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——首都機能停止事件——
「——以上、来年度の予算配分案について異論はあるか?」
コロンビア特別区はスーツの胸ポケットから銀色のペンを取り出し、会議用の長テーブルを見渡した。彼の隣には、白いフリルのワンピースを着た小さな存在が、椅子に正座している……いや、正座からずり落ちそうになりながら、うつらうつらと船を漕いでいる。
「異論があるなら、適切な書式で提出されたし。ちなみに提出期限は昨日だ」
彼の言葉に、周囲の州たちは無言で顔をそらした。テキサスはカウボーイハットのつばを深く被り直し、フロリダはアロハシャツの襟元をパタパタと扇いでいる。
「……では、次の議題に移る」
でしーがそう言って、分厚い書類の束を捲ったその瞬間だった。
「……ぷに?」
(なまえ)が突然、目を開けた。正確に言えば、閉じていた瞼の下で眼球がぐるりと動き、彼女特有の「見ているのか見ていないのか分からない」状態になった。
「……んにゅ?」
彼女は首を右に大きく傾け、左手の三本の指で自分のワンピースの裾を摘まんだ。そして、もう一度。
「……にゃ?」
「どうした、(なまえ)。眠いなら寝ていいぞ。ただし、いびきは『雑音条例』で禁止されているからな」
でしーが形式的な笑みを浮かべて言う。彼の目は、すでに次の書類に移っていた。
しかし、(なまえ)はその言葉を聞いていなかった。いや、聞こえてはいたが、意味を理解するのに数秒のラグがある。彼女の小さな脳みそは、今、目の前の「現象」を処理しようと必死だった。
「……ぱんつ」
「なに?」
でしーの手が止まった。
「……みえてりゅ」
(なまえ)の左手の人差し指(唯一欠損していない指)が、ゆっくりと、しかし明確に、でしーの下半身……具体的には、彼のスラックスの臀部辺りを指し示した。
「………………」
会議室に、真冬のシベリアよりも冷たい沈黙が降りた。
「……ぱんつ。みえてりゅ。やし〜」
(なまえ)はもう一度、はっきりと、確信を持って言った。そして、その口角が「にひっ」と上がる。どうやら彼女は、自分が「非常に重要な発見」をしたと確信しているらしい。
「……何を言っている」
でしーの声が、わずかに低くなった。
「しょれ。でしーの。おしりのとこ。ぱんつ。はみでりゅ。しょれ。ばっきゃにいちぁんの。ぱんつ。しゃいろ。しろ? きゃわ?」
(なまえ)語を「翻訳」する必要はなかった。全員が、完璧に理解した。
「それ、DCの。お尻のところ。パンツ。はみ出てる。それ。バカ兄ちゃんの。パンツ。色。白? 可愛い?」
テキサスがカウボーイハットを脱ぎ、額の汗を拭った。フロリダが「おおっと」と声を漏らし、手に持っていたコーヒーカップを置く。アーカンソーは無表情のままだったが、その目がわずかに細められた。ウエストバージニアは……完全に石化していた。
「……そんなはずは」
でしーは、あくまで冷静を装いながら、自分の背後……腰から尾骶骨にかけての辺りを、無意識に左手で触れた。
指先が、少しだけ「はみ出ている感触」を捉えた。
アイロンをかけたはずのシャツの裾が、わずかに、本当にわずかに、スラックスのウエストから逃げ出していた。そしてその隙間から、白い……正確には生成りの綿の……ハイレグでもなんでもない、完全に実用的な……ボクサーブリーフの一部が、3ミリほど外の世界に顔を出している。
「…………」
でしーの顔から、血の気が引いていくのを、全員が見た。
「……これは、だな……執務中の運動によって、衣服が……いわゆる『ずれ』という物理現象が……」
彼の口から、いつもの「ルール」や「手続き」の言葉が一切出てこない。出てこないのだ。パンツがはみ出ている男に、権威も威厳もルールも存在しえない。この混沌とした世界では、それが絶対のルールだった。
「きゃわ〜♡ でしーの。ぱんつ。しろやし。きれー。ぷにぷに?」
(なまえ)は無邪気に拍手している。いや、左手だけで「ぱちぱち」と鳴らしている。欠損した右手は、断面を喜びに震わせているだけだ。
フロリダがついに我慢できずに笑い出した。
「ぷっ……あっははははは! いや、マジで。DCのパンツ。白。しかも、この期に及んでまだ『これは物理現象です』ってごまかそうとしてるのが、お前らしくて最高に『フロリダっぽい』!」
「フロリダ。君は黙っていなさい。これは厳格な——」
「てきさすも、みえたやし」
テキサスが、低く響く声で呟いた。
「……は?」
「てきさすも。ぱんつ。みえてりゅ。でっきゃい……しょれ。ばっきゃにいちぁん。なんちゅうか……『てきさすさいず』の……ぱんつやし」
(なまえ)の指が、今度はテキサスのベルトの下あたりを指し示した。
