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副社長は片手を頭に軽くゆすり、そして語りだした。
「私は学生時代、社長とバンドを組んでた。向こうが三年生、こっちはまだ入りたての新入生だったな。いい時代だった。若かったから、山ほど羽目もはずしたし、少々天狗になったりもした。こう見えても、当時は結構がんばってたんだぞ」
副社長は、正門の照明を受けて光る額を自らパチンと叩いた。
「でも、バンドもこれからというときに、社長が辞めたんだ。結局、バンドの方もまもなくしてつぶれた」
羽田氏の横顔は、こうして見るとけっこう鉤鼻だ。
「どうして社長はバンド辞めちゃったんですか」
「阪神淡路大震災のあと、社長の父親がやっていた神戸の海運会社が傾いた。神戸港の貿易量が激減したからね。そして、父親は蒸発しちまった。消息は今だにつかめない。仮に今もご存命だとしても、どの面しても出てはこれないだろうよ。米子社長はまだ二十代だったけど、名義上は会社の代表取締役だったことが災いした。地元に帰って会社の整理をする羽目になった。長年会社に誠意を尽くした、そしておそらくは子供の頃から世話になった、自分よりもずっと年上の社員の多くに、辞めてもらわねばならなくなったわけ。恨まれ憎まれ、そこまでして人員削減をしたが、それでも会社は持たなくなって、最後に倒産した。ところが、話はそこで終わらなかった。父親は個人的な借金も抱えていたことが発覚する。そんなわけだったから、元社員の誰も助けてはくれない。頼れる親戚もいない。我々とてまだ二十代中盤で、何も助けることなどできやしない。ついに家を持っていかれ、一家離散。続いて、命の次に大切なものまでも持ってかれてしまった。何だか、想像できるかい?そうだ。ギターだ。法律関係者なんかに相談しに行って、まだ若くして自己破産。それから社長は、ある地方都市で建設作業員になった。そのときの仕事の先輩に、熱狂的なジェットのファンがいた。そういうことで、最初の頃は気が合ったんだね。確かにあの頃の社長は、その先輩にいろいろと世話になってた。その先輩の結婚が決まったとき、社長はジェットの曲のCDを作って贈ったんだ。先輩の家のPCとギターを使わせてもらってね。俺も後で聞かせてもらったけれど、ボーカルなしのインストルメンタルだった。きっと、いいマイクが手に入らなかったんだろう。とにかく、先輩がそれを妙に気に入っちゃって。結婚式の引き出物に入れたいと言ってきたんだ。社長はジェットの曲の他にもいくつか新しい曲をつくって加えて、CDをつくった。そのCDは結婚式でも流された。そうしたら、式場サイドが他の式にも使わせてもらえないかと言ってきたんだ。そのとき、先輩は勝手に、我々は四季にあった曲も作りますよと話したらしいんだな。社長は先輩に頼まれ、曲を作るようになったんだ。それからしばらく経って、先輩から、これをビジネスにしようという話が持ち上がった。リトルホープとかいう屋号をつけてね。最初はほんの副業のつもりで、大した売上げにはならなかったようだけど。でも、二人はのちに、これに熱中してしまってね。社長も凝り性だから、夜遅くまで作業をし続けたから、土方の仕事の方に無理がたたっちゃったんだ。身体を壊してしまって、あるとき一週間近く入院したことがあった。退院してアパートへ帰ると、大変なことになっていた。CDの在庫から、売上げのお金からすっかりなくなっていた。売上げはもともとたいしたことはなかったんだけど、社長がギターをいつの日か取り返そうと、血のにじむような思いで貯めていた貯金までもがなくなっていた。今度は先輩が蒸発していた。後に警察から聞いてわかったのだが、先輩は競馬やパチンコが元の借金が、かなりあったそうだ。 悲嘆にくれていたところに、社長の携帯に一本の電話が入った。引き出物CDビジネスのことが一度、市のニュース番組に出たことがあったのだが、それを見た放送局が、ラジオで使ってみたいのでサンプルを送ってほしいというのだ。
一番どん底のときだった。どうしたらこの恩に答えれるだろうか、と社長は考えた。まだ契約が決まったわけでもないのにね。どうしたらいいだろうって電話がきたから、言ったよ。私ではなく、放送局に聞いてみてはどうでしょうって。そこで、私と社長は二人で質問項目を考えた。どういうシーンで使うBGMか? リスナーの年代は? 主な職業は? 曲の長さは? イメージは? 書き出してみると結構な項目になった。それが今も我が社で使っているアンケートシートの元になっている。一時はアンケート項目が百を越えたこともあったけど、それだとあまりに使い勝手が悪いんで、徐々に厳選していって今のレギュラー十五項目ものになっていったんだけどね。ただそのとき、社長は音楽を作るための楽器もなければ、ソフトもなければ、そもそもPCもなかった。そこで、東京に帰ってきて私のアパートで作業をはじめたんだよ。よく「ミューズ系サウンドは阿佐ヶ谷で生まれた」なんて言われてるけど、なあにそれは、単に当時の私が阿佐ヶ谷に住んでただけのことだよ。ラジオ局は作品に対して、まあいいんじゃない、くらいの評価だったな。それでも、契約には結びついた。それから我々はそれを実績に、結婚式場、ラジオ局、テレビ局、ネット番組などにBGMの提案書を送って、少しずつだが実績を積み上げていったんだ。でもまだその頃、私は普通に会社勤めしてたし、社長は居酒屋とかでバイトしてたな。街中を探せば我々のような小さな企業は、山ほどあったに違いない。それでも、リトルホープっていうのでは器が小さいから、ビックホープにしようということになった。それからも、名前をコロコロ変えてたね。あるときはミュージックホープスって名前だったんだけど、それを略して我々の間ではミューズって呼んでたんだ。なら音楽の神だし丁度いいってんで。いい名前が思いつくまでのしばらくの間はそれで行こうって。まさか、社名に定着するとは考えもせずにさ。今でも社長とときたま話すよ。ああいった苦難がなければ、ここまでリスナーを大切にした作品作りなんかできなかっただろう、って。受注があれば、大した収益にならなくても心を込めて作曲したよ。作詞家を雇うお金がないという理由で、ボーカル入りはしばらく作れないねということで、BGMのままになった。面白いもので、今はそれが世間様の常識になってしまっている。そのうち受注が増えていき、私も勤めていた会社をやめてこっちに専念することになった。社長もバイトをする暇がなくなっていたしね。ミューズは、顧客のフィードバックを聞きながら、こうして一歩ずつ大きくなった会社だ。決して、巷で言われているように一気に幸運が降り注いで成ったわけじゃない。晴れて法人になったとき、社長は小さいけれども象徴的な行動に出た。ついに、ギターを買い戻したんだ。君も見た、ステージで使ってたあれがそう。 ついでに言えば、さっきの土方の先輩は、今も同じ仕事をやっているらしい。人から伝え聞いた情報だけどね。ミューズ創設には俺も関わってた、などと盗人ながら今では堂々とブログに書いているようだからね」