のめり込むことを最近は〈沼る〉というらしい。文字通り不倫に沼った愛理という女でさえ救いの手が差し伸べられた。
不倫どころか男は夫しか知らない私がむざむざ不幸になっていいわけがない! 一度は逃げて回答を保留していた菜の花ママの相談に、私はふたたび向き合うことにした。
もちろん相談に向き合うといっても菜の花ママの相談にもっと親身になるという意味ではなく、菜の花ママの相談を目にして以来胸にわだかまるもやもやを払拭することにしたという意味だ。
(回答)菜の花ママへ (回答者)人妻キラー
(投稿日時)9月21日10時12分
あんたの書いたおれへの返事を読んだあと二晩じっくり考えて、あんたは決めた道に進むべきだという考えに変わった。おれが反対したところでどうせあんたはいつか行動を起こしてしまうだろう。だから、いっしょにシークレット結婚式を挙げた男を奥さんからスマートに、つまりなるべく揉めずに奪い取る方法を特別にあんたに教えようと思う。
ただそれは不特定多数の人の目に晒せない方法も含んでいるから、ここには書けない。もし興味があれば、さっき作ったばかりの捨てアドのアドレスを残しとくからそれ宛にメールしてくれ。メールをやり取りするだけだが、それでも心配ならあんたも捨てアドを作って、そこから送ればいい。
返事を待っている。
メールアドレス hitozumakiller0630@gjmail.com
正直菜の花ママの相談などどうでもよかった。考えれば考えるほど菜の花ママが略奪したいと言っている男が幸季さんではないかと思えて仕方なかった。
もちろん何ヶ所か辻褄の合わない部分はある。その男が奥さんに産ませた子どもの人数とか。でも相談者が身バレを防ぐために話の中にフェイクを紛れ込ませることはよくあることだ。菜の花ママの娘の名前も本当は菜の花ではないそうだし、どこまで事実でどこから嘘なのかよく分からない。
分からないなら確かめるしかない。生々しい個人情報を不特定多数が目にする場所でやり取りするわけにはいかないから、メールでのやり取りをしたいと持ちかけたわけだ。
祈るような気持ちだったが、捨てアドを書いて投稿した二時間後にはもうメールが届いた。
件名 寝ても覚めても彼のことばかり考えています
from balloonflower1010@mahoo.co.jp
宛先 hitozumakiller0630@gjmail.com
日付 9月21日12時10分
人妻キラーさんへ
菜の花ママです。正直どうしようかと思ったのですが、彼を奥さんから揉めずに奪い取る方法をどうしても知りたくて勇気を出してメールしてしまいました。人妻キラーさんを信用して捨てアドではなく、ふだん利用しているメールアドレスから送信しました。
なんて実は嘘です。捨てアドを作るのが面倒だっただけです。お金はないので見返りを求められても困りますが、結婚まで考えていた恋人を突然よく分からない女に横取りされた女を哀れんで、十五年越しの私の恋の成就にぜひ協力して下さい。よろしくお願いします。
かかった!
被害者面しているが、妻子持ちの男を横取りしようとしているこの女は紛れもなく加害者だ。もしかしたらこの女の被害者になるのは私かもしれない。そう思うと、哀れみなど1ミリも湧いてこない――
とそのとき、菜の花ママがかつて幸季さんの恋人だった動かぬ証拠をメールの文面から見つけてしまって目の前が真っ白になった。
動かぬ証拠とはメールアドレス。メールアドレスの@(アットマーク)の前の部分。balloon flowerとは桔梗の英語名。つまり菜の花ママの本名は桔梗なのだ。私の次女の名前と同じ。
私たちの娘の名前は二人とも幸季さんが考えた。つまり幸季さんは次女が生まれたとき、元カノの名前をつけたということ? 元カノといってもただの元カノじゃない。お互い大勢の友達を呼んでシークレット結婚式を挙げ、二人の子どもまで誕生している。次女は春に生まれたのに名前が秋の花の桔梗というのは不思議だったけど、そう考えるとすべて辻褄が合う。
だとすると長女の名前は? 秋に生まれたのに名前は春の花の菫。菜の花ママの子の菜の花という名前が身バレを防ぐための偽名というのはすでに聞いている。まさかそんなこと……。でもそうとしか考えられない……
そのことに気づいて間髪入れず、猛然と返信の文面の入力を始めた。ふだん便利でお手軽なSNSに慣れきっているから、メールのやり取りは面倒だったが、そんなこと言っている場合じゃない。
件名 こちらこそよろしく
from hitozumakiller0630@gjmail.com
宛先 balloonflower1010@mahoo.co.jp
日付 9月21日12時26分
菜の花ママへ
人妻キラーです。お返事ありがとう。妻子ある男をスマートに奪う方法だったな。一つ確認させてほしい。あんたが彼といっしょになるにしても三人いるという彼の子どもはどうするんだ? 奥さんのもとに置いていくのか? それとも子どももセットで迎え入れるのか? 子どもが二人なら夫婦で一人ずつ取り合うという手もあるが、三人ではそれも難しいな。
彼の子どもをどうしたいかで彼を略奪する方法も変わってくるから早急に教えてほしい。
ところで、メアドを見て思ったが、娘だけでなくあんたの名前も花の名前なのか? balloon flowerって桔梗のことだよな。好きな花だから、うちの花壇にも植えてある。おれの勝手な好みだが、桔梗の花には菫の花がよく似合う。あんたの娘の名前は本当は菜の花じゃないそうだな。菫だったら個人的にとてもうれしい笑
件名 わあ、びっくり!
