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それからしばらくして、夏休みも終わりを迎える頃。
あの集団に教授が介入した。
「あなたたちは、なぜこんなになるまで放っておいたのですか!!」
結構な高齢で、いつも優しく頷いていた教授が烈火の如く怒鳴り散らしたらしい。
あの集団にいた教育学部生たちは、なぜ怒られているのかまるでわからなかったそうだ。わたしも、何かヤバイとまではわかっていたけれど、理由までは思いつかなかった。
それでも、集団が作られた時にできたグループチャットを見れば、何が起こったかわかる。というか、少し考えれば誰でもわかることだった。
Kは学校に通っていない。
確かに今、うちの大学は夏休みだけれど。小学校の夏休みはもうとっくに終わっている。
そう、大学生の夏休みはおよそ8月から9月末までだけど、小学生の夏休みは7月21日から8月31日まで、期間が違うのだ。
わたしがKと夏休み半ばに出会った頃には小学生の夏休みは終わる頃だから、みんなでのんきにKを連れ回している間、Kはずっと学校に通っていなかったことになる。
これは流石に誰か気づいていたはずだ。
気づいていながら誰も口に出さなかった。
内心ではやばいと思いながらも気づかず、もしくは気づいていないフリをして責任を回避し続けた結果がこれだった。
事に気づいた教授の動きは早かった。
Kと面談し、虐待の疑いがあると判断した教授は即刻児童相談所に連絡し、Kの自宅にはケースワーカーが派遣された。
見えてきた全貌は想定以上に悪かった。
Kはそもそも学校に通っていなかったし、Kの父親は女のところに転がり込んだ入れ墨持ちで、元ヤクザ。なぜ元かと言えば、あまりにも粗暴すぎてヤクザを破門されたから、らしい。
その上、Kは住所どころか、戸籍すら判然としない。
どこからか拉致された可能性もある。詳細は不明だ。
明日にはKを元ヤクザから引き離し保護する方向で話が動いているらしい。
明らかに一介の学生が対応できる限界を超えていた。
もっと早く児童相談所、というか警察に連絡するべきだった。
そうしなかったのは、わたしたちに他人の気持ちを推し量ろうというきもち、配慮があったからだ。
きっとKは触れられたくないのだろう。
間違いだったら恥ずかしい。
そこまで大きな問題ではないかもしれない。
騒いで迷惑をかけたくない。
そして、真実を語らせて幼い子供を傷つけるのは、何も自分である必要は無い。きっと他の誰かがやってくれるはずだ。
自分が責任を持ちたくない。
そんな考えが思考のもやとなって、判断を鈍らせ、気づくべきことに気づかなかった。もっと言えば、気づけていながら気づかないフリをした。
これは教授も怒るだろう。
一番怒られるべきはわたしだと思う。
わたしがスマホを抱えて家でうなだれていると、強い酒を片手にあざとい服を着た I が話しかけてくる。
甘ったるいチェリーのような香りがするのは、そういうタバコを吸っているからだろう。
「ん? Kの話?」
「また、スマホ盗み見たでしょ。」
「あ、ばれた?」
I は悪びれずに言う。
性格が悪くなった上に元が噂好きなので、タチが悪い。
「私もあの話は調べたけど。Kって子、終わってるよね。」
こいつ本当に教員免許とるつもりなの?
「いや、だって。無理じゃん。」
そう言って、I は酒をあおり、細い葉巻のようなものに火を付けた。例のチェリーの香りがするやつだ。
「無理って何が?」
「私がその父親だったら、耐えられない。Kを連れてどっかに逃げるもの。」
「だから、Kに学校教育の機会は与えられないし。字もろくにわからないまま大人になる。」
は?
どういうこと?
I が覚えの悪い子供を見るような目でわたしを見て、目頭を指でつまみ、煙を吐く。わたしはイライラしながら突っかかった。
逃げる?
逃げるって何から?
「そりゃ、児童相談所とか。教授とか。警察とかでしょ。」
なんでそんなことするの?
「え、なんでって。恥ずかしいから。」
「まともに子供に教育を受けさせていないと批難されるのは恥ずかしい。」
恥ずかしい。
は? そんな理由で?
「そんな理由? 立派な理由だよ。頭のいい学者先生とか、児童相談所の職員とか、偉そうな警察とか、よってたかってやってきてぐうの音も出ない理由で、プライドをボコボコにされる。それも、頭を下げて、今まではダメでしたが、これから心を入れ替えてがんばります。と言わなきゃいけない。それも、言うだけでなく、行動も求められる。大の男がこれをやられたら、たまらないでしょ。」
「あ、正しいとか、間違ってるとか。そういう話じゃないから。傷つきたくない、嫌な思いをしたくない、そう思えば人は逃げるよ。嘘だってつく。当たり前じゃん。どっかの誰かが押しつけてくる正しさより、自分のプライドでしょ?」
ぐうの音も出ないのはわたしの方だった。
なぜわたしはこれに気づけなかったのだろう。
「んー。心が綺麗すぎたんじゃない? 大人がそんなにひどいことをするわけないと無邪気に信じていたとか。そこらへんじゃないの?」
I の笑みに、気圧される。
これまで見ないようにしてきた内面をえぐり出されるようだ。
「図星か、傲慢だね。あんた昔はそんなじゃなかったのに。変わっちゃったよね。」
I は残念そうに笑うと、蕩々と歌うように語り出した。
「過ちは正されなければならない。間違いを認めるのは当然。悪事を成したら悔い改めて、正しく生きる為に努力する必要がある。まぁ確かにそうだけどさ。みんながみんな、そんな風に正しく生きられるわけないよね? 面倒くさいし。」
「そういう、正しく生きられない人を想定していないからそんなことになるんだよ。あんたの中じゃ、そういう人間はこの世に存在しなかったってだけでしょ。うわー、傷つくわー。ちゃんと生きられない人間だって、いるのにねー。私みたいに。」
I が酒をあおる。
「少し考えればわかることよ。女のところに転がり込んだ男が次に何をするかって、別の女のところに転がり込むしかない。素性はどうあれ、ここまで育てるのに金も時間もかかっているわけだから、子供を手放そうとは思わない。だから連れて行く。自堕落な人間はサンクコスト効果からは逃れられない。」
「ただ、Kとその父親からすれば、これまでと同じ事を繰り返すだけなんだよね。それにさ。そもそも、ケースワーカーに伝えた名前、本名なわけないじゃん。どうやって追うの?」
I はすっかり堕落したものだと思っていたけど、そんなことはなかった。むしろ、わたしよりも遙かに人の弱さを理解している。
勝手に人をバカにして、距離をとっていたのはわたしの方だ。
人に頼ることを恥じて、自分でなんとかしようとして、何もできなくて。結局逃げてしまうのは、Kの父親もわたしも同じなのだろう。
こんなことはもう、終わりにしなければ。
「え、最後にKに会いたい? 普通に会ったらいいじゃん? ただ、会いたいなら急いだ方がいいと思うよ。明日にはいなくなってるだろうし。」
I は何の気なしにそう言った。