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潮の匂いが、夜の風にゆるく溶け込んでいた 。
逗子海岸沿いの細い遊歩道を、岡崎とふたり、言葉もなく歩いていく。
レストランの灯りはもうずいぶん後ろ。
喧騒はすっかり遠のき、時おり通り過ぎるのは、同じように海沿いを歩くカップルか、イヤホンをしたランナーくらい。
波の音が、寄せては返すたびに、耳の奥をそっと撫でていく。
夜の海は、昼よりもずっと広く、深く、境界が曖昧で、ほんの少しだけ怖いくらいだった。
「いやあ、やっぱ夜の海もいいですなあ。そうは思わないかい?藤井くん」
「なに、なんなのその変な口調。きもいからやめて?」
「ほら、藤井くん、空を見てごらん?星も綺麗だ」
聞いちゃいない岡崎は続けて空を指差す。
「……」
「あ、ほら、藤井くん。そして、あの灯りの下もごらん?きっとカップルがイチャついてる」
「あの……ねえ、そういうこと言うと台無しだから」
肩越しに返した言葉に、クククッと笑いがこぼれる。
岡崎は両手をポケットに入れ、少し背を丸めながら歩いていた。
風に前髪を揺らされ、街灯の下を抜けるときには、地面に映る影を踏むようにひょいと跳ねる。
大人びた背中に、子どもの無邪気さをにじませるような歩き方だった。
「あ。」
不意に立ち止まり、目線だけを寄せてくる。
「そういやさ、やさぐれさんは?今日連れてきてる?」
久しぶりに聞いたやさぐれさん。
名前を聞いて思い出す。
あの夜、焼き鳥屋の床に転がっていたキーホルダーを、酔っぱらいの岡崎が拾い上げたのがはじまりだった。
どこか投げやりな表情をした、地蔵のかたち。
その場のノリで「やさぐれさん」と命名された、それは、特に意味も思い入れもなかったはずのものだった。
「やさぐ…あれ。いるよ。家の鍵だもん。」
「見してよ」
「えー?」
なんで今?という小さな疑問が喉の奥に引っかかりながらも、バッグを開いて鍵を差し出す。
岡崎はそれを受け取って、しげしげと見つめた。
「あー!これこれ、やっぱこれ俺に似てるな。今とか特に似てるかも。どう?」
キーホルダーと自分の顔を並べて、「ほら、似てね?」と言いながらいたずらっぽくにやりと笑う。
それだけで終わらず、つり目気味の表情まで真似してくるものだから、思わず吹き出してしまった。
「ちょっ…岡崎ってほんとばかだよね」
「ふはははは。そうですっボクは、ばっかでっすよーん」
頬を赤くして、子どもみたいに得意げに笑っている。
ほんとにしょうがない男だと思いながら、それでも、少しだけ可愛いと感じた自分もばかだなぁと思ってしまう。
「もう、はいっ。無くすの怖いから返して」
「なんだよ、あなた、ちゃんと見てねーだろ」
ふざける声をそのまま受け流しながら、やさぐれさんを奪い返してついでにもう一度それを見る。
これのどこが。岡崎には全然似ていない。
なんの思い入れもないこのキーホルダー。
けれどもし、あの夜あの焼き鳥屋に行かなければ。このキーホルダーを拾ってもらっていなければ。
今、こうして並んで歩いていることもなかったかもしれない。
そう思うと、このへんてこな顔つきすら、少しだけ愛おしく思えてくる。
「てか、さっきの店、料理うまかったなー。あの白身魚のやつ、名前むずいやつ」
「カマスのロースト?」
「あーそれそれ。それと一緒に出てきたやつも、なんかぐちゃっとしたやつ」
ぐちゃっとしたやつ。
「ラタトゥイユ?…もう、全然覚えてないじゃん」
「それ! あれがね、うまかったんだわ。あとビールの一杯目。人生でトップ3に入るうまさだった」
「たしかに、すごい幸せそうな顔してたもんね」
「でしょ。俺さ、うまいもん食って、今みたいに風が気持ちくて、隣でウフフって笑ってくれる人がいたら、それでわりと満足な人間なんだよ」
ふと見やると、岡崎は前を向いたまま、肩だけを軽くすくめていた。
横顔までは見えなかったが、言葉の端に滲む温度が、妙に静かに残った。
「……意外」
「なにが」
