職場に一人、必ずいる。
空気を握って離さない人間。
今日もまた、会議室の片隅でその人――課長の久我(くが)が、薄く笑いながら場を仕切っていた。
「まあまあ、そんなに深刻にならなくていいよ。ここは楽しくやろう。ね?」
誰かが真剣な意見を口にしかけても、そのひと言で空気が軽薄にすり替えられる。笑いが起こるが、どこかぎこちない。
彼のやり方は巧妙だ。ピリついた雰囲気が出ると、冗談を放り込んで中和する。逆に沈黙が流れると、わざと大げさに感嘆して盛り上げる。
一見、気配り上手に見える。だが、そこにあるのは他人の議論や感情を「自分の操れる舞台」に固定する欲望だった。
私は長いこと、その舞台装置の中で役者を演じていた。
笑うタイミングを合わせ、発言の熱を殺し、彼の望む「雰囲気」に自分を従わせていた。
気づいた時には、自分の言葉の輪郭すら薄れていた。
だが今日、ふとした拍子に思った。
――私、別にここで生き延びたいわけじゃない。
操られた空気に溶け込むためだけに存在しているわけじゃない。
議題の途中、私は手を挙げた。
「課長、それ、冗談で流す話じゃないと思います」
空気が一瞬固まった。いつものなら、久我が「おっと、怖い怖い」と軽く流すはずだ。
けれど、私は続けた。
「みんなが真面目に考えたいことを、笑いに変えてしまうのは……もう、やめませんか」
視線が一斉に集まる。喉が焼けるように熱い。
久我は笑みを保とうとしたが、目だけが揺れていた。
その瞬間、不思議なことに気づいた。
彼の「空気コントロール」は、みんなの沈黙と迎合で支えられていたのだ。
私が黙って従わなければ、魔法は崩れる。
しんと静まり返る会議室で、私は心の中で呟いた。
――雰囲気コントロール魔、さようなら。
久我の笑い声は、もう舞台の中心にはなかった。
(了)
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