from balloonflower1010@mahoo.co.jp
宛先 hitozumakiller0630@gjmail.com
日付 9月21日12時36分
人妻キラーさん、もしかして本業は探偵さんですか?
仰る通り、私の本名は桔梗です。ちなみに名字は秋山なので、桔梗という名は今ではちょっと古くさいですが、名字と合わせるとなかなかいい名前だと子どもの頃から思ってました笑
それから私の娘の名前は実は菫なんです! 娘の産まれた日に見たどこかの花壇の菫がきれいだったそうで、彼が菫と命名しました。私のうちでも花壇に菫と桔梗を植えてます。開花時期は微妙にズレるのですけど、毎年少しは同時に咲いてくれる
ものがあって、それを見るのが毎年の楽しみになってますね。
あ! 本題の方を書き忘れるところでした。彼と奥さんの子どもをどうするかという件ですね。実は彼が奥さんに産ませた子どもが三人いると書いたのは身バレを防ぐためのフェイクで、本当は二人でどちらも女の子です。
奥さんとの子をどうしたいか、急いで彼に聞いてみます。もし二人とも手元に置きたいと彼が希望した場合、希望を叶える方法はあるんでしょうか? もしお知りなら、それも教えていただきたいです。では!
件名 了解!
from hitozumakiller0630@gjmail.com
宛先 balloonflower1010@mahoo.co.jp
日付 9月21日12時42分
秋山桔梗さんへ
せっかく本名を知ったから、これからは本名で呼ばせてもらうよ。
離婚するに当たって子どもの親権を取る方法も知りたいというわけだな。あんたは運がいい。おれはそのことについてもまあまあ詳しい。彼からの返事が聞けたら、まとめて教えてあげるとしよう。
――などと偉そうな調子で返信をしたが、内心気が狂わんばかりだった。
菜の花ママがシークレット結婚式を挙げた相手が幸季さんのわけがないと無理に信じ込もうとしていた。略奪婚を狙う男が奥さんに産ませた子どもの数は三人だと当初菜の花ママは言っていた。それだけが私の心の拠り所であり、私の心の平和を保つための防波堤だったのに、ただのフェイクだったと分かりあっさりと決壊した。
菜の花ママこと秋山桔梗が幸季さんの元恋人だったことは、もう疑いようもない事実になった。いや元恋人というのは間違いかもしれない。私との婚約の前か後か知らないが、友人たちのセッティングでシークレット結婚式を挙げ永遠の愛を誓い、彼女は幸季さんとの子を身ごもり、そして出産した。幸季さんは私に黙って、十万円もの大金を養育費として毎月彼女に送金。私との結婚後に彼女と直接会うことはなかったようだけど、SNSでつながっていて私との結婚生活、特にデリケートな夫婦生活についてしょっちゅう愚痴をこぼしていたそうだ。私とのセックスは逆レイプだとか。愚痴だけではない。
おれが愛する女も抱きたい女も永遠におまえ一人だ!
