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コインが弾かれる硬質な音が、湿った地下室の空気を切り裂いた。
「……コールだ。降りるなよ、iTrapped」
Chanceはテーブルの中央にチップを積み上げると、不敵に口角を吊り上げた。
ソネリーノ一家の目から逃れるために用意された、地下の隠れ家。カビと埃の匂いがするこの狭い空間だけが、今の彼らに許された「世界」だった。
「やれやれ。……相変わらず強気だな、Chance」
対面に座るiTrappedは、呆れたように肩をすくめた。
その手つきは優雅で、どこか機械的だ。彼は手札を確認することもなく、静かにカードをテーブルに伏せた。
「俺はフォールドだ。お前の勝ちだよ」
「はっ! ビビりやがって。幸運の女神は、臆病者には微笑まないぜ」
Chanceは勝利の余韻に浸りながら、テーブルの上のチップ――実際には、今日の夕食である缶詰やスナック菓子――を自分の手元にかき集めた。
この地下室にいる時だけは、自分が命を狙われる逃亡者であることを忘れられる。傲慢なギャンブラーとしての仮面を被っていられた。
「勝ち分だ。……ほら、受け取れ」
iTrappedが差し出したのは、食料ではなく、水と白い錠剤だった。
Chanceの動きがピタリと止まる。
「……チッ。シラけるもん出しやがって」
「時間だ。飲み忘れると困るだろう? お前が『ただの人間』でいられなくなる」
Chanceは忌々しげに錠剤をむしり取ると、水も飲まずにガリガリと噛み砕いた。
苦い味が口いっぱいに広がる。それが、彼にとっての敗北の味だった。
この世界において、Ωはαに支配されるだけの弱者だ。だから彼は薬で本能を殺し、誰よりも尊大なβとして振る舞い続けてきた。
何より、今は状況が悪い。
俺を追っているのは、あのソネリーノ一家のドン、Mafiosoだ。俺があいつの莫大な賞金を持ち逃げし、マフィアの面子を泥だらけにしたあの日から、あいつは地獄の底まで俺を追いかけてくるつもりだ。
捕まれば、ただでは済まない。拷問か、死か。
もしその上でΩだとバレれば――人間としての尊厳すら剥奪され、一生飼い殺しにされるかもしれない。
「不味い。……これ飲むと、勘が鈍るんだよ」
「我慢しろ。お前を隠し通すためだ」
iTrappedは優しく微笑み、Chanceの背中をさすった。
その体温だけが、Chanceの綱渡りのような日々を支えていた。
深夜、二人は次の隠れ家へ移動するために路地裏へ出た。
雨上がりのアスファルトが、街の汚れを隠すように黒く光っている。Chanceはフェドラ帽を目深に被り、iTrappedの指示に従って影から影へと移動していた。
――だが。
大通りを横切ろうとした瞬間、iTrappedが鋭くChanceの腕を引き、物陰に押し込んだ。
「……ッ、何すんだよ」
「シッ。声を出すな」
iTrappedの指がChanceの唇を塞ぐ。
その直後、重い足音が響いた。
カツ、カツ、カツ。
圧倒的な質量。肌を刺すような威圧感。
街灯の下を、黒いコートを纏った数人の男たちが歩いていく。
その中心にいる男を見て、Chanceの心臓が早鐘を打った。
Mafioso。
ソネリーノ一家のドンであり、絶対的なα。
彼は苛立った様子で、周囲の闇を睨みつけていた。
「……いない、か」
低く、地を這うような声。
Chanceは息を止めた。見つかれば殺される。間違いなく、その場で鉛玉をぶち込まれるか、地下室へ引きずり込まれる。
Mafiosoは、Chanceたちが潜む路地の方へ顔を向けた。
「……ん?」
Chanceの身体が強張る。
Mafiosoが鼻をひくつかせたのだ。
「……妙な匂いがする」
Mafiosoは呟き、一歩、路地の方へ踏み出した。
Chanceの背筋に冷たい汗が伝う。
抑制剤は飲んだ。Ωの匂いは消えているはずだ。だが、恐怖による発汗までは止められない。
バレる。ここにいることが――!
