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私は高校二年生のとき。同級生の黒須絢斗君と言う、一輪の黒百合のような美しい少年に想いを寄せ。
結婚出来たらいいなって思っていた。
しかし、想いは通じる事はなく。離ればなれになり。月日が過ぎて二十六歳を迎え、大人になって再会を果たした黒須君は私に──。
『契約妻になればいい』
と言った。
あまりの言葉に俯いていた、顔を思わず上げた。
そのままぎこちなく、私の横に佇んでいる人を見つめる。
その人は弁護士になり眼鏡を掛けて。
端正な美貌に磨きが掛かった、大人の男性に成長していた。
それは私の初恋の人。黒須絢斗君に間違いなかった──。
『再会』
ここは市内。
駅近くのビル高層階にある。松井法律弁護士事務所、応接室の一室。
部屋の隅に鮮やかな緑の観葉植物。
室内はカフェのような落ち着いたデザイン。
奥にある大きなブラウンのデスクも、壁にある書棚も私が座っているこのソファも。
すっきりとしたデザインで、柔らかい照明が、ここを訪れた相談者の肩の力を自然に抜いてくれるような設計。
都会にこれだけの部屋の大きさと、上品なインテリアを揃え。
弁護士事務所を構えることが出来るのは、素人目でもとても繁盛しているのが分かったし。所属弁護士の実績の高さも伺えると思った。
そんな一室で『契約妻』と言う発言を黒須君から聞いて、意味が分からず目を白黒させてしまう。
この部屋には私と黒須君だけで、いっそこれは私が望んだ願望。
数年ぶりにこうして思わぬ再会を果たし、我知らずのうちに。白昼夢でも見てしまったのかと思った。
こちらを静かに見つめる黒須君に思わず、問いかけたくなる。
(私のことを忘れてしまった? 私は一目見て思い出したのに。私。真白です。高校二年生の時、同級生でした。でも……私が約束を破ったから。黒須君は呆れて私の事なんか。きっと忘れてしまったのかな)
高校生の時、交通事故で父が亡くなり。引越しをして、色々とあって『南』の姓から。今は母の姓『櫻井』を名乗っている。
髪も胸下まで伸びたし、化粧だって多少は覚えた。
だから、余計に私だと気付かれないのだろう。
黒須君の名前と佇まいを見た瞬間、黒須絢斗君に再会出来たと一瞬で分かった。
でも。かつての級友だと名乗るには当時、黒須君との約束を破ってしまった後ろめたさがあった。
その約束を破ってしまった苦い思い出は、本当の事を語るにはあまりにも時間が経過していて、唇を重たくさせていた。
(それに、私がここに居るのはお母さんが事故に巻き込まれてしまって、その事を相談しに来たのだから……)
辿々しくも相談ごとを伝える。
昔の事を懐かしく語る場合じゃない。
そう思うのに、過去の『黒須君』との思い出に囚われ。胸中では密やかに黒須君と、想ってしまう。
それ初恋は今でも燻り続けている証拠。
そのせいで胸が痛み。私だけがずっと覚えていたことに、切なくなり。
その所為で、この年齢になっても男の人と深く付き合ったことなんかない。
でも黒須君は弁護士なんて立派な職業に就いて、こんな凄いところで働いている。
きっと私と違って、色んな素敵な女性達とお付き合いだってして来たのだろう。
だから、私のことなんか忘れて当然。
そう思いつつ。なんとか相談事を伝えて。
俯いてしまったところに、はっきりとした言葉が耳朶を打った。
「契約妻。これは貴女にも利点がある。──先ほど貴女は誰とも交際していないと言った。誰にも頼る人がいないと。お祖母様とお母様の三人暮らし。そのお母様が十字路での車での接触事故に巻き込まれてしまった。防犯カメラの映像はなく、それをいいことに加害者からの謝罪はなし。挙句、加害者が車の修理費用をお母様に請求。貴女はそれが許せなくて。法律に頼って此処に来た」
はっきりと黒須君に言われ。
契約妻と言う言葉にびっくりするが、過去の事を思ってる場合じゃないと。
一先ずはただの相談者として。
しっかりと母の代わりに相談しなくてはと、気持ちを入れ替えた。
「その通りです」と、口を開いた。
自転車に乗って出掛けていた母は、十字路で一時停止線を無視した車と衝突してしまった。幸いに母に大きな怪我はなく、足を捻ったぐらい。幸いにも命は無事だった。
しかし、相手側は母がよそ見をしていた。車のフロント部分に傷が付いた言いたい放題。
