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みら

5,141
#BL
kaede🍁
14,585
その日の夜。
お風呂から上がった阿部は、洗面台の鏡の前で一度立ち止まった。
鏡に映っているのは、肩が細い紐になった黒のキャミソールワンピース。
首元も肩も出ているけれど、彼シャツの時のような分かりやすさも、渡辺に選ばれたランジェリーほどの刺激もない。
ただ、いつも家で着ているものより少しだけ大人っぽい。
阿部は自分の姿を見ながら、小さく息を吐いた。
「……これなら普通だよね」
彼シャツ。
失敗。
ランジェリー。
失敗。
思い返すだけで、少し恥ずかしくなる。
けれど今日は、服で目黒の反応を確かめるためではない。
佐久間に言われたことを思い出す。
阿部は鏡の中の自分と目を合わせ、少しだけ頬を赤くした。
「……言えるかな」
一人で呟いても、答えは返ってこない。
少し迷ったあと、意を決して洗面所を出た。
リビングでは目黒がソファに座り、スマートフォンを触っていた。
阿部の足音に気づいて顔を上げる。
「お風呂上がった?」
「うん」
目黒の視線が阿部の姿で止まった。
一瞬だけ目を細め、それから不思議そうに首を傾げる。
「こんな時間に出かけるの?」
「出かけないよ」
「じゃあ、その服どうしたの?」
「別に」
阿部は少しだけ緊張しながら、目黒の前まで歩いていった。
そして。
そのまま、目黒の膝の上に座った。
さすがの目黒も少し驚いたらしい。
反射的に阿部の腰へ腕を回し、落ちないように支える。
阿部は目黒の肩へ手を置いた。
距離が近い。
目黒が少し笑う。
「今日は刺激的な服じゃないんだね」
「……気づいてたんだ」
「何が?」
「最近の」
目黒は一瞬だけ黙ったあと、ふっと笑った。
「気づくよ」
「彼シャツも?」
「もちろん」
「その次も?」
「もちろん」
阿部の頬が熱くなる。
全部。
分かっていた。
それなのに、全部流された。
阿部は目黒の肩に置いた指へ少し力を込めた。
「……めめ」
「ん?」
目黒は急かさない。
膝の上にいる阿部を抱えたまま、ただ顔を見ている。
阿部は少し迷ってから口を開いた。
「事件のあとさ」
目黒の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「うん」
「俺に触るの、怖くなった?」
目黒が瞬きをする。
阿部は視線を逸らしかけたけれど、今日は逃げないように目黒を見る。
「前と違うから」
「……」
「キスもするし、ハグもするけど、そのあと普通に寝るし」
言葉にすると。
やっぱりものすごく恥ずかしい。
「前は……もっと、その」
阿部の声がだんだん小さくなる。
「跡とかも、よくつけてたし」
目黒の口元が少し緩んだ。
「笑わないでよ」
「ごめん」
「俺、結構真剣に悩んでたんだから」
「うん」
それでも目黒は、どこか嬉しそうだった。
阿部がむっとする。
「何?」
「いや」
目黒は阿部の腰を抱く腕に、少しだけ力を込めた。
「かわいいなと思って」
「今それいらない」
阿部が目を逸らす。
すると目黒は、少し顔を近づけた。
「事件は関係ないよ」
阿部が目黒を見る。
「……本当に?」
「うん」
「じゃあ何で?」
目黒は少しだけ考えるように阿部を見つめ、それからあっさり答えた。
「ずっと待ってた」
「何を?」
「おねだり」
「……は?」
阿部が固まった。
目黒は楽しそうに笑う。
「だから」
阿部の頬へ、そっと指を添える。
「俺からばっかりじゃなくて、あべちゃんが欲しいって言ってくれるの」
「……」
阿部の顔が。
一気に赤くなった。
「何それ」
「そのまま」
「じゃあ、彼シャツの時も?」
「すごくかわいかった」
「……あれも?」
「めちゃくちゃ我慢した」