その時、iTrappedがChanceの耳元で囁き、さらに奥のゴミ捨て場の方へ小石を蹴った。
カラン、と乾いた音が響く。
同時に、近くのマンホールから蒸気が吹き上がり、路地の匂いをかき消した。
「……チッ。ただのドブネズミか」
Mafiosoは興味を失ったように鼻を鳴らした。
部下の一人が声をかける。
「ボス、あちらの賭場へ向かいましょう。目撃情報がありました」
Mafiosoは頷き、踵を返す。
「……逃がさんぞ、Chance。俺の金と誇りを盗んだ罪は、その身体で償わせる」
殺意の籠もった言葉を残し、捕食者は闇の中へと消えていった。
Chanceは膝から崩れ落ちそうになるのを、iTrappedに支えられた。
心臓が痛いほど脈打っている。
「……危なかったな」
「あ、ああ……。あいつ、鼻が利きやがる……」
Chanceは震える手で帽子のつばを握りしめた。
殺される恐怖。そして、それとは別に感じた、本能的な震え。
あの一瞬、Mafiosoの匂いを嗅いだとき、恐怖と同時に身体の奥が疼いた気がしたのだ。
「大丈夫だ。俺がついている」
iTrappedはChanceの肩を抱き、安心させるように微笑んだ。
その腕の力は優しく、いつも通りの頼れる親友の体温がある。だが、Chanceの早鐘を打つ心臓は、その安らぎをもってしても鎮まらなかった。
「……あいつ、嗅ぎやがった」
「気のせいだろ。ただの威圧だ」
「違う」
Chanceは首を振った。
あの瞬間、路地の闇を切り裂くように向けられた視線。それは逃亡者を追う目ではなかった。
もっと根源的な――獲物の急所を探る、飢えた獣の目だ。
「鼻が利くってのは厄介だな。ドン様は猟犬か?」
「笑えねえよ」
Chanceは吐き捨てるように言った。
抑制剤は飲んだ。匂いは完全に抑えているはずだ。だがあいつは、その偽りの無臭の奥にある、わずかな綻びに反応した。
恐怖が、遅れて背筋を這い上がってくる。
捕まれば拷問か、死か。あるいは――もっと質の悪い結末が待っている。
もし、Ωだと知られれば。
人間としての尊厳を剥奪され、檻の中で鎖に繋がれる未来。金を生む道具か、あるいはあいつの性欲を処理するためだけの番の代用品か。
「……俺はβだ」
小さく、呪文のように呟く。
「誰に言ってる?」
「自分にだよ」
Chanceは唇の端を吊り上げ、いつもの傲慢な笑みを作ってみせた。だが、iTrappedに握られた指先は、死体のように冷たいままだ。
「移動するぞ。ここはもう危ない」
iTrappedは何も言わず、その冷たい手を一瞬だけ強く握り返すと、彼を促して歩き出した。
雨の残り香が漂う夜の街。二人の背中は、闇に溶けるように消えていく。
数ブロック先。
路上に残された靴音の余韻を聞きながら、Mafiosoは足を止めていた。
「ボス?」
部下が怪訝そうに振り返る。だが、彼は答えない。
深く、夜気を吸い込む。
雨と排気ガス、そして路地裏特有の腐った水の臭い。
その奥に、微かに混じった異質なもの。
――甘い。
それは、暴力的なまでに抑え込まれた、熱の残滓。
気のせいだと言い聞かせようとした。だが、胸の奥がざわついて鳴り止まない。
「……妙だ」
「何がです?」
「匂いが残っている」
怒りでもない。憎しみでもない。それは、もっと本能に近い違和感。
あの男――Chance。
俺の金を持ち逃げし、顔に泥を塗った忌々しいギャンブラー。捕まえたら指を一本ずつ折り、二度とカードを握れなくしてやるつもりだった。
だが、脳裏に浮かぶのは、カジノで向けられたあの挑発的な笑みだ。
余裕。傲慢。
そして――ほんの一瞬、すれ違いざまに感じた不可解な温度。
「……隠している」
何を?
隠し財産か? 逃走ルートか?