今まで一度も彼から聞いたことないような、こんな情熱的な愛の言葉まで惜しみなく彼女に投げかけていた。
それにしても私は何の罪があってこんな罰を受けなければならないのだろう? 今の今まで夫とは相思相愛の仲だと信じ切っていた。彼が愛していた女は秋山桔梗ただ一人。私が産んだ上の子には先に彼女が産んだ子の名前をつけ、下の子には永遠の愛を誓った私ではない別の女の名前をつけた。
もしかしたら私たちは秋山桔梗・菫親子の代わりでしかないのかもしれない。幸季さんにとって、会いたくても会えない向こうの人たちこそが本当の家族。私たち母子三人はただのまがい物。
たとえればカニのまがい物のカニカマ。私たちはカニカマ家族。いくら食感が似ていてもカニカマがカニになれないように、決して本物の家族にはなれない。
私を愛してもいない人と暮らし、何の疑いもなくその人を愛し続けた。幸せだと信じていた。死ぬまで私の隣には幸季さんがいるものだと信じていた。十五年の結婚生活のすべてを否定された気分だ。
私と結婚したのは出世目当て? だとしたら幸季さんを軽蔑する。私だけじゃない。幸季さんとシークレット結婚式を挙げた秋山桔梗だって未婚の母となることを余儀なくされた。
彼女は幸季さんを略奪するのは彼のためだと言うが、間違いなく彼女自身のためでもある。いくら養育費を受け取っていても、十五年もシングルマザーとして生きてきた厳しさや寂しさは並大抵のものではなかったはずだ。私が幸季さんに愛される彼女に嫉妬しているように、彼女だって幸季さんと暮らす私に嫉妬してきたに違いない。
だからといってこんな仕打ちは許されない。私にとっては悪夢でしかない。ただの夢なら目を覚ませば消え失せるが、この悪夢はどうしたら私の意識から消えてくれるのか?
いても立ってもいられず、まずは証拠集めから始めることにした。離婚のため? 復讐のため? 分からない。ただ何もせずじっとしていると、顔も知らない秋山桔梗がどこまでも私を追いかけてくるようで、平常心でいられなくなる。
まずはお金の流れを追ってみた。幸季さんの預金通帳なら金庫の中にある。見るとずっと通帳記入されてなかった。キャッシュカードは幸季さんが持っているが、通帳記入するだけならカードは不要。
でも幸季さんはさすがに賢かった。なかなかしっぽをつかませない。
銀行のATMで通帳記入してみたところ、毎月給料日に私に渡す30万円のほかに、15万円を別に引き出しているが、その15万円の行方は不明。おそらく別口座に移し替えて、そこから秋山桔梗の口座に送金しているのだろう。
次の証拠集めは、幸季さんが私に嫌なこと(!)をされたあとに必ず見ると秋山桔梗が言っていたシークレット結婚式の画像を見つけること。この家には幸季さんの部屋はないが、それまで父が使っていた書斎が結婚後にこの家で暮らし始めた幸季さん専用のスペースになった。
幸季さんのプライバシーを尊重して私が書斎に立ち入ることはなかったけど、彼がシークレット結婚式の映像を楽しむ場所があるとすればそこしかない。
書斎にはもともと鍵がついてなかったが、幸季さんの希望で内側からかけるタイプの鍵があとからつけられた。だから幸季さんの勤務中なら書斎に立ち入ることはできる。でもやはり早々に壁にぶち当たった。
広さ三畳ほどの狭い書斎なのに、物が少なくてよく整頓されていたのには感心させられた。書斎のデスクの上に古いデスクトップパソコンが鎮座している。目的はそれ。
ただ几帳面な幸季さんらしくここにも抜かりはなかった。パソコンに保存されているデータを確認しようにも、パスワードが分からないからパソコンを起動させることができない。パソコンの中に見られたくないデータが入っているなら、パスワードを教えてほしいと私に言われたらすぐデータをどこかに移してしまうだろう。
専門業者を頼ることにした。ネットで検索して見つけた、パソコンの中のデータをすべて外付けハードディスクにコピーしてくれるという業者と連絡を取り、自宅に訪問して作業してもらうことになった。向こうが希望した作業予定日はずいぶん先だったが、十万円追加するから明日でお願いしますと言ったら明日にしてもらえた。この世に金の力でどうにもならないことはないと父も言っていた。私もその通りだと思う。
