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午後。
仕事へ向かう準備を終えた目黒は、玄関で靴を履くと阿部を振り返った。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん。いってらっしゃい」
「今日はゆっくりしてて」
「分かってる」
「首、痛かったら冷やしてね」
阿部はじっと目黒を見る。
「誰のせいだと思ってるの?」
「俺です」
朝から何度目か分からない答えに、阿部は小さく笑った。
目黒も笑いながら阿部の頬へ手を添え、軽く唇を重ねる。
「行ってきます」
「……いってらっしゃい」
今度は額にもキスをしてから、目黒は家を出ていった。
玄関のドアが閉まり、部屋が静かになる。
阿部はリビングへ戻るとソファに座り、まだ少し痛む首元へ触れた。
「……佐久間の作戦」
思い返す。
普通の服を着る。
自分から目黒のところへ行く。
そして、事件のあと自分に触るのが怖くなったのか、ちゃんと聞く。
結果。
倦怠期ではなかった。
事件が原因でもなかった。
目黒はただ、阿部自身が求めてくるのを待っていた。
そこまではいい。
問題は。
「……おねだりブーム来てるよね」
朝からすでに『もう一回おねだりして』と言われた。
しかも、ものすごく嬉しそうだった。
あの様子では、しばらく飽きそうにない。
阿部はクッションを抱えながら考え込む。
「どうしたら静かに終わるんだろ」
そもそも。
昨日がよくなかった。
初めてのおねだりで。
『全部ちょうだい』
今思えば、あれは強すぎた。
言葉通りに受け取った目黒が悪いと言いたいところだけれど。
自分から“全部”と言った以上、強く責めるのも違う気がする。
「全部はダメ」
阿部は真剣に呟いた。
「もっと……加減できるやつ」
そこで、ふと閃く。
「……そうだ」
スマートフォンを手に取り、メモアプリを開く。
新規メモ。
タイトル。
『おねだり候補』
入力した文字を見て、阿部は数秒固まった。
「……何これ」
タイトルだけでも十分恥ずかしい。
けれど、昨夜のような事態を繰り返さないためには必要だ。
そう自分に言い聞かせ、入力を始める。
『もう少しキスして』
「……これは普通」
横に、
『危険度:低』
と付ける。
みら

5,141
#BL
kaede🍁
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次。
『もう少しぎゅってして』
「これも安全」
『危険度:かなり低い』
続いて。
『今日は優しくして』
阿部の指が止まった。
「……逆に危ない?」
目黒がどう解釈するか分からない。
少し迷って、
『△ 要注意』
と付けておく。
次。
『跡、少しだけならいいよ』
「……」
一気に頬が熱くなった。
でも、今回一番考えなければならないのはそこだった。
自分が欲しかったのは、痛いほど噛まれることではない。
以前のように、目黒から強く求められていると感じたかっただけ。
なら。
加減してもらえばいい。
『噛むのは痛くないくらい』
「これ大事」
さらに。
『明日仕事だから見えるところはダメ』
その横へ、
『衣装さんに相談する事態を避ける』
と付け足す。
「……何の資料?」
恋人へのおねだりを考えているだけなのに、完全に注意事項だった。
阿部は一度画面を見直す。
『おねだり候補』
・もう少しキスして 【危険度:低】
・もう少しぎゅってして 【危険度:かなり低い】
・今日は優しくして 【△ 要注意】
・跡、少しだけならいいよ
・噛むのは痛くないくらい
・明日仕事だから見えるところはダメ
「……」
少し考えて、新しく一行追加する。
『俺から言った分だけ』
阿部は頷いた。
「これいいかも」
“全部”ではない。
自分が求めた分だけ。
それなら目黒にも分かりやすいし、翌朝自分も困らない。
横に、
『基本方針』
と入力する。
さらに候補を増やす。
『今日はキスだけ』
『今日はハグ多め』
『今日は甘やかして』
最後の一文を見て、阿部は首を傾げた。
「……甘やかしてはいつもか」
削除。
代わりに。
『今日は俺の言うこと聞いて』
入力した瞬間。
嫌な予感がした。
「これ絶対めめ喜ぶな」
目黒が嬉しそうに笑う姿が簡単に想像できる。
新しいブームを増やしてどうする。
阿部は即座に削除した。
「危険」
いったん整理することにした。
目的は。
目黒も満足する。
自分も安心する。
そして。
翌日、普通に生活できる。
阿部はメモの下へ書き足す。
『目標:翌日に支障が出ない範囲』
さらに。
『評価項目』
『①首の痛み』
『②気怠さ』
『③目立つ跡の有無』
『④めめの満足度』
『⑤俺の恥ずかしさ』
そこまで入力して、阿部の手が止まった。
「……待って」
完全に実験計画になっている。
しかも⑤だけ測定方法が分からない。
しばらく考えた末。
『⑤俺の恥ずかしさ ※測定不能』
