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ネドマリアに対するジェスランの返答は段平だった。
意識の狭間に抜き放たれ、振り返る体の捻りと共に背後へ刃を振り抜いた。しかしその分厚い刃はネドマリアに届かない。瞬く間もなく、ジェスランの体が机の上に移動したためだ。
次いで畳みかけるようにジェスランに飛び掛かった三羽の炎の鳥は一度に切り伏せられ、掻き消える。しかしジェスランの背後から現れたベルニージュの熾した鳥は肩に食いつき、その体を燃え上がらせた。
熱風を浴び、目を細めつつもユカリは事態を見極めようと堪える。ジェスランの身体能力もシャリューレに負けるともヘルヌスに劣らず超人的な素養に満ちている。一度限りの不意打ちは戦いを確実に終わらせる時でなくてはならない。
ジェスランは身を焦がしながらも冷静に剣の切っ先で机を軽く叩く。すると冷厳なる鈴の音がどこからともなく響いた。奇妙にも剣の存在感が強まる。つまんで抑えられたかのように目を離せなくなる魔の力だ。
鈴の魔音は身を隠していた不思議をこの場に引き起こした。部屋にある無数の蝋燭の火が消える。ジェスランの身を包んだ炎もまた消え失せ、ベルニージュのそばで飛び交う炎の鳥までもが弱まり、硝子の部屋を照らす唯一の明かりは朧に揺らぐ。ネドマリアが喉を抑えているのを見て、ユカリもまた息が苦しいことに気づた。空気が薄くなっている。減圧している。ベルニージュが手を伸ばした扉は外開きだった。
ユカリは銀冠を外し、「グリュエー」と狭まった喉から声を引き絞った。
次の瞬間、全ての硝子が内に向けて割れ、破片が誰彼構わず降り注ぐ。
「どうしたの? ユカリ。何これ。吹きにくい」
ジェスランの魔法は絶えず力を発揮し続けているらしい。その段平に向かって空気や塵が吸い込まれている。さらには密室でなくなったにもかかわらず空気は薄い。
「息が苦しい」ユカリは喉を絞るように話す。「空気をこの場に吹き込み続けて」
「分かった。任せて。海の底に空気を送り込むよりはずっと簡単だよ」
グリュエーの力で若干呼吸が楽になり、改めて部屋を見渡す。いつの間にかネドマリアの姿がない。ドボルグは部屋の隅で成り行きを見守っている。ベルニージュは五人の火の小人を熾してジェスランに差し向けた。しかしその全てがジェスランに近づくと掻き消える。
同時にユカリは香草を育てている土を踏み、瘴気を放つ。無差別に振り撒かれる瘴気だが、誰を昏倒させるかはユカリが決められる。しかし白く濃い気体は肝心のジェスランのそばで虚空に消えていく。
ジェスランはユカリに目を向け、近づいてくる。ユカリは腰を抜かした風に、這って後ずさりする。冠と靴だけは渡さない、と健気に逃げているように見せかける。
ベルニージュの炎は絶えず襲い掛かり、かつ徐々に強く燃え上がるがどれも無力だった。まだ魔導書の力は使っていないが、使う時はすぐそばのユカリも消し炭になる。
ユカリは館に接する石の壁に追い詰められ、身の陰に隠した真珠の刀剣リンガ・ミルを固く握りしめる。振り下ろされた剣を受け止め、魔法少女の魔法で破壊する姿を想像する。
ジェスランの段平もまた速く鋭かったが、シャリューレの神業と比較すれば止まっているも同然の人間業だ。しかしその剣だけが今この瞬間を支配している。
ユカリは近づいてくるジェスランを睨みつけ、元から微かな息を止め、刃の閃きに意識を集中する。
ジェスランが放ったのは突きだった。しかしその凶暴な切っ先は逸れ、ユカリの首の横に、石の壁に突き刺さった。
「は?」とユカリとジェスランが同時に発する。
しかし双方すぐに気を取り直し、ジェスランはユカリの髪をつかんで、その首の方を刃に押し当てようとし、しかしユカリは魔法少女の魔法で剣を【噛み砕いた】ために、ジェスランの目論見は功を奏さなかった。
その瞬間、折れた剣の魔法が破られ、封じ込められていた空気や音が唸るように噴出し、硝子や蝋燭が弾けるように飛散し、同様に吸い込まれていたらしい植物と土が湧き水のように溢れ返った。