次は、当時の事情をよく知る人への事情聴取。
夜、早めに帰ってきた父が和室で一人で晩酌をしていたのに途中からつきあった。父は社長だから勤務時間などあってないようなもの。だいぶ前から飲んでいたらしい。そのときすでに出来上がっていて、顔も真っ赤だった。
「蛍が晩酌につきあってくれるなんて珍しいな」
「たまには親孝行しないとね」
「蛍の親孝行ほど怖いものはないな。前回のときはバッグを買わされたんだっけな」
「バッグは前々回。この前は時計。ほら、ちゃんと今もつけてるよ」
「今度は何がほしい? 当ててやろう。指輪か?」
そのとき私は指輪を外していた。幸季さんが別の女とシークレット結婚式を挙げていたことがほぼ確定して、結婚指輪をはめる気になれなくなったからだ。
「何もいらないからちょっと話をしよ」
「どんな話がしたい?」
「十五年前の話」
「そんな昔のことは覚えてないな」
「私のお見合いの話なら覚えてるでしょ。三人とお見合いしたけど、三人ともお父さんがお見合いを持ちかけたって聞いたよ」
「それなら覚えてる。蛍の夫になるということはうちの会社の跡取りになるということだからな。三人ともしっかり調査した上で見合い話を持ちかけたんだ」
「本当にしっかり調査した?」
「どういうことだ?」
「幸季さんなんて仕事はできるしルックスもいいし性格も優しくて、結婚して十五年彼が怒るのを見たことがない。そんなすごい人に恋人がいなかったなんていまだに信じられないもの」
「恋人ならいたさ」
父はなんでもないことのように言ったけど、私は動揺を顔に出さないようにするのに必死だった。
「おれが調べたのはこの会社を背負っていくだけの、つまり経営者の器があるかどうか。恋人の有無など問題ではない」
「つまりお父さんは、当時幸季さんに恋人がいたと知っていて私と見合いさせたということ?」
「ああ。婚約はしてなかったが、結婚の話も出ていたようだ。蛍が幸季君と結婚できたのは幸季君の母親のおかげさ」
幸季さんのお母さんは体が弱く、七十歳にもならずに若くして寝たきりになり、当時は特別養護老人ホームに入所中。幸季さんの母親らしく穏やかな人だったけど、私たちの結婚後、三年もしないうちに亡くなっている。
「私たちの結婚と幸季さんのお母さんにどんな関係があるの?」
「今だから言うが、幸季君は初め見合いを渋ってたんだ。見合いを断ってもいいが君が今会社を退職すると老人ホームにいる母上が困ったことになるんじゃないのかね、と言ってやったらイチコロだった。蛍との交際が始まったあと、蛍と婚約するまでに女関係は整理しといてくれよと言ったら、承知しましたと言っていたから、まあうまく話をつけたのだろう。うん? 蛍、どうした? なぜ急に席を立つんだ?」
どうしたもこうしたもない。話を聞いているのがつらくなって、私は黙って父のもとから退出した。
幸季さんは出世目当てで私と結婚したわけではなかったようだ。だからといってこれほど人を馬鹿にした話はない。私への愛情など最初から最後までなかったならば、決して許される話ではない。
一番の元凶は私の父。一人娘の幸せより会社の安定を優先させる父は、私が離婚を望んでも幸季さんの味方になり、離婚を踏みとどまるように私を説得しようとしてくるのではないか?
不安ばかりが募る。体調が悪いと言って幸季さんの帰宅前に就寝させてもらった。
帰宅後、幸季さんは母に聞いて寝室に顔を見せた。
「風邪でも引いた?」
「風邪じゃないみたいだけど……」
「ゆっくり休むといいよ。お大事に」
幸季さんは秋山桔梗からの質問にもう答えたのだろうか? 桔梗と再婚するために私に離婚を切り出して、その上娘たちの親権まで私から奪う? 冗談じゃない! これ以上私から幸せを奪われてたまるか!
その夜、夢を見た。
帰りたいのにどうしても帰れない。
見覚えのある街にいるのだけど、歩いても歩いても自宅のある家に帰れない。
思い余って幸季さんに電話した。
「どうしても帰れないの。ここがどこかも分からない」
「タクシーで帰ってくればいいよ」
一言言って電話は切られた。
しまいには雨まで降ってきたけど、私はその場所からいつまでも動けなかった――
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