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3ヶ月前。
由樹は篠崎に手紙を渡し、そして彼にひどい言葉を言われて、時庭展示場を逃げるように飛び出した。
キャデラックの中で紫雨と何を話したのかは覚えていない。もしかしたら、何も話していなかったのかもしれない。
天賀谷展示場で自分の車に乗り換えると、由樹はその足で、千晶のマンションまで行った。
当時合鍵は持っていたが、それでもドアの前で彼女の帰宅を待ち続けた。
日付が変わる直前、彼女は疲れた体を引きずるように帰ってきた。
由樹の姿を見て、綻んだ顔が、瞬時に曇るのを、由樹は心が張り裂けそうになりながら見つめた。
(千晶はいつでも、俺が何か言う前から、全てわかってるんだよな)
彼女の鋭い洞察力に、自分のことを理解し想ってくれた日々に、目から涙が零れた。
「……千晶。俺は篠崎さんが好きだ」
言うと、千晶は疲れたような顔で笑った。
「知ってるよ。そんなの」
「だから、俺と別れてください」
「………」
千晶は鼻で笑いながら、ドアにカードキーを通した。
「うまくいくわけないのに?」
振り返った千晶は馬鹿にするように由樹を見上げた。
「入って。もしかして玄関先で終わらせるつもり?」
「…………」
由樹は頷くと、彼女の部屋に入った。
この数ヶ月のことを話すと、目からは涙が零れてきた。
篠崎のことを想ってではない。
千晶と付き合っていながら、他の人間を好きでい続けた自分に腹が立って……。
そんな話を真正面から聞かされる千晶の辛さを想って……。
しかし彼女は涙一粒流さずに、黙って由樹の話を聞いてくれていた。
「……結局、篠崎って男もあいつと同じじゃない。可愛がるだけ可愛がって。由樹のこと傷つけて」
「違うよ。篠崎さんは、違う」
「……それで?気色悪いって言われて。そんなひどい突き放され方をして。どうして私と別れるって結論に繋がるの?」
千晶の緑色の強い瞳が、由樹を突き刺す。
「……俺は」
その瞳から目を逸らしたくないのに、あふれ出る涙でどうしても曇ってしまう。
「篠崎さんが言う通り、気色悪いゲイなんだよ」
「……私はそう思ったことないけど?」
「篠崎さんのことが好きだ。そしてこれからもきっと、ずっと、好きでいると思う」
「そんなひどいことを言われても?」
「うん」
「今後、彼が結婚して、子供を作って、その幸せを見せつけてきたとしても?」
「うん」
「…………」
「俺は、篠崎さんを、忘れることなんて、できないと思う」
由樹は大きく呼吸をし、膝の上に並べた拳を握りしめた。
「……それなら、俺、一度だけ頑張ってみようかと思って」
「……頑張る?」
「うん。ダメでもいい。振られてもいい。それでも……」
「…………」
「本気で、落としてみようと思って」
千晶の大きな目が丸く開かれた。
形の良い唇がポカンと開いた。
「……ふっ」
千晶は吹き出した。
そして細いお腹を抱えてケラケラと笑いだした。
「…千晶……?」
由樹は泣きはらした目を細めて、笑い転げる元彼女を見た。
笑いすぎて滲んだ涙を拭いながら、千晶は由樹を見つめた。
「面白いじゃない。やってみたら?」
口元を引き締めて頷く由樹に、千晶は微笑んだ。
「でも闇雲にぶつかっていったんじゃだめよ。タイミングは見極めなきゃ、ね?本気ってそういうことでしょう?」
「……うん」
由樹は小さく頷いた。
「きっとそれは、今じゃない。わかるわよね」
「うん」
「お互い冷静になって。それでも彼があなたに関心を示したその時。ふっと手からすり抜けるような態度をとる」
「すり抜ける?」
「追いかけてきたら……」
「追いかけてきたら?」
「…………」
千晶はふっと笑った。
「大人しく捕まればいいのよ」
由樹も微笑んだ。
そんなにうまくいくわけない。
そもそも篠崎に、自分への気持ちがあるのかは、まだ確信が持てない。
でももし、“彼女”が言うように、彼に自分への気持ちがあるなら……。
彼が吐いた暴言が、紫雨とのことを誤解した嫉妬によるものだということが、勘違いでないならば……。
なぜか勝ち誇ったような顔をしている千晶を見上げる。
「でもこれだけは約束して?」
千晶はその小さく、ひんやりと小さい手で、由樹の顔を包んだ。
「その先に何があっても、前に進む。ね?」
「…………」
由樹は彼女の顔を見つめた。
今まで、幾度となく由樹を支え、優しく包んでくれた、最高の彼女。
自分にはもったいないほどのいい女。
彼女に出会えて、
彼女と一時でも心を通わすことが出来て、
良かった。
「うん」
千晶は由樹の頬に優しくキスをした。
「……研究終了。被験生物の解放」
「………え?何それ?」
千晶は謎の言葉を発すると、由樹の肩を叩いて笑った。
別れた彼女に頼るなんて、最低なことをしたと思う。
でも千晶のおかげで自分は今、ここにいる。
今までだったら絶対にできなかった。
名前を出すのも避けてきた男と、たった一人で対峙するなんてーーー。
でもそうしなければ……。
(前になんて、進めないんだ…!)
『次は終点。終点。秋田駅。降り口は左側です』
由樹は立ち上がった。
荷物はコート1枚しかなかったが、通路側に座っていた例の男性が、それを荷台から下ろしてくれた。
「ありがとうございます」
由樹は微笑んだ。
ドアが開くと同時に一気に流れ込んできた冷気を吸い込む。
由樹は白い景色を睨んで、顎をぐっと引いた。