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乗り込んだ電車は昼下がりと言うこともあり、空いていた。座席に座り。膝の上に先ほど購入した和菓子を乗せて、電車の揺れる音を聞いてやっと気持ちが落ち着いた気がした。
そして目の前の座席にいる、高校生の仲睦まじいカップル。彼女に語りかけている、学ランを着た少年の姿を見て記憶が刺激される。
(黒須君は同年代の男の子達と比べると、身長がスラリと高かったな)
今でも瞼を閉じると、高校生の黒須君の姿が鮮明に浮かぶ。
艶やかなさらりとした黒髪。切れ長の瞳は睫毛が長いせいか、憂いを帯びた柔らかな印象。制服の学ランがより、知的さを引き立てて良く似合っていた。
高校生なのに大学生みたいな大人ぽっくて、賢くて。男女共に人気者だった。まさに高嶺の花的な存在。
そんな黒須君の周りにはいつも人が居て、私は物陰から見るだけで胸をドキドキさせていた。
そして高校二年生のとき。同じクラスになれた。近くで見る黒須君はやっぱり素敵だったが、ある事に気が付いた。
それは私の祖母が華道の先生をしていて、お母さんも華道の先生。必然と私もお稽古事として華道を習っていたが、その華道の精神。
それは『礼儀作法を大事にし。修行や稽古を重ねる。 お花の命を尊び、生ける人の精神性を豊かに高めれる』──と言う事なのだが。
当時の私にはちょっぴり難しく。
中々、華道の精神を掴めずにいた。先生にお願いされて美化委員の活動の一環として精々、月に数回。教室にお花を活けて皆に喜んで貰って。それでいいかなって思っていた程度。
なのに黒須君は私が掴み損ねている、華道の精神。私が祖母や母から感じる、同様の折目正しさを黒須君に感じたのだった。
思えばそう言うところに、惹かれたのが最初。
(さっきの黒須君も物凄く落ち着いて、背筋もピンとしていて綺麗だった。変わらないな)
他に惹かれたのは所作が美しいとか。物を乱暴に扱うことなく丁寧。
筆記用具や鞄とかもシンプルな物を使っていて、流行りに流されないところとか。
黒須君は確固たる、自分と言うものを会得しているように思った。
(そうして、気が付いたら好きになっていた。私なんか全然子供ぽっかただろうな)
何しろ同級生の男子生徒と話すのが、なんだか気恥ずかしくて。女の子達とばっかり喋っていた。
そんなことを思い出し。ふと苦笑するとガタンと、電車の揺れを感じ。何気なくまた、前を見る。
目の前では学生カップルが、まだお喋りに夢中になっている。どうやら将来の夢について話しているようで、とても微笑ましい。
「……そうだ。黒須君のお家、裕福だったもんね。頭も良かったし。それで弁護士になったのかな?」
将来の夢を聞くような関係では無かった。
でも、再会した黒須君が弁護士になったのはピッタリだと思った。
(私が勇気を出して告白していたら、黒須君と将来の夢とか語りあったのかな)
目の前の学生カップルを見て。ついそんなことを思ったけれども。
当時、黒須君を好きな女子は私の他にも沢山いて、私はその中の『沢山』にしか過ぎない。
だから告白する勇気なんかなくて。
ただ想っていた。
デートしたら楽しいだろうな。
黒須君に合うお花をプレゼントしたいな。
──結婚出来たらいいなとか。
そんな言葉を伝えるはずもなく。
時折、放課後にお花を活けていたら黒須君から『いつも花を活けてくれてありがとう。綺麗だね』って声を掛けて貰えるだけで充分だった。
けど、夏休みに入る前。転機が訪れた。
それはいつものように放課後、お花を活けていたら黒須君に声を掛けられた。
それは夏祭りを一緒に行こうと、言うお誘いだった。
いつも落ち着いた雰囲気の黒須君が、少し頬を染めて。目線を少し泳がせながら。照れくさそうに夏祭りを誘ってくれるなんて、夢のようだった。とてもとても嬉しかった。
勿論、直ぐに返事をした。
絶対に行く。台風でも行くと前のめりに返事をすると、黒須君は華やかに笑ってくれて。
──俺も南さんが来るまで、ずっと待ってるよ。
と、言ってくれた。
なのに。
「なのに私、約束を破ってしまった。行けなかった」
小さく呟いたのと同時に、電車のドアが開いた。
気がつけば最寄り駅で、慌てて電車を降りる。
降りるとき、学生のカップルとすれ違う。その二人の姿に、思わず私と黒須君の影を重ねてしまう。
約束を守っていたら、こんな風に手を繋いで。お喋りに興じて、色んなところにデートしたかもしれないと。甘くも苦い妄想をしてしまいそうになり。
「もう。しっかりしないと」