とだけ付け加えた。
「俺、何してるんだろ……」
それでも消す気にはならなかった。
勢いで『全部ちょうだい』と言って翌朝困るよりはいい。
キスマークも。
噛み癖も。
自分が嫌ではなく、翌日に困らない。
目黒も嬉しい。
そのギリギリを探せばいい。
「……今日はもう少しマイルドにしよう」
阿部は今夜の候補を絞っていく。
『もう少しキスして』
これはいい。
『跡、少しだけならいいよ』
少し恥ずかしいけれど、必要。
『噛むなら痛くないくらい』
これは絶対に言う。
最後に、一つだけ新しく書いた。
『今日は、ちょっとだけ欲しい』
「……」
阿部の顔がじわじわ赤くなる。
「ちょっとって、どのくらい?」
自分で書いておいて分からない。
でも“全部”よりは確実にマイルドだ。
少し悩んで、その一文の横に丸を付けた。
今夜の第一候補。
そして、スマートフォンを置こうとしたところで。
阿部の手が止まる。
「……これ、めめに見られたら終わる」
昨夜のおねだりだけでも、一生覚えていると言われた。
こんなメモまで見つかったら。
『これ、上から順番に試す?』
嬉しそうにそう言う目黒が簡単に想像できる。
「絶対ダメ」
阿部はメモアプリを閉じ、画面をロックした。
「……今日こそ、ちゃんと加減してもらお」
首元をそっと撫でる。
倦怠期問題は無事に解決した。
ただし今度は。
目黒のおねだりブームを制御するための、阿部なりの研究が始まっていた。
夕方。
阿部は何度目か分からないほどスマートフォンのメモを見直したあと、時計を確認した。
目黒が帰ってくるまでは、まだ少し時間がある。
「……一応」
連絡しておいた方がいい気がする。
誰に、なんて、考えるまでもなかった。
阿部は連絡先を開く。
数回の呼び出し音のあと。
『もしもし』
「翔太?」
『何』
声からして、かなり普通だ。
阿部は少しだけ安心した。
けれど、これから話す内容を思うと、喉の奥が妙に詰まる。
「今、大丈夫?」
『大丈夫だけど。何?』
「ちょっと相談」
一瞬。
向こうが黙った。
『……また?』
「またって何」
『その入り方した時、最近ろくな相談じゃないから』
「そんなことないでしょ」
『彼シャツ』
「……」
『ランジェリー』
「もういい」
『倦怠期』
「それも解決したから!」
阿部が少し声を大きくすると、電話の向こうで渡辺が笑った。
『で? 今度は何』
阿部はソファに座り直す。
「倦怠期じゃなかった」
『うん』
「おねだり待ちだった」
『うん』
「で、昨日ちょっと……」
言いかけたところで、昨夜のことが鮮明に蘇る。
自分から目黒の膝に乗ったこと。
『ほしい』と口にしたこと。
『全部ちょうだい』なんて言ってしまったこと。
思い出すだけで、耳まで熱くなった。
「……ちょっと怠い」
声が自然と小さくなる。
渡辺がすぐに察した。
『やりすぎた?』
「言い方」
『違うの?』
「……ちょっと怠い」
『ほら』
「あと、噛まれたところが痛い」
『ほら!』
渡辺の声が少し大きくなる。
『佐久間が昨日言ってたじゃん。今の方が安心だって』
「だから今、反省してるの」
『で?』
阿部は少し迷ってから、スマートフォンのメモを開いた。
画面には、自分で作った『おねだり候補』の文字が並んでいる。
改めて見ると、やっぱり恥ずかしい。
誰かに見せるつもりなどなかったのに、今からそれを口にしようとしている。
「今日から加減しようと思って」
『……何を?』
「おねだりを」
また。
沈黙。
阿部はスマートフォンを握り直した。
『待って』
「何」
『おねだりって加減するものなの?』
「するでしょ」
『知らないよ』
「昨日、“全部ちょうだい”って言ったからダメだったんだと思う」
その言葉を口にした瞬間、昨夜の自分の声まで思い出してしまう。
阿部は思わず視線を落とした。
『……』
「だから今日は、もう少しマイルドにする」
電話の向こうから、深い溜め息が聞こえた。
『あべちゃんさ』
「何」
『何でそういうところだけ妙に真面目なの』
「ちゃんと考えないと同じことになるでしょ」
『いや、普通はそこまで分析しないから』
阿部は少しむっとする。
「でも一応考えたんだよ」
『何を』
「候補」
『……候補?』
「おねだりの」
渡辺が完全に黙った。
阿部は、言わなければよかったかもしれないと思った。
けれど、もう引き返せない。
「翔太?」
『いる』
「何か言ってよ」
『今、呆れてる』
「ひどい」
『だって何。“おねだり候補”って』
「だから、昨日よりマイルドにするための」
『それ、メモしてんの?』
阿部の動きが止まる。
「……何で分かったの」
『してるんだ』
「違う」
『今認めたじゃん』
「違わないけど」
『どっちだよ』
渡辺の声には、もう完全に笑いが混ざっていた。
阿部は頬が熱くなるのを感じながら、それでも真面目に続ける。
「でも、ちゃんと考えたんだよ」
『はいはい』
「“もう少しキスして”とか」