「何で!?」
阿部が思わず目黒の肩を叩く。
目黒は笑いながら受け止めた。
「だって寝たふりしてたでしょ」
「……気づいてたの?」
「うん」
「最悪」
「かわいかったよ」
「それはもういい!」
阿部は恥ずかしさのあまり、目黒の肩へ顔を埋めた。
あれだけ悩んだ。
深澤と渡辺を巻き込んだ。
佐久間まで加わって。
四人で真剣に作戦会議までした。
その答えが。
おねだり待ち。
「……倦怠期じゃなかった」
小さく呟く。
目黒が笑う。
「誰がそんなこと言ったの?」
「言わない」
「ふっかさん?」
「言わないって」
目黒は口を閉じた。
それでも、笑っているのが分かる。
阿部はしばらくそのまま目黒の肩へ顔を埋めていた。
けれど。
少しして。
ゆっくり顔を上げる。
目黒と目が合った。
今度は。
目黒の方から何かをすることはなかった。
ただ。
待っている。
あの日々みたいに強引に距離を縮めるでもなく。
阿部が何をするのか。
何を言うのか。
静かに待っている。
「……」
それに気づいた瞬間。
また恥ずかしくなった。
「めめ」
「うん」
「本当に言わなきゃダメ?」
「言ってほしい」
「……恥ずかしい」
「知ってる」
「じゃあ察してよ」
目黒は笑った。
「今までは察してたから」
阿部の目を真っ直ぐ見る。
「今日は聞きたい」
その声が優しすぎて。
阿部は逃げられなくなった。
目黒の首へ腕を回す。
少しだけ距離を縮める。
それでも、目黒は待っている。
「……おねだりして」
囁くような声。
阿部は真っ赤になりながら目黒を睨んだ。
「意地悪」
「ごめん」
全然反省していない顔だった。
阿部は一度、目を閉じた。
そして。
小さく息を吸う。
ずっと。
欲しくないわけじゃなかった。
むしろ。
前と違うことが不安になるくらいには。
目黒に求められることも。
目黒を求めることも。
自分の中では大切になっていた。
だから。
今度は。
自分から言う。
阿部は目黒の目を見た。
「……ほしい」
目黒の表情が変わる。
阿部は恥ずかしさに負けそうになりながら、それでも続けた。
「めめのこと」
少しだけ。
目黒へ近づく。
「全部ちょうだい」
数秒。
目黒は何も言わなかった。
ただ、ものすごく嬉しそうに阿部を見つめる。
そして。
「仰せのままに」
そう囁いて。
阿部の頬へ手を添えた。
次の瞬間。
唇が重なる。
寝る前の軽いキスとは違う。
ゆっくり。
確かめるように始まって。
阿部が逃げないことを確認してから、少しずつ深くなる。
阿部も。
目黒の首に回した腕を離さなかった。
離れる理由なんて。
もうなかった。
長いキスのあと。
ほんの少しだけ距離が開く。
目黒の額が。
阿部の額へ触れた。
「……あべちゃん」
「何?」
「もう一回言って」
「やだ」
「何で?」
「一回言ったから十分」
「もう一回聞きたい」
「調子乗らないで」
阿部はそう言いながら。
笑っていた。
目黒も嬉しそうに笑う。
そして。
今度は阿部の方から。
もう一度。
唇を重ねた。
朝。
阿部は、目黒に抱きしめられた状態で目を覚ました。
背中には目黒の腕。
胸元には、一定のリズムで聞こえる鼓動。
まだ少し眠いまま身体を動かそうとして。
「……いた」
小さく声が漏れた。
首元。
それから肩の辺り。
昨日、目黒に噛まれたところがじんわり痛い。
身体も少し気怠い。
「……」
そこで一気に昨日のことを思い出した。
自分から目黒の膝に乗ったこと。
事件のあと、触るのが怖くなったのかと聞いたこと。
そして。
目黒の目を見ながら。
『ほしい』
『めめのこと』
『全部ちょうだい』
「……無理」
思い出しただけで、顔が熱くなる。
阿部はそのまま逃げるように、目黒の胸元へ顔を隠した。
すると。
すぐ上から。
「くすっ」
と笑う声が聞こえた。
阿部が動きを止める。