「確かに心臓を狙ったのに、狂わされたか。まずは彼女をやるべきだったな」とジェスランは自嘲気味に呟いた。
その直後、再度ジェスランの背後に現れたネドマリアが振りかぶった椅子をその後頭部に叩きつけた。ジェスランの意識は飛んで、その場に崩れる。
ユカリはジェスランが意識を失ったのを確認してから背中に隠し持っていたリンガ・ミルをかざし、疑うような眼差しを向ける。いつも凶刃から身を守ってくれていたのにどうしたことだろう。ジェスランの鋭い突きに対して、ぴくりとも反応しなかったのだ。ネドマリアの迷わせて惑わせる魔法で刃が迷子にならず、当初の目的地に達していれば……。
「大丈夫? 怪我はない?」ネドマリアがジェスランにとどめを刺した凶器の椅子を脇に置いてユカリに手を貸す。「結界ごと硝子が割れたせいで別の部屋に飛ばされちゃったんだよ。悪かったね、遅くなって」
「いえ、最終的には助かりました。壊したのグリュエーですし。まったくもう」グリュエーの抗議を受けてユカリは陳謝する。「嘘、嘘。ごめん。ありがとうね。グリュエー。助かったよ。それはそうとそもそもネドマリアさんが先走ったせいですから借りは無しです」
「全くその通りだよ。面目次第もない。でも、この男の……」そう言ってネドマリアはジェスランが首から下げていた群青色の石飾りを引き千切って奪う。「この石飾りはこの世で私と姉以外に持っている者はいないはずなんだ」
確かにそれはネドマリアが鞄につけている石飾りと同じ物のように見える。
「ユカリ。良かった。刺されたように見えたよ」駆けつけるベルニージュの気づかいにユカリは頷いて応える。ベルニージュはほっとした様子でネドマリアの持つ群青色の石飾りを見つめて言う。「ジェスランも人攫い。そして元人喰い衆の可能性が高いってことだね」とベルニージュが言うと、ユカリ、ベルニージュ、ネドマリアの視線がドボルグに集まる。
ドボルグは首を振り、手を振り否定する。「俺は知らない。本当だ。忘れたのかもしれねえが、これだけ強い奴なら仕事もできたはずだ。そういう奴を忘れることはない」
「だとすれば」と言ってネドマリアは気を失っているジェスランを見下ろす。「幹部と接点のない下っ端だったか、幹部すら会うことのなかった人喰い衆の頭目か」
ユカリは己の命を奪いかけた折れた剣を見下ろす。魔法の力を失ったらしく、今ではただの剣にしか見えない。
ユカリは記憶を確かめるようにベルニージュに尋ねる。「この剣、ボーニスの剣に似てると思わない? 見た目じゃなくて雰囲気と魔法のことなんだけど」
凍り付いた湖の畔の街トットマでユカリたちに襲い掛かってきて、最後にはクオルの魔術で魔物に変えられてしまった哀れな男、ボーニスについてユカリが知っていることは少ない。サンヴィア地方における動向のほとんどはレモニカに聞いたものだ。曰く、ボーニスは救済機構の天罰官なる役職に就いていて、大聖君より賜った聖剣の使い手、とのことだった。
「うん。力そのものは違うけど剣の在り方は似てた。でも破壊されたってことは、つまり魔導書ではない。にもかかわらずワタシはボーニスにもジェスランにも翻弄させられて。情けない。負けてはいないけど」とベルニージュは落ち込みながら言う。
「それに天罰官だよ。レモニカが前に言ってた」レモニカがクオルとボーニスの会話で聞いたという話をユカリは思い出す。「ボーニスは天罰官なる存在で、救済機構内部で最たる教敵に認定された者を討つための秘匿された僧兵だとか。もしもこのジェスランが天罰官で、救済機構の僧侶で……」ユカリは思い出したようにネドマリアに問う。「そういえば、どうなんです? このジェスランはあのジェスランなんですか? 救童軍の総長、でしたっけ?」
ネドマリアはお手上げする。「分かりはしないよ。この男がそう名乗ってただけなんだから、でも可能性は高いよね、今は天罰官とかいう僧兵だっていうのなら」
「だけど、そのうえ人喰い衆のサリーズだったとしたら」とベルニージュが続ける。「救童軍と人喰い衆は壮大な狂言。かつて子供たちをさらっていたのは救済機構ってことになる」