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第1話 ネオンの奥底で
歌舞伎町の夜は、いつも湿っている。
安い酒の甘ったるい匂いと煙草の煙が絡まり合い、その奥に、どこか乾いた血の鉄臭さが紛れている。
気づかない人間は、気づかない。
けれど一度気づいてしまうと、この街の空気は少しだけ変わる。
俺はコートの襟を立て、狭い路地を抜けた。
水溜まりにネオンが歪に映る。 足を踏み出すたび、べちゃり、と鈍い音がした。
今日の目的地は⎯⎯ホストクラブ AQUA。
組織の資金を最後に洗い流す場所だ。
ここでは自らを「淵(エン)」と名乗る。
ただの客として、席に座る。
素性を隠す。 感情を殺す。
相手の隙だけを、拾う。
それが、俺の生き方だ。
扉を押し開ける。
湿った熱気が、肌にまとわりついた。
低く沈むベースに、女の媚びた 笑い声。
氷がグラスに触れる乾いた音。
店内は、青い光に沈んでいた。
物凄く深い青。
海の底にいるみたいに、すべてが少しだけ歪んで見える。
俺はカウンターに腰を下ろし、ウイスキーのダブルを頼んだ。 グラスを受け取り、縁に指をかける。 そのまま、視線だけを店内に流した。
客の視線。 黒服の立ち位置。
奥の扉。
嫌な癖みたいなものだ。
何を見るでもなく、とりあえず全部を見る。
これが、俺の日常だった。
そのとき、ステージの照明が落ちた。
空気が、ほんの少しだけ動いた気がする。
銀がかったブロンドヘアの少年が、ゆっくり顔を上げる。 白い肌は、青い光に透けるように照らされている。 その中で、瞳だけがやけに鮮やかだった。
俺の指が、グラスの縁で止まった。
底の見えない青だった。
夜の海底を、そのまま閉じ込めたような色。
少年が微笑む。
そのとき、瞳の奥で何かがかすかに揺れた。
少年はマイクを手に取り、ゆっくりと歩き出す。 歩き方が綺麗だった。
人に見られることに慣れている歩き方。
「皆様、こんばんは。蒼です」
声は甘く、低い。
少しだけ、異国の響きが残っている。
客たちの呼吸が、わずかに変わる。
誰も声は出さない。
でも、空気が静かにざわめいている。
理由はすぐにわかった。
あの目だ。あの、瞳の色。
それが、この少年の名前の理由。
蒼。
きっとその名は、商品としての、美しい烙印。
少年は音楽の上をなぞるように落ちて、店内の空気を柔らかく撫でる。
ステージが終わる。
少年は客の間を縫うように歩き、俺の隣に座った。 距離は近い。 意図的な近さだった。
シャンプーの匂いが、微かにした。
この街では珍しい、清潔な匂い。
「見ない顔…新しいお客さん、ですね」
蒼はグラスを傾け、こちらを見上げる。
視線が絡む。
吸い込まれそうな青。
接待のプロの視線だ。 隙はない。
俺は名乗る。
「淵(エン)だ。好きに呼んでくれ」
蒼の唇が小さく弧を描いた。
笑顔も完璧だった。 ただ、目だけがほんの少しだけこちらを探っている。
「エン、さん…日本人なのに、変わったお名前なんですね」
甘い声。 軽く傾く首。
柔らかい仕草。
でも視線は確かに鋭い。
この少年は、気づいているんだろうな。
俺がただの客じゃないことに。
俺もまた、蒼の瞳を見ていた。
作り物みたいな微笑み。
でも、その端には小さな揺らぎがある。
完璧すぎる笑顔は、逆に不自然だ。
だからわかる。
この少年は、
何かを隠している。
「エンさん、もしかして…私の目、気に入っていただけましたか?」
接待用の問い。
俺はグラスをゆっくり回す。
氷が、かすかに鳴る。
「…ああ。なかなか忘れられない色だ」
蒼は、ほんの一瞬だけ笑みを深くした。
さっきまでの営業用の笑顔とは、少しだけ違う気がした。
気のせいかもしれない。
でも、ほんの少しだけ。
⎯⎯嬉しそうだった。
そのとき。
店の奥から声がかかった。
「蒼。ボスがお呼びだ」
黒服の男が蒼の肩に手を置く。
蒼の表情が、一瞬で仮面の笑顔に戻った。
「それでは、またお会いしましょう。 エンさん」
立ち上がり、軽く手を振る。
蒼の背は青い光の奥へ消えていった。
グラスの氷が、遅れて鳴る。
カラン。
俺はウイスキーを飲み干した。
そのとき。
カウンターの上に、小さな紙切れが残っているのに気づいた。
さっきまで蒼が座っていた場所。
客への営業メモかと思った。
…が、違った。
そこには、走り書きが一行だけ。
『あなた、本当は誰ですか?』
顔を上げる。
店の奥の廊下。
蒼が、一度だけ振り返っていた。
青い瞳が、まっすぐこちらを見ている。
試すような目。 笑っているようにも見える。
逃がさない、と言われている気もした。
その瞬間、思った。
この店に来たのは⎯⎯⎯
たぶん、 間違いだった。
それとも。
はじめから、そうなるように決まっていたのか。