「うるさい……」
「かわいい」
「今それ言うな……」
弱ってる時まで余裕そうに笑う勇斗が悔しい。
でも、その余裕に救われてもいる。
勇斗は柔太朗の頬にかかった髪を指で払うと、額へそっとキスをした。
「ちゃんとご飯食べた?」
柔太朗は首を横に振る。
「じゃあなんか作る。食べれそう?」
「……勇斗と食べるなら」
「ん、えらい」
子供扱いみたいな言葉なのに、不思議と今は嫌じゃない。
勇斗は柔太朗を抱き締めたまま、背中をぽんぽんと優しく叩いた。
まるで「大丈夫」って伝えるみたいに。
柔太朗は目を閉じる。
勇斗の匂い。
温かい腕。
一定の心臓の音。
帰ってきた、と思った。
外では嫌なことばかりだったのに、この腕の中だけは安心できる。
「……もうちょいこのまま」
小さく呟くと、勇斗は迷いなく答えた。
「いくらでも」
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コメント
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もう神作です!! これからも応援してます👍️
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# る ぅ と 🐹