「……起きてたの?」
「今起きた」
「絶対嘘」
「ほんとだよ」
声が完全に笑っている。
阿部は顔を上げなかった。
目黒の胸元へさらに押しつける。
すると、目黒の腕が少し強くなった。
「おはよう、あべちゃん」
「……おはよう」
「顔見せて」
「やだ」
「何で?」
「めめが笑うから」
「笑ってないよ」
「今笑った」
「かわいくて」
「それが嫌なの」
目黒はまた小さく笑った。
阿部はしばらく黙っていたけれど、首元が布に擦れて、また少し痛む。
「……いたい」
今度は、目黒の声が少しだけ変わった。
「どこ?」
「首」
「ごめん」
反省した声。
阿部がようやく少し顔を上げると、目黒は阿部の首元を確認した。
そして。
ほんの少し気まずそうな顔になる。
「……結構残ってるね」
「誰のせいだと思ってるの」
「俺です」
「噛み癖、復活してるじゃん」
「久しぶりだったから」
「言い訳になってない」
「ごめんなさい」
素直に謝るくせに。
どこか嬉しそうなのが腹立たしい。
阿部は目黒を睨んだ。
「身体も怠いし」
「佐久間が今の方が安心って言ってた意味分かった」
「佐久間くん?」
しまった。
阿部が黙る。
目黒が不思議そうに眉を上げた。
「何で佐久間くんが出てくるの?」
「……何でもない」
阿部はもう一度、目黒の胸元へ顔を隠した。
これ以上喋ったら。
四人で倦怠期対策会議をしていたことまでバレそうだ。
目黒は追及せず、阿部の髪をゆっくり撫でる。
しばらくして。
目黒が楽しそうに言った。
「あべちゃん」
「何」
「今日オフでよかったね」
「……」
阿部がぴたりと止まる。
目黒は笑っている。
「朝ゆっくりできるし」
「めめ」
「ん?」
「絶対わざと言ってるでしょ」
「何が?」
「その言い方」
「普通に心配してるだけだよ」
「嘘」
「ほんと」
「顔見なくても笑ってるの分かるから」
目黒の胸が少し揺れる。
やっぱり笑っている。
阿部は。
少しだけ腹が立って。
目黒の胸元を軽く叩いた。
「元気だね」
「うん」
「俺、結構怠いんだけど」
「じゃあ今日はずっと寝てよう」
「めめも?」
「もちろん」
「仕事ないの?」
「今日は午後までない」
「じゃあ午後からあるじゃん」
「大丈夫」
「何が大丈夫なの」
目黒は答えず。
阿部の頬へ手を添えた。
そして。
少しだけ顔を近づける。
「あべちゃん」
嫌な予感。
阿部が目を細める。
「何」
目黒は。
昨日と同じくらい嬉しそうな顔で言った。
「もう一回おねだりして」
「……は?」
阿部の顔が一気に熱くなる。
「何で!」
「もう一回聞きたい」
「絶対言わない」
「昨日すごくかわいかった」
「忘れて!」
「無理」
「今すぐ忘れて」
「一生覚えてると思う」
「最悪」
阿部はまた目黒の胸元へ顔を隠した。
目黒はそんな阿部を抱きしめたまま、楽しそうに笑っている。
しばらく黙っていた阿部が。
ぼそっと呟いた。
「……なんでこんなに元気なの?」
目黒が少し考える。
「嬉しいから?」
「答えになってない」
「じゃあ」
阿部の髪へ軽く口づける。
「昨日、あべちゃんから欲しいって言ってもらえたから」
「……」
「かなり元気」
「聞かなきゃよかった」
阿部はますます顔を上げられなくなった。
倦怠期ではなかった。
それは。
本当によかった。
よかったけれど。
阿部は目黒の胸に顔を隠したまま思う。
これはこれで。
少し。
面倒なことになったかもしれない。
コメント
1件
「倦怠期じゃなかった」の瞬間、本当にほっとしました……! 四人で真剣に作戦会議までした答えが「おねだり待ち」って。目黒さんの「仰せのままに」はどきっとする。朝の「もう一回おねだりして」はずるいなあ。噛み跡を思い出して顔を隠す阿部さん、愛おしすぎます。面倒だけど幸せ、という空気がじんわり伝わってきました。