小さく、頭を振って改札口を目指すのだった。
家に帰り、すぐに母の部屋に向かった。
母の部屋に行くと、母は花を活けていた。
栗色の座卓の上にはすらりと、背の高い水色の花器。
その隣には新聞の上に横たわる、瑞々しい水仙の花。切り鋏など。
スッキリと整理された和室に、微かに水仙の甘やかに漂う香りが心地良かった。
きっと、玄関の花を入れ替えようしていたのだろう。
「お母さん。ただいま。弁護士先生のところに行って来たよ」
明るい口調で、いつものように座卓の前に座る。
「おかえりなさい。本当に行って来たのね」
「だって、車の修理費用なんか絶対に払いたくないもん。むしろ、壊れて使えなくなった自転車の費用に慰謝料。こっちが請求したいぐらいなのに」
「それはそうだけど」
母は困ったように笑って、手に鋏を持ち。水仙の葉をパチリと切った。
そのまま手を動かす母に、黒須君から言われた言葉を伝える。短期で決着が付く少額訴訟が良いと。
何よりも相談した弁護士の人が凄く心強いと。
流石に契約妻だとか。同級生の黒須君だったとかは伏せた。そうして、最後はやっぱり母の決断が必要だと言った。
すると、母は柔らかい水仙の茎を持て余すように手が止まり。
「真白ちゃん。ありがとう。でもね、お母さん。此処に稽古に来てくれる人や、真白ちゃんに何かあったらどうしようって思ってしまって……」
「お母さん。だからって絶対修理費用なんか払ったらダメだよ。お父さんが死んだ理由だって、相手のよそ見運転だったじゃない。だから私、絶対にこのままなんて納得出来ない」
口に出すと思い出す。
私の中では父が死んだ日と。
黒須君との約束を守れなかった思い出は、セットなのだ。
父が亡くなった日。それは黒須君と約束した、夏祭りの日だった。
約束の当日。
私は母にお願いして、髪の毛を可愛くアップにして編み込みにして貰い。白地に紫陽花が描かれた浴衣を着て。約束の会場に向かう途中で──帰宅途中のお父さんが交通事故に巻き込まれて、亡くなったと私のスマホに連絡が来たのだった。
訳も分からず、一目散に来た道を戻り。母と一緒に病院に駆け込んだ。
病院に到着して直ぐに。
お医者様から「心肺停止の状態です」と告げられたのは今でもはっきりと、覚えているのにそこから記憶が酷く曖昧で。
記憶は断片的で。細切れで。泣く母と祖母。病院。お医者様。物言わぬお父さん。白いお花。お葬式。黒い喪服。涙。
そんな事しか思い出せない。
その間、母は喪主や葬儀の対応。交通事故の加害者とのやり取りで疲れ果て。体調を崩し。祖母の実家を頼り、夏が終わる前にここに引越した。
気が付いたら夏が終わっていた。
あっという間の出来事。
父の四十九日を過ぎた時に、やっと気が付いた。黒須君との約束を守れ無かったことを。
好きも。さよならも。行けなくてごめんなさいも、言えず仕舞い。
スマホは私が酷く動揺していたのか、いつの間にか落としていたらしく。画面にはひびが入り、電源が入らなかった。
連絡したくても連絡手段が見つからなかった。
勿論、会いに行くと言う手もあったが──怖かった。
黒須君は優しいから、怒る事なんかないだろう。
でも、きっと。待ち合わせの場所でずっと待っていてくれたと分かったら、なんと言っていいか分からない。
しかも時間が経ってしまい、一言もなく引っ越してしまった。
もう、何を言っても今更過ぎる。
きっと黒須君も迷惑だろうと──それっきりになってしまったのだった。
そんな思い出に浸り。知らずのうちに部屋に沈黙が広がっていた。
また母がパチンと鋏で葉を落とす音に、思い出から現実に引き戻された。
母を見ると、水仙の葉を落とし終え。茎の角度を調整しながら花器にすっすと、バランスよく花を刺していた。
「真白ちゃん。ありがとうね。お母さんも真白ちゃんの言う通りだと思う。ちゃんと請求書なんか払いませんって言って、裁判した方がいいとは思う。でもね……ちょっと、お父さんが亡くなったときの事を思い出してしまって。どうしても辛くてね……ごめんなさい。もう少しだけ時間を頂戴」
「お母さん」
「年を取ると、不安ごとばかり考えちゃうの。ダメよね。さ、水仙も活け終わったし。お茶でも淹れようかしら。ほら、真白ちゃん。おばあちゃんも呼んできて」
この話はいったん終わりと言うように、母は明るく笑った。
それを見て今日はここまでかなと。あまり無理な事はしたくない。
それに請求を要求された期限まで、まだ日にちに余裕がある。
(日にちといい。三十万円と言う金額なんて、こちらの足元を見てるみたい。本当にいやらしいやつ!)