テキサスが自分の腰回りを見下ろす。彼の「DON’T MESS WITH TEXAS」と刺繍された巨大なベルトバックルの下で、ジーンズのボタンが一つ、外れかけていた。そしてその隙間から、星条旗柄……いや、「テキサス共和国」の旗柄のボクサーパンツの一部が、雄大に、堂々と、はみ出している。
「…………」
テキサスの表情が固まった。だが、彼は敗北を認めない男だ。
「……『テキサスサイズ』ってのは、そういうことだ。パンツも、はみ出すほどデカい。誇らしいことだ。Don’t mess with my underwear.」
「誇らしいことじゃないよ、それ……」
ケンタッキーが額に手を当てて呟く。彼の手にはバーボンのグラスがあったが、もうとっくに空だった。
「……あらばまも」
(なまえ)が飽きることなく、次の標的に移る。
「……おっと、俺はノーサンキューだぞ」
アラバマが両手を挙げて降参のポーズを取った。しかし、(なまえ)の指は止まらない。
「あらばまの。ぱんつ。ぱんつ……にゃ? あらばま。ぱんつ。はいちょりゅ?」
「はいちょるも何も、履いてるに決まって——」
アラバマが自分のウエストを確認した瞬間、彼の顔からも血の気が引いた。
彼のベルトは、確かに閉まっている。ジッパーも上がっている。しかし——彼が朝、急いで履いたそのパンツは、なぜか「前後逆」だった。タグが、尻の辺りからひょっこりと顔を出している。
「…………これは『家族の掟』だ。家族は……こういう時、お互いの間違いを指摘し合うんだ」
「それ無理矢理すぎるやろ……」
ノースカロライナが「First in Flight」のTシャツの襟を直しながら言った。彼の顔には、他人事なので安心という表情が浮かんでいる。
しかし、その安堵は長くは続かなかった。
「……のーすかりゃいなも」
「え」
「みえてりゅ。おなかのした。ぱんつ。あか。きゃわ?」
ノースカロライナが自分の腹を見下ろす。Tシャツの裾が、少し捲れ上がっていた。そして、そこから——赤い、彼の好きな大学スポーツチームのロゴが入ったボクサーパンツが、元気よく顔を出している。
「あああああっ!」
ノースカロライナは悲鳴を上げて、Tシャツの裾を必死に引っ張った。
その様子を見て、フロリダがげらげら笑い転げている。
「あはははは! お前ら全員、パンツ見えてんじゃん! やっぱり今日は『パンツ見せ合う日』かなんかなの?」
「……ふろりだも」
(なまえ)の声が、フロリダの笑い声をピタリと止めさせた。
「…………は?」
フロリダは、自分のアロハシャツの下——ショートパンツのウエストを確認した。彼はいつも通り、ラフな格好をしていた。ラフ過ぎた。
ショートパンツのゴムはとっくに伸びきっていて、ずり落ちかかっている。そして、彼が履いていたのは——蛍光ピンクの、ウサギのイラストがプリントされたトランクスだった。しかも、そのウサギの目が、異様にギラギラしている。
「…………」
フロリダの笑顔が、ひきつった。
「……これ、『フロリダっぽい』んだよ。お前らには理解できない『ハイセンス』ってやつ——」
「へんたいやし」
(なまえ)が、一言で断じた。
会議室が、再び氷河期に突入する。
誰もが、自分のパンツの状態を確認するために、そっと、しかし素早く腰元を触った。ケンタッキーは優雅に、テネシーはギターをかき鳴らすふりをして、サウスカロライナは「基準」に照らして厳しく自分のファッションをチェックしている。
そして、(なまえ)は最後に、満足そうに頷いた。
「じぇんいん。ぱんつ。みえてりゅ。やし〜。ばっきゃにいちぁんたち。ぱんつ。みえちゃうやし。ばっきゃやし〜♡」
彼女は、自分の「偉大な発見」にご満悦の様子だ。彼女の膝の上では、ぷにくま(ぬいぐるみ)もまた、取れた左目でこの光景を見ているかのように、無言の肯定を送っている。
でしーは、深く長いため息をついた。
彼の手元には、大量の書類——「会議中のパンツはみ出し問題に関する緊急条例案」を起草するための書式が、無意識のうちに準備されていた。
「……では、緊急議題を追加する。『本日以降、全ての参加者は、会議前に相互にパンツの状態を確認すること』——これはルールだ。異論は認めない」
「ルールで解決する問題じゃないと思うけど……」
誰かが呟いたが、その声は、またしても誰かのパンツがはみ出たことによって起きた小さな悲鳴にかき消された。
(なまえ)は、全ての責任を「ばっきゃにいちぁん」に押し付けながら、ぷにくまをぎゅっと抱きしめた。
「……ぷにくまの。ぱんつ。みえてない。やし。ぷにくまは。えらい」
彼女は、ぬいぐるみを褒めて、自分を慰めた。
今日も、世界は狂っていた。
そして、その狂気の中心には、いつだって、小さな混沌の塊——(なまえ)がいた。
K
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