アオイは、ナギから届いた二通目の手紙を胸に、「海猫軒」の窓辺に立っていた。
目の前に広がる穏やかな海は、10年前、孤独な少年が逃げ場を求めて描いたキャンバスだったのだ。
ナギの「絵を描くことしか得意なことがない」という言葉が、アオイの頭から離れない。
都会でデザインの夢を諦めたアオイは、才能とは、評価されて初めて価値を持つものだと思い込んでいた。
しかし、時を超えて届いたナギの絵への情熱は、
才能とは誰かの評価ではなく、自分自身の心の灯りであることを教えているようだった。
アオイは、三通目の手紙を書き始めた。
ナギへ
*手紙ありがとう。君の言う通り、これは*心だけの文通*。そして、私は君の未来のファンです。*
君の描いた海の絵、もっと聞かせて。
どんな色を使った?波の音は聞こえた? 海猫軒から見えるこの海は、朝、昼、夕方で全然違う顔を見せるよ。
*朝は、まるで*透明なガラス*みたいに澄んでいて、夕方は*溶けた金みたいに輝くんだ。
私からの小さな未来の情報として、これを伝えるね。
*もし君が今、持っている絵を、手紙にそっと*入れてくれたら*、私が大切に預かっておくよ。*
10年後の未来まで、誰にも見せずにね。
君が大人になって、もし画家になっていなくても、このポストを思い出してくれた時、
*君の*「夢の原点」を、君自身に見せてあげたいから。
勇気を出して。君の絵は、未来でも誰かの心に届いているから。
アオイは手紙をポストに入れ、祈るように翌日を待った。
ナギの返事が届いたのは、翌日の午後だった。
アオイがコーヒーを淹れている最中、ポストから微かな金属音がしたような気がした。
蓋を開けると、ナギからの手紙に加えて、薄い紙が二つ折りにされて入っていた。
それは、ナギが描いた海のスケッチだった。
まだ鉛筆画だが、その線は驚くほど繊細で、海の色を想像させる力に満ちていた。
特に、画面中央に描かれた小さな漁船と、
それを照らす夕焼けの光は、12歳の少年が描いたとは思えないほどの完成度だ。
アオイの胸は高鳴った。
そして、ナギからの手紙を読むと、さらに驚愕する。
アオイさんへ
僕の絵、届きましたか?怖かったけど、アオイさんの言葉を信じてポストに入れました。
*その絵は、僕が*海猫軒の裏の岩場から見た海です。本当は金色なのに、僕にはうまく色が塗れませんでした。
船は、いつも漁に出ているタケシさんの船です。
タケシさんは、僕が絵を描いていると、「いい絵だね」*って、*僕の唯一のファンになってくれた人です。
(中略)
アオイさんが「君は未来で誰かの心に届いている」と書いてくれたこと、すごく嬉しかったです。
*僕が町を出るまで、あと*四通しか手紙が出せないけれど、アオイさんとの文通が、僕の勇気になります。
アオイは、手紙とスケッチを何度も見比べた。
スケッチに描かれた漁船と岩場は、紛れもなく、今、目の前の窓から見える風景だった。
そして、海猫軒の裏にある岩場は、今や誰も近づかない町の忘れられた場所だ。
アオイの祖母の日記にも、「あの子の秘密の場所」として記録されていた。
アオイは、ナギの絵が、誰の真似でもない、彼の純粋な視線で切り取られたこの町の風景であることを確信する。
そして、タケシさんという老漁師が、孤独な少年の唯一の理解者だったという事実に、アオイは感動で目頭が熱くなった。
(タケシさん…今、どこにいるんだろう)
ナギが抱える孤独が、彼をどれほど絵に駆り立てたのだろうか。
アオイは、ナギが町を去るまでの残りの数日、ただ励ますだけでなく、未来の証明を見せてあげたくなった。
「この絵を、10年後の世界で本当に誰かに見てもらうんだ」
アオイは、この小さな町の隅に眠っていた才能を、時を越えて世に送り出すことを決意した。
ナギの旅立ちまで、残り4日。
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