「もうちょっと刺激とか、非日常とか、そういうのが好きなのかと思ってた」
「え、俺のどこを見てそう思ったの」
「うーん……声の大きさ?飲み会のテンションとか」
「あー、それはあるな。確かに俺、飲み会で大声出しがちだわ。でもわりとほんとはー…」
言いかけて岡崎は足を止める。
ぱちぱちとはぜるような音が風に乗って届いた。
視線の先、海へと続く階段のあたり。
砂浜では、大学生らしきグループが手持ち花火を囲んでいた。
砂の上に座って、笑ったり叫んだり。
オレンジや青の光が、時折その顔や手元を照らし、夜の一部に小さな色を添えている。
岡崎はその様子をしばらく見つめ、ふっと笑う。
「……青春だなー」
「ん、ね。ああいうの、久しくやってないかも」
「な。いいな。俺もああいうの、やったことあったなーって、思い出すわ」
「学生のときとか?」
「いや…うん、まぁその辺…」
ふと、濁した声に、なにか引っかかる。
そっと視線を向けた。
岡崎は言葉を呑み込んだまま、花火の残り火を見つめていた。
はじけた光の欠片だけが、波の音と溶け合い、夜の闇に揺れている。
砂の上でじわりと滲み消えてゆくその淡い光を追うように、ぽつりと零れた。
「……俺さ、大学のとき、めっちゃ好きだった子がいたんだよ」
唐突な言葉に、声が出ない。
「がっつり一目惚れなんだけどさ。その子、なんかほっとけないタイプで。ふわふわしてんのに、目の奥の真はしっかりしてるというか……」
「……」
「ま、その子にとっちゃ俺なんか、ただの仲のいい男友達だったみたいだけど。……でも、ずっと好きだったんだよな」
笑っていた。けれどその笑い方は、どこか自嘲気味。
「で、2年の途中で、勇気出して言ったんだわ。好きだって。……まあ、見事に振られた」
後ろ髪をくしゃくしゃにし、そのまま首筋を一度かくように指を動かす。
「“ろくちゃんのことは、そういうふうに思えない”って言われた。──そりゃそうだよなって思ったんだけどさ」
「……」
「でもなんでか、今も、まだ連絡とりあってる。長く付き合ってる男がいるんだけど、そいつクズでさ。浮気ばっかするみたいで、“また別れた”とか、“つらい”とか。相談される。俺、そのたび毎回話、聞いてやんの。まあ、あいつもあいつで酷だけど」
「……まだ、好きなの?」
口にした瞬間、自分でもその声の小ささに驚いた。
風に混じって、この人の表情がわからなくなる。
岡崎は何も言わなかった。
答えの代わりに、海を見つめたまま、ぽつりと言う。
「……あの人が泣きそうな声で“会いたい”って言ってきたら、俺、行っちゃうんだよな」
言葉が、胸のどこかに触れてくる。
わずかな痛みが、にじむように広がっていった。
「まあ。ほんと、情けない男なんですよ。俺は」
「……そんなこと…ないと思う」
「あるよ」
隣にいるこの人はまだ遠くを見ている。
ここにいない誰かに、今も心の一部を預けたままでいる。
そんなふうに思ったら、少しだけ、呼吸がうまくできなくなった。
「…あ…」
何か言おうとして、でも言葉が続かなかった。
うつむいて、唇を閉じるしかなかった。
好きだと思っている。
いま目の前で話しているこの人を、
どうしようもなく。
それでも ――
この人の心は、遠くにいる誰かに向いている。
その隙間に、自分の影など入りこめるはずもないことを、 ただ静かに思い知らされる。
風が、不意に、肌を冷たくなぞっていく。
湿った空気の底で、頬にひと粒、雨が落ちた。
「…うわ、やば。これ、来るぞ」
岡崎が空を仰いだ瞬間、大粒の雨がいっきに降り出す。
「ほらっ藤井、なに突っ立ってる!ホテルまで走るぞ!ずぶ濡れなる前に!」
そう言って手首を掴まれた瞬間、
足が自然と動いた。
靴音と、水飛沫と、頭上を叩く雨の音。
走りながら、振り返ることはできなかった。
けれど──わかっていた。
最後の花火が、音もなく波に呑まれていくのを。
まるで、何も伝えられなかったこの気持ちのように。
誰にも届かず、そっと沈んでいった。
海に沈む花火みたいに。