おまけに謝罪も治療費もなし。
壊れた自転車とその場に茫然とする、母を置き去りにして去って行ったと言う。
(その後、通り掛かった人が母を病院に連れて行ってくれて、本当に良かった)
その非常識な相手は地元の有名な名士な人で。|九鬼史郎《くきしろう》氏と言う。
その有名というのも、どちらかと言うと悪名が高くて有名。
手広く飲食経営から、ラブホテルの経営などをしているがワンマン社長。一族経営で経営のやり方に逆らったら、あっと言う間にクビにされる。しかも、政治家にも顔が効くのだとか。
母は自宅の一軒家で華道教室を開いていて、そんな九鬼氏相手に波風が立つのを恐れた。
気後れしてしまい、事故の後。警察に相談する事を躊躇った。
それを良い事に先日。家に九鬼氏から三十万円程の、車の修理費の請求書が届いて、大変驚いたのだった。
こんなことはおかしい。母は何も悪くない。
謝罪すらしない、九鬼氏に怒りを禁じ得なかった。
だから、代わりに私が警察に相談しに行った。九鬼氏に治療費と謝罪を求めたいと。
そうすると母に大きな怪我が無かったことや当時の状況から。刑事事件で訴えるより、民事での示談を進められた。
(母は相手が誰だか分かったから。揉めたくない一心で一番最初に警察を呼ばなかった。それを悔やんでも仕方ない。病院には行って一応診断書は取っているけど、なんでこちらがお金を払わなくてはならないの)
母は今も事故の捻った足の具合が良くなく。気落ちしてしまっている。母が自分が悪かったと、自分を責めているのを見るのが辛かった。
このままじゃ、やり切れなくて。
地元の小さな弁護士事務所ではなく。
少し離れた隣の市の有名弁護士事務所を頼り。
こうして、思わぬ黒須君との再会にびっくりしたのだった。
思わず今までの事を整理するように考えていると。
「考え込むのはわかる。でも、藁にも縋るような気持ちで此処に居る。今なによりも必要なのは、弁護士の私のはずだ」
「っ!」
すっと耳元で蠱惑的に囁かれてしまい。
思わず黒須君を見た。
近くでみる黒須君はあの頃と変わらず、黒百合みたいな美しい佇まいに端正な顔立ち。
近くで見るとその美貌にたじろいでしまう。
学生の頃と変わらない艶やかな黒髪は後ろに緩く撫で付け、切れ長の瞳はスクエアレンズのリムレス眼鏡を掛けていた。
高校生の頃は眼鏡なんか掛けて無かった。
今は眼鏡を掛け、その怜悧な美貌に拍車を掛けていると思った。
高身長の手足の長い体躯は、黒の仕立ての良いスーツに包まれていて、大人の男性の色香を纏うほどに魅力的。
それでも私は昔の忘れられない記憶。
高校生のとき。同級生だったブレザーを着ていた思い出の中の『黒須君』と被って仕方ない。
その綺麗な瞳の形も、整った鼻梁に、形の良い薄い唇も。あの頃の面影を宿したまま。
私もあの時の気持ちのまま。
今も想っている。
そんな私の気持ちも知る筈もなく、黒須君は淡々と、念を押すように。
「私と結婚して妻になればいい。と、言っても契約妻で構わない」
と、言ったのだった。
「契約妻……」
思わず言葉を繰り返す。
「そうだ。契約妻になればいい。妻になれば弁護を無料で引き受ける。妻を助けるのは夫の役目。何もおかしいことはない」
「そんな、いきなり。それに契約妻って……」
「私は今、ここの所長からお見合いを勧められていて穏便に回避したい。所長には随分お世話になっているし。だから非常に断り難い。今はまだ身を固めるより、もっと実績を積みたい。仕事に邁進したい」
「……黒須先生なら私なんかじゃなくて、」
もっと素敵な人が居るのではと、口籠もる。
「私に今お付き合いしている女性など居ない。知り合いの女性にこんな事は頼めない。所長やこの業界と全く縁のない女性を丁度、探していた。その方が契約が終了した後、後腐れがない」
いわばビジネス。お互いの為だと、黒須君は冷たく言い放つ。
私はまだ混乱していて、上手く言葉を飲み込めない。ただ、昔の面影を探すように黒須君を見る。
「こんな提案は弁護士として、信用に欠けるのは重々承知の上。しかし。何故か……櫻井さんには親近感を覚えた」
ふいに、優しい眼差しを向けられ。
その言葉に胸が高鳴る。
私を見つめたまま。黒須君はすっと、眼鏡のブリッジを長い人差し指で緩やかに押した。その動作は実に優雅だった。
(その指先の動き。高校生のときと変わってない)
ずっと好きだった人。
