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放課後の教室は、夕陽で少しオレンジ色に染まっていた。
黒板のチョークの粉が光を受けて、ほこりみたいにきらめいている。
「ここ、こうやって覚えたらいいよ」
私は龍のノートを覗き込みながら、地理の年号を教えていた。
龍が教えてくれた英語の文法を、今度は私が返す番だった。
机の上に広げたノートの端に、彼の手の影が落ちる。
その距離が妙に気になって、ページをめくる手が少し震えた。
「おまえ、なんか手冷たくね?」
「え? あ、ちょっと緊張してるのかも」
「勉強で?」
「……いろいろ」
龍は小さく笑った。
「おっちょこちょいのくせに、真面目なんだな」
「ひどい」
「褒めてるって」
その笑顔を見た瞬間、胸がくすぐったくなった。
誰もいない教室に、少しだけ沈黙が落ちる。
窓の外では、陸上部の掛け声が遠くに響いていた。
ドアが開いて、慎が顔を出した。
「おー、また一緒かよ。仲いいなぁ」
「勉強してただけだよ」と私が言うと、慎は口をとがらせた。
「ふーん。龍、おまえ最近帰るの遅いじゃん。ゲーセンも全然行ってねぇし」
「テスト前だし」
「そうだけどさー」
慎の声が、少しだけ不機嫌に聞こえた。
笑っているのに、目の奥が笑っていない。
「……俺、先帰るわ」
そう言って、慎は廊下に出ていった。
足音が遠ざかる。
私は、なにか胸の奥にざらりとしたものを感じた。
あの時の慎の表情──あれは、ただの冗談じゃなかった気がする。
「朔山くん、怒ってた……?」
「さぁな。あいつ、ちょっと子どもっぽいとこあるから」
龍は気にしていない様子で、ノートを閉じた。
でもその横顔がどこか曇って見えた。
──私が、ふたりの間に入っちゃったのかな。
その夜、寮の部屋でそのことを話すと、りこは髪をほどきながら鏡越しに私を見た。
「慎くん、あれでけっこう独占欲強そうだもんね」
「独占欲?」
「龍くんと一番仲いいの、自分でいたいんじゃない?」
「そんなこと……」
「あるある。男子も、友情にヤキモチ焼くもんだよ」
りこの声は軽かったけれど、私は笑えなかった。
あの慎の視線を思い出すたびに、心が少しだけ沈む。
──私はただ、龍と話してるだけなのに。
窓の外では、夜の雨が静かに降り始めていた。
カーテンの向こうに見える街灯がぼやけて、
それが、誰かの涙みたいに見えた。
文化祭の準備が始まったのは、十月のはじめ。
一年生の出し物は「学年展示」で、テーマは「未来のわたしたち」。
班ごとにパネルを作って、発表をする。
くじ引きで決まった班分けの紙を見て、私は思わず息を呑んだ。
「……倉橋くん、同じ班だ」
同じテーブルの席に、龍がいた。
周りは美術部の子や、少しおとなしいタイプの男子たち。
りこは別の班で、「えーいいなぁ!」と大きな声を上げた。
龍は「よろしく」とだけ言って、資料を開いた。
その声が落ち着いていて、なぜか胸の奥が少しあたたかくなる。
準備が始まると、龍は意外と器用だった。
展示用の模型の骨組みを作るときも、
「そこ、持っとけ」と言って手を伸ばしてくれる。
指先が少し触れるたび、息が詰まる。
「倉橋くん、細かい作業得意なんだね」
「まぁ、走るだけじゃ飽きるし」
「走るだけ、って……陸上部、そんな軽く言えるのすごい」
「おまえの数学好きと一緒だろ」
不意に笑う横顔が、すこし眩しかった。
クールなのに、近くで見ると全然違う。
声がやさしくて、笑い方がずるい。
昼休み、展示室の窓際で写真を貼っていたとき、
教室の外に立つ慎の姿が見えた。
彼は誰かを探すようにきょろきょろして、
ふとこちらに視線を向けた。
私と龍が並んでいるのを見て、
一瞬だけ、表情が止まった。
気のせいかもしれない。
でも、ほんの数秒のその沈黙が、
背中の奥に冷たい風を通した。
放課後、廊下で慎に声をかけられた。
「なあ、橋澤」
「え、あ……なに?」
「今日も倉橋と一緒?」
「展示の準備だよ」
「ふーん。仲いいよな、最近」
その言葉には笑いが混ざっていたけれど、
その笑いが、どこか痛かった。
「別に、ただの班が一緒なだけだよ」
「……そう。ならいいけど」
慎はそれだけ言って、廊下を歩き去っていった。
その背中は、いつもの軽さがなくて、
私はなぜか呼び止められなかった。
夜、寮の部屋でりこに話すと、
彼女は鏡の前で髪を結びながら呟いた。
「慎くん、気づいてるんだね」
「気づいてる?」
「凛と龍くんの空気。本人たちは気づかないふりしてるけど、外から見たらぜんぜん隠せてないよ」
「……そんなこと」
「うん、ある。あとね、男の子ってさ、恋でも友情でも“取られる”のがいちばん嫌なんだよ」
りこの声は軽やかだったけど、
その奥に、少しだけ優しさが滲んでいた。
私は窓の外を見た。
夜の風が木の枝を揺らしている。
展示室の模型に貼った未来都市の写真が、頭の中に浮かんだ。
──未来なんてわからない。
でも、あの笑顔だけは、今すぐにでも触れたかった。