憤慨したい気持ちを抑えて。
「分かった。実はね和菓子買って来てるの。お父さんの好きだった、栗羊羹もあるから皆で食べよう」
そうしましょうと、笑う母に一先ずはほっとするのだった。
色んな悩みがあっても、夜は深けて朝がくる。
そして仕事に行かなければならない。
私の勤め先。街のオフィス街にあるフラワーショップ。
『printemps《プランタン》』フランス語で春を意味する。コンクリート打ちっぱなしのアトリエ風の内装が花を引き立たせる、綺麗なお店。
規模はそんなに大きなショップではないが、土地がら贈答用に使われる事が多いお店で、それなりに忙しい。
何しろ生花。雑に取り合うことなんか出来ない。
お客様が来なくても、生花のお手入れや床の清掃。鉢物の手入れなどに余念がない。
それにweb注文のメールオーダー。フラワーアレンジメントの配送の手配。日々の発注。等々。やることが多い。
出勤後はすぐに、大事な生花の水揚げ作業から始まり。あれよこれよとしているうちに昼休憩。
バックヤードから店頭に戻ってきたら、タイミング良く私を贔屓にして下さる、常連様が来てくださった。
それはこの近くに喫茶店を出しているママさん。今日のオーダーはクールな花束。お店のメインカウンターに置くと言うことだった。
お喋り好きなママさんの話を聞きながら。
紫のトルコキキョウにライムグリーンのビバーナム・スノーボールをメインに選び。
冷めたグリーンカラーのユーカリをあしらって、清涼感あるクールさを目指して、ブーケが出来上がったけれども。
何となく。昨日の黒須君の雰囲気に近しいものを作ってしまってちょっと、恥ずかしくなってしまった。
ママさんは「今日のはなんだか、艶やかな仕上がり」と、喜んで下さったのは結果的には良かった。
(だって昨日あんな事があって。黒須君からメッセージが来るかもしれないって思うと、そわそわしちゃうから)
こうして、ふと気が緩んだ時に黒須君の存在を思い出してしまう。休憩中はずっとスマホを意識してしまっていた。
(私から連絡した方がいいのかな。でも、弁護士の人って忙しいと思うし)
今日一日は様子見かなと思っても。落ち着かなかった。とはいえ、仕事は午後も残っている。
気持ちを切り替えないと思いながら、紫のブーケ持ったママさんをお店の外まで見送った。
「さ、次はミニブーケの量産をしようかな。朝に結構売れちゃったしね」
ママさんの背中が雑踏に消えて。
ふっと、軽く息を吐いてお店に戻ろうとすると。
「すみません。私にも花を貰えますか?」
聞き覚えのある声がして。振り向くと、雑踏の中でも目立つ整った容貌の男性。
黒須君が立っていた。
黒須君はダークシルバーのスーツを着こなしていた。まるでモデルみたいで、伸びやかに咲くカラーの花を彷彿させた。諸説あるがギリシャ語で「美しい」を意味する「カロス」が語源であると言われている、カラーの白い花。
そんな事を思ってしまう程に、存在感があった。
実際、黒須君は道行く女性達の注目を浴びていたけれども、その眼差しは私に向けられている。それだけで心臓がキュッとなる。
そんな黒須君の登場で、私も目を奪われてしまうが、はっとして何とか声を出す。
「く、黒須さん。どうしたんですかっ」
「そんなに驚かなくても。近くに寄ったので顔を見に来ました。良い所にお勤めされているんですね。櫻井さんにピッタリだ。あと、さん付けで呼ばなくても結構。呼び捨てでも構いません。妻になって貰うので」
「!」
さらりとそんな事を言われて、びっくりする。
同時に同僚達に聞かれてないか、周囲の様子が気になってしまうが黒須君は、至って落ち着いた様子で。
「そう、それと今からクライアントに会いに行くんです。その人が花が好きなので、手土産にしたいと思って」
すっと、眼鏡を触りながら花を見つめる麗人に見惚れてしまいそうになる。でも、今は仕事中だと自分に言い聞かせる。
(びっくりした。お店に来てくれるなんて。そうか、昨日名刺を渡しているから、ここの場所が分かったんだ。来てくれて嬉しいな)
そんな気持ちは胸に秘めながら。下の名前で呼ぶことなんか出来ないと思いつつ。いつも通りを心がける。