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「元宮さん! 営業に来るんですか?!」
いつものように秀太にランチに誘われ、「吉牛やったら行くわ」と返事をした直後。勢いよくうちの部署に蜷川が駆け込んできた。
「え、情報早すぎやろ。異動願い出したん、今朝やで?」
「そやな」
秀太と顔を見合わせてポカンとしていると、蜷川は俺のデスクまで詰め寄ってきた。
「うち、人手不足なんです! 新人も育てなあかんし、今元宮さんが来てくれたら、めちゃくちゃ助かります!」
「……いや、まだ許可も下りてへんし。引き継ぎだって時間かかるし」
蜷川にぎゅっと握られた手に、嫌でも意識が向く。……うわぁ、蜷川ってめちゃくちゃええ匂いするな。
「ああ、やっとこれで元宮さんにお礼ができる。俺、一緒に働けるの、本気で楽しみにしてますから!」
満面の笑顔で片手を上げると、弾むような足取りで嵐のように去っていった。
「……爽やかな嵐やったな」
一体、何やったんや。一方的すぎて、いつもの蜷川じゃないみたいやった。
「俺、あの子にお礼されるようなこと、何かしたっけ?」
「新人の時は、俺の下についてたからな。あるとしたら俺に山程あるやろ」
秀太が少し悔しそうに笑うので、俺も「確かにそうやな」と相槌を打つ。
「蜷川の奴、俺のこと、全く見えてへんかったみたいやわ」
皮肉か冗談か分からないことを秀太がぼやきながら会社を出ると、「元宮さん! 中目さん! 一緒にランチいいですか?!」と、またしても蜷川が財布を片手にダッシュしてきた。
いや、だからどうしたんや、そのテンション。よっぽど嬉しいんやな、俺が行くのが。
「……結局、パニーニか」
蜷川のリクエストで、スーツ姿の大男三人がカフェテラスでランチを囲むことになった。くそ、この運命から逃れられへんのやったら、せめて『パニーニ定食』って頭の中で名付けたる。お前、今度生まれ変わる時はちっさくなって、おにぎりくらい食べやすくなって生まれて来いよ? そしたら毎日でも食べたるわ。
まあ、言うても可愛い後輩のわがままや。一回くらいは聞いてやらなあかん。……貯金のほとんどを奥さんに持って逃げられた俺の財布に、連日のカフェの割高さと摂取量の少なさは正直きついけどな。
「元宮さんの奥さん、世界一周旅行に行ってはるんでしょ? めちゃくちゃアクティブですよね!」
ぶふっ、と秀太が紅茶を吹き出した。当の俺は、少し遅れてフリーズする。
「……は?」
噂に尾ひれがつくと、えらいことになるもんや。奥さんが家を出たことは秀太と部長にしか言っていない。部長が適当に誤魔化したのが、変な形で広まったんやろう。まあ、本当のことを伏せてくれただけでも、ありがたいと思わなあかんか。
「お子さん、いらっしゃいましたよね? 男の子二人。奥さんと一緒……ってわけにはいかないですよね?」
遅かれ早かれ、蜷川にはバレるやろう。俺は信頼している彼に、今の事情をすべて話した。
「……マジっすか。大変ですね……」
さっきまでの浮かれた様子は消え、蜷川は思ったよりも深刻な顔で考え込んでしまった。
「いや、蜷川。そんなに深刻にならんでええねんで? 俺の問題やから」
大袈裟に笑ってみせたら、「笑い事ちゃいますよ」と本気で怒られてしまった。ほんま、蜷川も秀太も同じ顔して怒らんといて。俺だってそんな事わかってるねん。
「……俺、お迎え行きましょうか? 営業に異動になるまで日もあるやろし、第一、ほんまに異動できるかまだ分かりませんよね?」
「あ、それは大丈夫やねん。幼稚園の先生と仲よくなって、その人に俺の仕事が終わるまでの間の子守頼むことになってるから」
「でも、その人にも予定がある日はあるでしょ? 二人体制の方が予定も組みやすいし、元宮さんの気持ち的にも楽になりませんか?」
「ええ後輩持ったな、もとちゃん。ちょっとの間やし、蜷川にも甘えさせてもろたら?」
秀太の言葉に背中を押される形になり、俺はつい頷いてしまった。
「……ほんなら、頼んでもええかな」
正直、心苦しさはあったけれど、蜷川の屈託のない笑顔を見たら、少しだけ心が軽くなった気がした。