違う。もっと根本的な、生物としての核心だ。
「ボス、あの男はただの人間です。β登録のギャンブラーごときに時間を割くより、さっさと捕まえて処理すれば――」
「黙れ」
地を這うような低い声。部下は即座に口を閉ざす。
Mafiosoは、苛立ちを隠すようにフェドラ帽のつばに触れた。
――違う、まだだ。
理性は保たれている。
だが、胸の奥で何かが軋む。苛立ちが、別の感情と混ざり合い、ドロドロとした熱に変わっていく。
「探せ」
「は、はい」
「金のためではない」
部下が目を瞬かせる。
「では、何のために――」
「確かめるためだ」
Mafiosoは静かに言い放った。
何を確かめるのか、自分でも言語化できない。
ただ、あの男の匂いは嘘だった。抑え込まれた甘さ。消されかけた本能。そして、それを覆い隠すあの傲慢な態度。
あれは、ただのβの匂いではない。
もし。
もし仮に、奴がΩなら。
あの生意気な仮面を剥ぎ取り、喉元に牙を突きつけた瞬間、奴はどうなる?
崩れるのか? 泣いて命乞いをするのか?
――それとも、絶望の中で笑うのか。
胸の奥が焼けつくように熱い。
怒りだと思いたい。だがそれは、飢えた獣が極上の獲物を見つけた時の高揚にあまりにも似ていた。
「逃がさん」
雨上がりの夜空に、独り言が溶ける。
その声音には、殺意だけではないものが混じっていた。執着。確認したいという欲。自覚のない渇き。
追跡者の目は、すでに借金取りのそれではなくなっていた。
新しい隠れ家に辿り着いたChanceは、椅子に腰を下ろすなり、フェドラを深く被り直して顔を隠した。
「……あいつの目、嫌いだ」
「追われてる側の台詞とは思えねえな」
「だってよ。……あれは、金を見てる目じゃねえ」
Chanceはポケットからコインを取り出し、テーブルの上で弾いた。
カン、と乾いた金属音が響く。
「俺を見てる目だ」
沈黙。
iTrappedはしばらく何も言わず、ただ回るコインを見つめていた。やがて、軽く鼻で笑う。
「自意識過剰だ」
「うるせえ」
Chanceは悪態をつくが、その横顔には疲労の色が濃い。
iTrappedは、その様子を冷静に観察していた。
もし、MafiosoがChanceの『正体』に気づき始めているなら、状況は変わる。
追跡の動機が復讐から本能に変われば、執着の度合いは跳ね上がるだろう。
そうなれば――Chanceという商品の価値は、より高く跳ね上がるかもしれない。あるいは、もっと厄介なことになるか。
「……なあ、Chance」
「なんだよ」
「もし捕まったらどうする?」
「その時は賭ける」
「何に?」
Chanceは回転するコインをパチンと掌で止め、ニヤリと笑った。
「俺自身にだよ」
その喉がわずかに震えているのを、iTrappedは見逃さなかった。
隠れ家を変えて、三日目の夜だった。
古いアパートの一室。窓は板で無造作に塞がれ、電気も点かない。湿気を含んで剥がれかけた壁紙を、安物のランプが橙色に照らしている。
Chanceは窓辺に立ち、板の隙間から外の様子をうかがっていた。
抑制剤は飲んでいる。
だが、体の奥が妙にざわつく。
指先が熱い。喉が渇く。
「……次の移動は明日の未明だ」
背後でiTrappedが淡々と言った。
「ソネリーノ一家の捜索網が西側に寄っている。今なら東へ抜けられる」
「了解。あんたのナビが外れたことはねえしな」
Chanceは軽口を叩くが、声にわずかな掠れが混じった。
自分でも気づいている。
抑制剤の効きが、弱い。
iTrappedはテーブルに地図を広げたまま、ちらりと彼を見た。
「体調は」
「最高だよ。勝ち運も戻ってきた気がするしな」
嘘だ。
胸の奥がざらつく。
昨夜、路地で嗅いだあの匂い――絶対的なαの、圧倒的な支配の匂いが、鼻の奥に焼き付いて離れない。
恐怖と一緒に、甘い疼きが蘇る。
コン、コン。
突然、ドアが鳴った。
二人の視線が一瞬で交差する。
