テラーノベル
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その夜。
幸人は一人、リビングに立っていた。
照明の下に浮かび上がるのは、昼間よりもいっそう目につく部屋の荒れようだった。
テーブルの上には飲みかけのグラス。床には菓子の袋と、脱ぎ捨てられたままの服。
どれもが「ここは健全な家庭ではない」と無言で訴えている。
――果穂は、家庭的な女性ではなかった。
結婚後、彼女は専業主婦になった。
だが、料理も洗濯も掃除も、どこか上の空だった。
デパ地下で買ってきた惣菜を皿に並べ、いかにも「作りました」という顔をする。
部屋は一見きれいでも、少し触れればすぐにボロが出る。
幸人は、それを咎めなかった。
表面だけでも整っていれば、それでいい。
この結婚に、家庭的な温もりや愛情など最初から期待していなかったのだから。
果穂と結婚したのは、家のためだった。
詩乃が事故で植物状態になったと知らされた日、
「代わりに妹を嫁がせる」そう言われたとき、幸人は何も言い返さなかった。
果穂本人が、それを望んだのも事実だ。
あの女は、最初からこの結婚を欲しがっていた。
綾咲家の後継者の妻という立場も、金も、何より幸人という“肩書き”も。
幸人は決して、果穂に好意を持っていなかった。
これまで幸人の周りに寄ってきたような、表面ばかりを取り繕って中身が伴わない。
そんな女たちと同等――いや、それ以上のものを感じ取っていたから。
だが――その感情よりも、「綾咲家と楠木家の結びつき」のほうが重かった。
抗うという選択肢は、与えられていなかったし、幸人自身もそれを選ぼうとはしなかった。
結婚し、義務のように一度だけ体を重ね、そして乃亜が生まれた。
それで役目は終わった。少なくとも、幸人の中では。
だが果穂は違った。
愛されたいと何度も求め、触れ、すがった。
幸人はそれに応えなかった。
果穂も次第に幸人を求めることが減り――二人は仮面夫婦のようになっていった。
そんな中、乃亜がまだ一歳にも満たないうちに海外赴任が決まり、幸人はとある提案をした。
それは、家政婦の一恵を手伝いに呼ぶこと。
一恵は、長く綾崎家に仕えてきたベテラン家政婦で、幼少期から幸人の面倒見ていた人でもあった。
幸人の数少ない信用できる人間のひとり。
果穂は民間のベビシッターや家政婦を呼ぶことも多かった。
それについては容認していたが、幸人が完全に家を空ける今、一恵のように信頼のおける人間が出入りする方が安全だと思った。
何かあれば、すぐに報告も可能だ。
しかし、妻の果穂はそれを断った。
「自分で子育てを頑張りたい」
「これからは、幸人に代わってちゃんとする」
耳触りのいい言葉を並べ立てて。
その言葉を、鵜呑みにした訳ではなかった。
しかし、さすがに子どものことくらいはちゃんとやるだろうとそれを受け入れた結果が――これだ。
「……弘人の言った通りだったな」
“奥さん、派手に遊んでるみたいだけど大丈夫なのか?”
弟からそう連絡を受けたのは、半年程前のこと。
それをきっかけに果穂の素行調査を依頼した。
明らかになった、夜遊びと男関係。息子を置き去りにしての放蕩。
仕事を無理やり詰め込み、帰国を早めた。
それでも――間に合わなかった。
正直な話、義務的に設けた息子に父親として強い愛情を持っていたかと言われると、すんなり頷くことはできない。
しかし……散らかった部屋。荒れた空気。
息子の、怯えた目。
(子どもに、あんな目をさせていい訳がない)
――それくらいは、幸人でも分かる。
ふと、幸人の脳裏に浮かぶのは――
あの日、結婚話が出たときの詩乃の姿。
子どもが好きだと言っていた、あの穏やかな声。
(……あの人と結婚していれば……)
こんなことには、なっていなかったのかもしれない。
後悔にもならない“IF”を思い、幸人の胸が少し、痛んだ。
***
夜更けの寝室は、ひどく静かだった。
分厚いカーテンに遮られた窓の外からは、遠くを走る車の音がかすかに届くだけで、この部屋だけが世界から切り離されたように思える。
ベッドサイドの小さな常夜灯が、淡いオレンジ色の光を床に落とし、影をゆっくりと揺らしていた。
大きなベッドの端で、乃亜が小さく丸まって眠っている。
薄い掛け布団を胸元まで引き上げても、肩や指先が少しだけ覗いていて、まだ幼い体つきが痛々しいほど頼りなかった。
その小さな胸が、ひく、ひく、とかすかに上下している。
それだけで、生きていることがはっきりと伝わってくるのに――今まで、誰もそれをちゃんと見ようとしなかったのだと思うと、詩乃の喉がきゅっと締めつけられた。
果穂の体を持つ自分が、この場所にいるという事実が、まだ現実のものとして飲み込めない。
派手なネイルのついた指先で、そっと布団の端を整えると、爪が布に引っかかる音がやけに大きく感じられた。
詩乃は息を殺すようにして、乃亜のそばに腰を下ろす。
眠っている子どもの顔は、昼間見た怯えた表情とはまるで別人のように穏やかだった。
少し開いた口。長いまつげ。ほんのり赤みを帯びた頬。
「……」
声を出したら、この静けさが壊れてしまいそうで、詩乃はただその顔を見つめることしかできない。
ふと、違和感。
わずかな匂い。
視線が落ちる。
布団の――更にその下。
(……そういえば、この子のトイレって……)
ゆっくりと布団をめくり、起こさないようにそっとズボンを脱がす。
そこには、替えられていないオムツ。
たっぷりと重く、湿っている。
そして、オムツを脱がせたその下。
肌が赤く、ただれていた。
「……っ」
言葉が出ない。
(こんなになるまで……)
どれだけ、放置されていたのか。
震える指で、そっと触れる。
熱を持った、小さな肌。胸の奥に、感情が込み上げる。
怒り。悲しみ。
そして――決意。
詩乃は、静かにオムツを外す。
起こさないように、慎重に。
乃亜が、わずかに身じろぐ。
幼い寝顔の眉が寄る。
「……ごめんね」
無意識に零れる言葉。
部屋の隅に、乱雑に開けられたオムツ袋が置かれていた。
そこから、新しいオムツを取り出す。
丁寧に履かせ、整える。
その後、そっと乃亜の額にかかる柔らかい髪に触れた。
驚くほど、あたたかい。
そのぬくもりが、胸の奥にじんわりと広がっていく。
「……大丈夫」
誰にも聞こえない声、それでも確かに。
この夜の中で――詩乃の中に、生まれたものは消えなかった。
「……今度は……私が……」
静かな寝室の中で、幼い寝息に寄り添うように、決意だけが確かに息づいていた。
🍑❄♡
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都築七美
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コメント
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寺島あおいです🤍 第8話、読み終えました。幸人の、責められない事情と、それでも乃亜にちゃんと向き合えなかった事実が胸に迫りました。「あの人と結婚していれば」――詩乃の名前が出た瞬間、切なくて。そしてラスト、詩乃が乃亜のオムツを替える場面、怒りと悲しみと決意が込められた「ごめんね」に心が震えました。小さな体を守ろうとする詩乃の静かな強さが、とても尊かったです。続きが待ち遠しいです🌷