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春奈さんが待つリビングに入った時、瑞奈の背中が硬直したのが分かった。
瑞奈の背に触れると、鼓動が伝わってきた。少し速い。
「またも急におしかけてしまい、すみません」
春奈さんのお母さんもリビングに入ってきたところで、頭を下げた。隣りで瑞奈もお辞儀をする。
「初めまして、結城瑞奈です」
既に、春奈さんのお母さんには、玄関先で自己紹介をしているので、瑞奈は春奈さんに向けて再度お辞儀をした。春奈さんの視線が暫くの間瑞奈に据えられた後、視線入力用のパソコンに向けられる。それを機に、俺と瑞奈は、春奈さんに近づいた。
『初めまして倉持春奈です』
モニターに表示された春奈さんの言葉を見て、瑞奈は素直に、凄い、と口にした。モニターに続けて文字が打ち込まれていく。
『同じ感じ』と表示されたところで、『感じ』が消され『漢字』と修正される。
『同じ漢字だね。奈』
「あっ」瑞奈は一拍置き、視線をモニターから春奈さんに向けた。「ホントですね。わあっ、嬉しい。あの春奈選手と一緒の『奈』なんだ。改めてびっくりです」
おや? 瑞奈の受け答えのリズムに俺は違和感を抱く。いつもと違うテンポだ。女子サッカーの大先輩を目の前にして、緊張しているのだろうか。俺も、改めて春奈さんが偉大な女子サッカー選手だったことを知るや、今こうして相対していると、指先が微かに震える。
『緊張してません?』
表情が変わらない春奈さんではあるが、微笑んだ気がした。
「だって、あの倉持春奈さんですよ。あたし、今、倉持春奈さんと……話しているんですよ。緊張しますって」
高揚気味の口調で手を浮かし、春奈さんの手を握ろうとするも、瑞奈は一瞬の躊躇を見せた。
春奈さんのお母さんが察してくれたのか、「よければ手を握ってやってください」とにっこり笑う。
「いいんですか、手を握っても。憧れの選手の手」
春奈がおそるおそる手を伸ばす。モニターには、たった一文字だけ『笑』と表示されていたが、瑞奈は気付いていない。
「わお。やった。あの倉持春奈さんの手だ」
『ポジションはどこですか?』
春奈さんの手を握ることで上気しているせいか、瑞奈はモニターに春奈さんの言葉が表示されたことに気付いていない。
つんつんと瑞奈の背をつつく。まだその背は硬かった。
「春奈さんが、瑞奈のポジションを訊いてるよ」
振り返る瑞奈の眦には、うっすらと涙がたまっていた。それほどまでに嬉しいとは、俺はこの機会を提供できたことに胸をなでおろす。
「右サイドです。右インサイドハーフや、右ウイングとか」
『私と一緒だね』
「あたし、試合会場で春奈さんのプレーを見たことあるんですよ。もう十年ぐらい前、小学生の頃です」
『すっごく昔』
瑞奈はモニターと春奈さんとを交互に見ながら、終始楽しそうに会話をしていた。あらかじめ決めていた三十分は瞬く間に過ぎた。少し、春奈さんの目が疲労を感じているような気がした。
「瑞奈、そろそろ」
「あ、もうそんな時間。すみません、勝手に舞い上がってしまい」
『久しぶりに凄く楽しかったです』
モニターに顔を向けたまま瑞奈が寸刻黙った、そんな気がした。でもすぐに、
「あたしもです。また会ってください」
と笑顔を浮かべ、振り返り、春奈さんの手を再度握った。
モニターに春奈さんがこう漏らした。
『晴翔くんも、ありがとうございました。瑞奈ちゃんと晴翔くんがとても羨ましい。私ももっと恋愛をしたかったな』