コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
メッセージを打ち終わった直後、今度は実家の母から着信があった。
いつまでも隠し通せないのはわかるけど、どうやって告げればいいだろう。初孫の誕生を心待ちにしてくれたのに、こんな結果になってしまったことはとても悲しむだろう。母の気持ちを想うとさらに辛くなった。
でも、逃げるわけにはいかない。
いつか伝えなきゃいけないのだから。
骨壺を抱きしめ、深呼吸して電話に出た。「はい」
『律? もー、全然連絡くれないし、いったいどうなっているの? 昨日予定日だったよね? 検査だから電話に出れないってそればっかりだけど、いったいどうなってるの。詩音ちゃん、もう産まれそう? もしかしてもう産まれた!?』
電話の向こうからは明るい母の声が聞こえてきた。
なにも知らない人に地獄の宣告をして回らきゃいけないのかと思うと、早くも挫けそうになった。一番話しやすい実の母ですら、口に鉛を詰め込まれたみたいに重く苦しかった。次の言葉がでない。
喉の奥から言葉を絞り出すのに、身体が切り刻まれるような痛みを感じた。
「ごめん……だめだった」
『え? ごめん? なにが?』
「詩音……お腹の中で亡くなってしまって。……死産だった」
母が息を呑んだ。必死に次の言葉を探しているようだけれど、吐く息が震えていて声が詰まっている。
『……それはあの……辛かったね。なんて言ったらいいか……』
「うん」
『えっと、今、どうしてるの? 今からお見舞い行ってもいいの? 面会時間過ぎてるかな? 特別に……っていうわけにはいかないかもしれないけど、一度、病院の方にお見舞いに行ってもいいか聞いてみてくれない?』
「ううん。もう退院して新居に帰ってきたから。だからお見舞いはいいよ。病院行っても私はいないから」
『退院って……えっ、どういうこと?』
母は困惑している。寝耳に水の話の上に、急に退院したと聞かされたらそうなるだろう。順を追って説明しなきゃ。
「今日は光貴のデビューライブの日なのは覚えてるよね? 光貴がすごく大事な舞台を控えているから、連絡されても困るし、詩音が亡くなったことはみんなには黙ってた。予約がうまく取れなくて、遺体も置いておけるところもないから、火葬まで済ませて帰ってきた。言えなくてごめんね。光貴のご両親にもこのことを伝えなきゃいけないから、もう切るよ」
『えっ、律、どういうことっ!? 光貴君のご両親も知らないなんて、どうしてそんな大事なことを黙って勝手に一人でいろんなことを済ませてしまったの!! だったら詩音ちゃんのこと、光貴君も知らないの!? そんなばかなことはないでしょう!! とんでもないことをして、律はいったいなにを考えているのっ!! 聞いているの、律!! ねえ、律――』
予想はしていたけれど、これ以上怒鳴られながら正論を聞くのが辛しくなって、そのまま電話を切ってしまった。だめだということはわかっていても、心がついてこなかった。
やっぱり私がやったことは、誰にも理解してもらえないことなんだ。
光貴に連絡して、家族みんなを呼んで一緒に詩音の死を悲しんで、全員揃って詩音を送り出して、光貴のメジャーデビューの掛かったライブを台無しにしてしまう――それが、世間一般でいう正解。
でも、今日は普通のライブと違う。光貴の今後のギタリスト人生を懸けた、大切なデビューライブだ。
成功が掛かっている大舞台に立つのは生身の人間。聖人君子じゃない。
それでもひとたび舞台に立てば、たとえどんなことがあったとしても、平気な顔して最高の演奏をしなくちゃならない。それがどんなに辛く苦しいことか、ふつうの人はわからない。
緊張もする。ミスもする。プレッシャーもある。
それをはねのけて初めて素晴らしい演奏ができるけれど、光貴はまだ未熟で、今、せいいっぱいやらなきゃいけない時。詩音のことを知った後では、絶対に音に表れてしまう。
百パーセントの音を奏でることができなくなってしまう。
光貴はまだこれから。今日、ここからがサファイアとしての第一歩。
心の隙を作った無様な姿やプレイを、千人近くいるお客様の前で晒すわけにはいかない!
でもこれは舞台を経験した者にしかわからない精神だ。インディーズのつまらないバンドだったけれど、プライドを持って真剣にやってきた私だからこそは理解できる世界で、アーティストとなった伴侶を支えられる。でも、それを一般の人に理解してもらうのは不可能なんだ。
相容れられないのは仕方ない。でも、今の精神状態で私はそれを受け止められない。まだ未熟だから。最愛の宝物を亡くしたばかりなんだよ。
再び母から着信があったが留守電に切り替えた。今この状態で責められるのは辛い。