ここは安全なはずだ。だが『はず』は何度も裏切られてきた。
iTrappedが音もなく銃を抜く。
Chanceは息を止めた。
二度目のノック。
規則正しい。焦りはない。獲物を追い詰めた者の余裕。
「……出るな」
iTrappedが囁く。
だが三度目のノックの直後、ドアノブがゆっくりと回った。
鍵は、かかっていたはずだ。
ギィ、と乾いた音を立てて扉が開く。
冷たい夜気とともに、濃密な香りが流れ込んだ。
重く、甘く、喉を締めつけるようなαの匂い。
「探したぞ、Chance」
低い声。黒いコート。
影の奥から現れたのはMafiosoだった。その背後には数人の部下が控えている。
逃げ道はない。
「……不法侵入って知ってるか?」
Chanceは笑ってみせた。
だが膝がわずかに震える。
抑制剤を飲んでいるのに、身体が勝手に反応する。心拍が上がり、視界がじわりと滲む。
Mafiosoは一歩、室内に踏み込んだ。
「匂いが残っていた。路地でな。完全には消せていない」
彼はゆっくりと鼻を鳴らす。
「βの仮面は、よく出来ている。だが、俺の前では意味がない」
その視線がChanceを射抜く。支配の圧力が、室内の空気を重くする。
「ボス、こいつを――」
部下が動こうとした瞬間、iTrappedが発砲した。
乾いた銃声。
部下の肩を鉛玉が掠めた。
「下がれ」
iTrappedはChanceの前に立ち塞がった。
「彼は俺の保護下にある」
「保護?」
Mafiosoが嗤う。
「逃亡犯を匿い、俺の金を横取りした男をか?」
「彼はあなたの所有物ではない」
一瞬、空気が凍る。
α同士ではない。だが、支配権を巡る視線が激突した。
Mafiosoの瞳が細まる。
「面白い。だが、お前では足りん」
その瞬間、強烈なフェロモンが放たれた。
目に見えない圧力が室内を満たす。
Chanceの呼吸が乱れる。膝が折れそうになる。頭が熱い。甘い匂いが、理性を溶かしていく。
「っ……」
抑制剤を飲んだはずだ。
だが恐怖と緊張が、その効力を削っている。喉の奥から、かすかな呻きが漏れた。
Mafiosoの目が変わる。
「やはりな。Ωだ」
部下たちがざわめく。
iTrappedの銃口がブレない。
「これ以上近づけば撃つ」
「撃てばいい。だが、その前にこいつが崩れる」
MafiosoはゆっくりとChanceに近づく。
「本能は誤魔化せん。お前は俺に反応している」
否定したい。
だが身体が言うことをきかない。熱が下腹を焦がす。視界の端でiTrappedの表情が硬くなるのが見えた。
「Chance、目を閉じろ。呼吸を整えろ」
「うる、せ……」
強気に返すはずが、声が震える。
Mafiosoの指が、そっとChanceの顎を持ち上げた。
冷たい革手袋越しの感触。
それだけで背筋が震える。
「恐怖と興奮は紙一重だ。どちらも、俺がたっぷりと与えてやる」
その瞬間、iTrappedがもう一発撃った。
今度は天井だ。
照明が砕け、破片が降る。
部下たちが一斉に動いた。乱闘。狭い室内で銃声と怒号が交錯する。
iTrappedはChanceの腕を乱暴に掴んだ。
「走れ!」
裏口へ。廊下へ飛び出す。
背後でMafiosoの声が追う。
「逃げろ。お前など、いつでも捕まえられる」
階段を駆け下りながら、Chanceの視界が揺れる。
熱が引かない。むしろ強くなる。
外へ出た瞬間、冷たい夜風が頬を打つ。だが身体の奥は燃えている。
「……クソ……」
Chanceは壁に手をついた。
iTrappedが彼を抱き支える。
「発情の前兆だ。抑制剤が追いついていない」
「違う……俺は……βだ……」
言い聞かせるように呟く。
だが鼻腔に残るのは、Mafiosoの匂い。
支配の香り。
iTrappedの視線がわずかに揺れた。
「今は離れるしかない。あのαから」
遠くでサイレンが鳴る。
夜はまだ深い。
だがChanceの内側では、何かが確実に目を覚まし始めていた。