忘れられない人からの偽りの求婚。それが契約で。終わりが見えていても──愛がなくても。
私のことを覚えてなくても。
好きな人の側に居たい。積年の想いを叶えたい。
(これは幸せな結婚なんかじゃない。高校生の時に思っていたものとはかけ離れていても、私は偽りでも──貴方のお嫁さんになりたい)
私がいま此処に居る理由よりも、胸にずっと秘め続けていた気持ちが勝ってしまい。
契約妻の申し出に、首を縦に振るのだった。
私が頷くと、黒須君は一言「良かった」と実に冷静に呟いたあと。
すぐに相談内容を明瞭に答えてくれた。
民事として訴えるのなら少額訴訟がいい。控訴は出来ないが長引くこともない。
謝罪もしない相手だったら、心からの謝罪を求めるより問題の短期解決を目指す。
相手の車の修理費用なんか払わなくていい。
こちらの負担が少なくすることを、視野にいれること。
さらに弁護士を付けたことで『謝罪した方が得』と相手側に、思わせるのも良い。
早期解決を提示して、落とし所をこちらで作る方が相手が受け入れやすいなど──淀みなく。
分かりやすく、ポイントを伝えてくれた。
その様は堂々としたもので、本当に弁護士になったんだと。同い年なのに凄いと尊敬の眼差しをむけてしまう。
でも、相談はこうして娘の私でも出来るけど、訴えるのは本人。母の意思が必要だと言うこと。
仮に訴えない方向で。示談と言うことでも力になると言われ。
それは暗喩的に『契約妻』はどんな形にでも、なって貰うと言う念押しにも聞こえた。
まずは母に相談してみます。と言うことを伝えると、相談時間の三十分はあっと言う間に終わった。
黒須君はこの後も他の面談があると言うことで、黒須君の名刺を貰い。
私も勤め先の名刺の裏に、スマホの番号を書いて渡した。一先ず連絡先を交換して後日に、今後のことを話そうと言う事で私も了承した。
何しろ黒須君との再会。
そして『契約妻』
思いもしない出来事で頭がいっぱい、いっぱい。こんな事が無かったらもっと、黒須君とお話ししたいとは思ったけれども。
今は一度、一人でゆっくりと頭を整理したかった。
だから、部屋を後にしようとした私の背中に。
『九鬼氏の案件とは。アイツの出番だな』と、小さく呟いた黒須君の声が聞こえた。
それは意味深に聞こえた。ただ、独り言だろうと思い。
「ありがとうございました。では……また」と。手短な挨拶だけをして。
さっと、部屋を後にしたのだった。
弁護士事務所の受付の方に挨拶をして、エレベーターで降りてビルの外に出ると。
日差しや街路樹の緑が眩しく、絶好のお買い物日和だった。
「まさか、黒須君に出会うなんて」
ふっと、何とも言えないため息が溢れてしまう。
法律事務所に来る前は、相談後にフラワーショップの店員として働く者として、気晴らしも兼ねて新しいフラワーショップのチェック。
そして、少しデパート巡りでもしようかと思っていた。
しかし、黒須君との再会や『契約妻』と言う事に直面して気持ちの余裕がなくなってしまった。
「今日は早く家に帰ろう。それにしても契約妻だなんて、頷いてしまったけれども。本当になっていいのかな。それに契約妻って、何をしたらいいんだろう」
駅に向かう雑踏の中、本心を吐く。
妻と言うのだから、きっと家事洗濯とか。妻の役割をするのだとは思うだけども……子供は流石に作らないと思う。
「契約妻だもんね。いつか契約が切れて、終わり……」
契約の間に、黒須君は私のことを思い出してくれたりするのだろうか。
でも、過去の事を忘れずに。自分の気持ちを優先してしまい、契約妻に二つ返事をしてしまった。そんな浅はかな私の事を軽蔑するかも知れない。
(思い出して欲しい、なんて言えないな)
心がちくりと痛み。手にした鞄の取ってをきゅっと握る。
「今はそれよりもちゃんと、お母さん達に今日のことを報告しよう」
九鬼氏の要求を突っぱね、心からの謝罪が無くても。向こうが悪かったとちゃんと決着が付いたら、母の気持ちが少しでも上向きになるのではと思った。
だから、胸の痛みを忘れるように。ひとまず契約妻のことを頭の片隅に無理矢理に追いやる。
(せめて、家にお土産は買っていこう)
気落ちして華道教室をお休み中の母や、弁護士事務所に行く私を心配してくれている祖母に、お土産をと思い。
駅のスタンドショップで和菓子屋があったと思い出して、そこで幾つか和菓子を購入しようと思ったのだった。