――夜の終わりと朝のはじまりが溶け合う時刻。
桜の庭を包む薄藍色の空気は、ひっそりとした息づかいをもっていた。
遠くで小鳥がまだ夢の中をさまよっている。
池の水面は静まり返り、風もないのに花びらだけがゆるやかに漂っている。
その静寂を裂くように、石畳を踏む靴音が響いた。
――コツ、コツ、コツ。
足音はゆっくりと、しかしためらいなく回廊を進む。
現れたのは緑の瞳を持つ男、深緑の外套を羽織った異国の影だった。
「……やはり、ここだったか」
英語混じりの低い声。
長い旅を終えた者だけが持つ乾いた気配が、冷たい空気に溶けていく。
回廊の柱に背を預けていたルートヴィッヒが、
反射的に剣の柄へと手を伸ばした。
「誰だ――」
「落ち着け。剣を向けるには、まだ朝が早い」
緑の瞳が鋭く笑った。
アーサーカークランド、古き王国から派遣された魔術顧問にして、
封印の歴史を最も深く知るといわれる“古き魔術師”。
ルートヴィッヒは眉をひそめ、警戒を隠さない。
「騎士団の許可なく立ち入ることは――」
「許可? そんなものは求めていない。
封印が揺らいでいるなら、我々が動かねば誰が動くんだ?」
言葉と共に、アーサーの外套が風もないのにひらりと揺れた。
その動きに、桜の花びらが幾枚も巻き上げられて宙を漂う。
池のほとりで鈴の音が小さく鳴った。
――チリン。
白い衣を纏った菊が、静かに立ち上がる。
細くしなやかな指が、耳元の鈴をそっと押さえる。
その瞳は朝の光を映して、淡く、どこか儚く輝いていた。
「アーサーさん……あなたが来るとは、珍しいですね」
「珍しい? 危険だからこそ来たんだ」
アーサーはゆっくりと菊へ歩み寄る。
杖の先には桜をかたどった銀の印章がきらりと光る。
「封印が揺らいでいる。
このままでは春が――いや、神が目を覚ますぞ」
菊の長い睫毛がわずかに揺れた。
しかしその奥には、諦観にも似た静けさが宿っている。
「……それでも、私はここにいるしかないのです」
「違う。お前がここにいる限り、世界はいつか壊れる」
アーサーの声が低く、確かな熱を帯びていく。
「だから俺は――お前を外へ連れ出す」
その一言に、ルートヴィッヒの青い瞳が鋭く光った。
「連れ出す? 封印を破るつもりか」
「封印など、人が作った鎖に過ぎない」
アーサーは淡く笑う。
「神を閉じ込めることなど、誰にもできはしない」
――チリン。
鈴がまた鳴った。
桜の花びらが光を帯び、宙に舞う。
それはまるで、菊の胸に宿る春が
二人の言葉に呼応しているかのようだった。
ルートヴィッヒは一歩踏み出し、
「菊、彼の言葉を信じるな。
封印が解ければ、お前は――」
「壊れる?」
菊は微笑み、青い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……それでも、誰かに生きてと言われたいのです」
その声はかすかに震えながらも、確かな温度を帯びていた。
ルートヴィッヒの胸の奥が、痛みを覚えるほど熱くなる。
アーサーが杖を地面に突く。淡い緑の光が足元を走り、石畳に古い文字が浮かび上がった。
封印を解く古代の紋――春を呼ぶ印。
「ルートヴィッヒ」
アーサーは挑むように言い放った。
「騎士団の命令か、お前自身の心か。
どちらを選ぶ?」
鈴が激しく鳴り響く。
チリン、チリン、チリン――
桜が雪のように降り注ぎ、世界が震える。
その光景の中で、菊はただ――
消えもせず、けれど確かに春の気配を放ちながら
静かに二人を見つめていた。
夜明けの鐘が三度、低く鳴った。それは祈りではなく、警告だった。
神殿の空気が、桜の花びらを震わせるほどに張り詰めている。
「……また、誰か来る」
菊は池のほとりに立ち、微かなざわめきを感じ取った。
胸の奥に埋め込まれた鈴が、まだ鳴っていないのに――
誰かの気配を確かに告げている。
最初に現れたのは、
金色の髪を朝日に煌めかせた青年だった。
青空のような瞳に、どこまでも無邪気な笑み。
「 ここが噂の神殿か!」
風のように軽やかに回廊へ飛び込んできた男――
アルフレッド・F・ジョーンズ、新大陸から来た自由の使者にして、
封印の異変を嗅ぎつけた世界の風雲児。
「菊ー! 元気かい? って、うわ、雰囲がガチなんだぞ……!」
その明るさに、張り詰めていた空気が一瞬だけ緩む。
しかしルートヴィッヒは即座に剣を構えた。
「立入禁止区域だ。許可は――」
「許可? 自由の国にそんなもん必要ないんだぞ!」
アルフレッドはニッと笑い、肩を竦める。
「こっちは世界の安寧のために来てるんだぞ。
……それに――」
青い瞳が菊をとらえた。
その視線は、無邪気さの奥にどこか鋭いものを隠していた。
「君に会いたかったんだぞ」
――チリン。
鈴が、小さく鳴る。
そこへ、さらに別の声が重なる。
「やれやれ、派手な登場だこと」
柱の陰から現れたのは、金髪を朝露のように柔らかく揺らす男。
しなやかな動作、微笑む唇からは甘い香りが漂う。
フランシス・ボヌフォワ、愛を語る旅人にして、封印の噂を追ってきた愛の使徒。
「噂の“春の器”――やっと会えたね、」
フランシスが手を伸ばす。
その指先が、菊の頬に届くか届かないかの距離で止まった。
――チリン。
鈴が二度、鳴った。
「待て!」
ルートヴィッヒの低い声が響き、
アーサーの杖が床を打った。
緑の光が石畳に走り、二人の来訪者を制する。
「アルフレッド、フランシス。
この場所が何であるか理解しているか?」
アーサーの声は冷たいが、どこか焦りを帯びていた。
「もちろん」フランシスは微笑む。
「けれど、愛は封じられない。鎖で春を縛ろうとするなど、愚かしいと思わない?」
アルフレッドが指を鳴らした。
「そうだぞ!世界は変わる。封印も、神も、自由の前じゃ無力だぞ!」
――チリン、チリン。
鈴が、再び鳴り響いた。
桜の花びらが、朝日を浴びて乱れ舞う。
その中心で、菊は小さく息を吸った。
「やめてください……」
声は震え、けれど消えない。
「そんなことを言われたら……鈴が、また――」
その瞬間、池の水面が波立った。
風もないのに、桜が一斉に散る。
封印の奥で眠る“春”が、
新たな来訪者の愛と欲に呼応して、
目を覚まそうとしていた。
コメント
11件
上手いですね!所々アルはこう言うだろうな、フランシスはきっとこう思ってこういうだろうな等考えられています!きっとめっちゃ設定を練って説教したんでしょうね!
すごいですね!なんか…もう…褒め言葉が出てこないくらい!すごいです!うん…神…神なんですけど!うわぁ~ーーー!
お前やっぱ前世神だろ😡