口に出した途端、目黒に向かって言う場面を想像してしまった。
声の調子はどうするのか。
どのくらい近づけばいいのか。
考え始めると、また恥ずかしくなる。
『普通』
「“跡、少しだけならいいよ”とか」
今度は自分で言っておきながら、耳まで赤くなった。
渡辺の反応を聞くのが怖くて、阿部は黙ってしまう。
『……まあ』
「“噛むなら痛くないくらい”とか」
これは必要だ。
必要なのだと自分に言い聞かせながら口にする。
『そこは絶対言いな』
「でしょ?」
『そこだけは今すぐ採用』
阿部が少し笑う。
けれど、次の候補を口にする前には、また指先が止まった。
「あと……」
言ってしまっていいのか迷う。
メモに書いた文字を見るだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
それでも、渡辺に相談すると決めた以上、最後まで話すことにした。
「“今日はちょっとだけ欲しい”」
渡辺が。
また黙った。
阿部はスマートフォンを握る手に力を込める。
「……何」
『それ、めめに言うの?』
「候補」
『言ったらまた喜ぶんじゃない?』
「それが問題なんだよ」
目黒が嬉しそうに笑う姿を想像しただけで、阿部の顔がさらに熱くなる。
『じゃあ言うなよ』
「でもおねだりしてって言われるし」
『面倒くさ』
「翔太」
『はいはい』
阿部はメモを見ながら、少し不安そうに聞いた。
「この作戦、まずいかな?」
渡辺は少し考えたようだった。
その間、阿部は返事を待ちながら、メモの候補を一つずつ見直した。
どれも自分で考えたものなのに、今となっては目黒に見られる場面ばかり浮かんでくる。
それから。
『まあ』
「うん」
『せっかくそこまで考えたんなら、やってみれば?』
「いいの?」
『何で俺に許可取るの』
「だって、相談しなかったら怒りそうだから」
『……』
阿部は思っていたことをそのまま口にした。
「なんとなく」
渡辺が呆れたように息を吐く。
『俺、あべちゃんの保護者じゃないんだけど』
「でも怒るでしょ」
『内容による』
「ほら」
『いや、でも今回は別にいいんじゃない?』
「本当?」
『ちゃんと嫌なことは嫌って言うんでしょ?』
「言う」
『痛いのも嫌なら言う』
「うん」
『だったら好きにしたら』
阿部はようやく肩の力を抜き、ソファの背もたれへ身体を預けた。
「よかった」
『ただし』
「何」
『明日の収録で結果聞くから』
阿部が固まる。
「……え?」
『成功したか』
「聞かなくていい」
『何で』
「報告するようなことじゃないでしょ」
『今相談してきたのあべちゃんじゃん』
「事前相談と結果報告は別」
『同じだよ』
「違う」
『じゃあ俺、明日聞くから』
「翔太」
『何』
「忘れて」
『無理』
即答だった。
阿部は頭を抱える。
「相談しなきゃよかった」
『相談しないと怒られると思ったんでしょ?』
「……思った」
『じゃあ相談して正解』
完全に楽しんでいる。
阿部は小さく息を吐いた。
「もう切る」
『はいはい』
「じゃあ明日」
『うん』
一拍置いて。
渡辺が言う。
『頑張って』
「何を!?」
電話の向こうで笑い声が聞こえた。
そして、そのまま通話が切れる。
阿部はしばらくスマートフォンを見つめた。
「……絶対面白がってる」
そう呟きながらも、渡辺に止められなかったことに少し安心していた。
むしろ。
“やってみれば”と言われた。
阿部はもう一度メモを開く。
今夜の第一候補。
『今日は、ちょっとだけ欲しい』
その文字を見た瞬間、さっき口にした時の恥ずかしさが蘇った。
目黒の前で言う自分を想像すると、胸が落ち着かない。
「……ちょっとだけだから」
自分に言い聞かせる。
けれど、その言葉だけでも十分に甘く聞こえてしまい、阿部は慌てて画面を伏せた。
すると。
玄関の方から。
鍵の開く音がした。
阿部の身体がぴたりと止まる。
「……早い」
聞き慣れた声が響く。
「ただいま」
阿部は慌ててメモアプリを閉じた。
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おはようございます☁️ 一気に読みました。 💚本当に真面目すぎる🧐 いろいろ検索してメモに残して💙相談して どんな報告になるのかな… おねだり待ってたと言う🖤確信犯だね。 さて続きどうなるのか楽しみに待ってます♪
第6話、拝読しました。阿部くんの「おねだり候補」メモ作成シーンは思わず笑ってしまいました…!危険度評価や測定不能項目まで記録するその几帳面さ、完全に彼の性格が出ていて愛おしいです(笑)。渡辺との電話も絶妙な間合いで、「保護者じゃない」と言いながら結局ちゃんと話を聞くスタンスが本当に彼らしくて好きです。「ちょっとだけ欲しい」を口にしたあとの慌てた様子や、目黒の帰宅に動揺するところまで、阿部くんの可愛さが詰まったエピソードでした。ブームがどう発展するのか、次話も楽しみにしています!