テラーノベル
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第十二話 少しでもお気楽に
今日は、少しだけ楽しみだった。
理由なんてたいしたものじゃない。ただ、ウラシェルを呼ぶ口実ができた、それだけ。
扉の前に立つ気配がして、いつもの低い声が落ちる。
「……お呼びでしょうか」
「ええ、お入りなさい」
入ってきた姿を見た瞬間、私は思わず目を瞬いた。
髪がきちんと整えられていない。後ろで束ねてはいるけれど、いつもより雑で、前髪も少し乱れている。襟元も、ほんのわずかだけ歪んでいた。
こんなこと、今までなかったのに。
胸の奥が、じんわり熱くなる。
私が呼んだから、急いで来たのかしら。
身だしなみより、私の呼び出しを優先してくれた。
そう思ったら、たまらなく嬉しくなってしまった。
もしかして、私のこと……。
……いけない。
「ウラシェル」
「はい」
近づくと、彼はわずかに目を伏せる。
そのまま手を伸ばして、乱れた前髪に触れた。
ぴくり、と彼の肩が揺れる。
「動かないでください」
そっと指で髪を整える。さらりとした感触。冷たい色の髪。
「身だしなみが整っていません。気をつけましょう」
軽く言いながら、襟元にも触れる。指先で布を引き、形を直す。
距離が近い。近すぎるくらい。
なのに彼は、今日はいつもより静かだった。
視線を行き来させ、まるで私の目に自分の姿が映っているのを見たくないかのように。
「目を見て話しましょう」
初めて出会ったときも、そう教えた気がする。
「……申し訳、ありません」
声が低い。いつもより、少しだけ。
「謝ることではありません。急いで来てくれたのでしょう?」
返事が、ない。
ほんの一拍遅れてから、
「……命令でしたので」
そう返ってくる。
その言い方が、なぜか胸に引っかかった。
でも私は、別の理由を考えた。
体調が悪いのかもしれない。
顔色は変わらない。でも、視線を合わせないし、言葉も少ない。立つ位置も、いつもより遠い気がする。
「ウラシェル」
「はい」
「具合が悪いのではありませんか?」
「問題ありません」
即答。でも、どこか硬い。
「問題ない、は便利な言葉ですね」
少しだけ笑ってみせる。
「ですが、今日はもう下がって構いません」
彼がわずかに目を上げる。
「……よろしいのですか」
「ええ。その代わり」
私はくるりと踵を返す。
「あとで、部屋に来てください」
台所に立つなんて、いつぶりだろう。
侍女たちが慌てて止めようとしたけれど、今日は譲らなかった。
体が温まるものがいい。
疲れている時、弱っている時、必要なのはきっとそういうものだ。
野菜を刻む。鍋の中でことこと煮える音。立ちのぼる湯気。
なんだか、変な気分だった。
ただ一人のために何かを作っているなんて。
でも、嫌じゃない。
むしろ少しだけ、嬉しい。
夜。
控えめなノックの音がした。
「お入りなさい」
ウラシェルが入ってくる。やっぱり少し距離がある。
私は椅子の横に置いていた器を持ち上げた。
「これを」
差し出すと、彼は目を落とした。
湯気の立つスープ。
「……これは」
「体に良いものを入れさせました。無理をしてはいけません」
彼の手が、わずかに止まる。
受け取るまで、ほんの少し間があった。
「……ありがとうございます」
声が硬い。
でも私は、それを遠慮だと思った。
「お野菜を食べましょう。疲れている日こそ」
彼は静かに口をつける。
その様子を見ているだけで、胸の奥がじんわりする。
役に立てた、気がした。
「今日はもう休みなさい」
そう言うと、彼は一礼する。
「……かしこまりました」
部屋を出ていく背中は、やっぱりどこか遠い。
でも私は、満たされていた。
少しずつ、距離は縮まっている。
思い合っている。
気持ちは近づいていると思う。
そう思う。
それはまるで
聖母マリア様と恋をした騎士ように。
太陽と月のように。
アダムとイヴのように。
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