桜嵐が過ぎ去った神殿には、
いまだ淡い光の粒が漂っていた。
菊の胸に埋められた三つの鈴は
震えをやめないまま、微かな音を立て続けている。
ルートヴィッヒは剣を抜いたまま周囲を警戒し、
アーサーは杖を握りしめ、
アルフレッドとフランシスはなおも菊に視線を注いでいた。
「……これは予想以上だな」
アーサーが低く呟く。
「封印の緩みが、こんなにも――」
その言葉を遮ったのは、
神殿の門を叩く鋭い音だった。
「おいおい、派手な騒ぎじゃねえか」
白銀の髪を夜明けの光に煌めかせ、
赤い瞳にいたずらな輝きを宿した男が
堂々と回廊へ足を踏み入れる。
「春の器が目覚めかけてるって?
こりゃ見逃せねえ祭りだな!」
その軽口と同時に――
――チリン。
鈴が短く鳴り、菊の胸が痛みに震えた。
「……やめてください」
小さな声が漏れる。
「あなたまで来れば、鈴が――」
「おっと、そう怯むなよ。
オレはただ、面白ぇもんが好きなだけだ」
ギルベルトの笑みは挑発的で、
けれどその奥に、どこか懐かしい温もりが宿っていた。
さらに、柔らかな足音がもう一つ。
「なんや、うるさい思たら……」
橙色の陽を背に現れたのは、
深緑の外套を羽織った青年。
柔らかな栗色の髪、金色の瞳――
「春の神殿ってここやろ?
菊に会いたくて来たんや」
その声はどこまでも穏やかで、
菊の胸に染みるように響いた。
――チリン、チリン。
二度、鈴が鳴った。
それは優しい音でありながら、
封印をさらに解く危うい響きだった。
「……もう限界だ」
アーサーが杖を振り上げ、
石畳に緑の光の陣を描き出す。
「これ以上の接触は許されない!
封印強化の儀を今すぐ――」
「待て、アーサー!」
ルートヴィッヒが声を張る。
「菊本人の意思を無視するつもりか」
「意思? このままでは世界が滅びるんだぞ!」
そのやり取りを聞きながら、
菊は静かに両手を胸に重ねた。
鈴の震えが、痛みを超えて熱に変わっていく。
誰かを拒むほどに、誰かを想うほどに、
封印は――緩む。
「やめて……」
声はもう、祈りにも似ていた。
「皆さん、これ以上は――」
その瞬間、
神殿の天井に走った亀裂から白い光が降り注ぐ。
雷鳴が空を裂き、
桜が夜明けの風に吹き散る。
春が、再び呼吸を始めた。
白い雷鳴が空を裂いた瞬間、
菊の世界は音を失った。
桜の花びらが時間を忘れたように漂い、
鈴の音だけが遠くで震えている。
――チリン、チリン。
「……ここは――」
瞼を開けると、そこは神殿でも朝でもなかった。
月光に照らされた広大な庭。
満開の桜が夜空へと伸び、
花びらが光そのもののように降り注いでいる。
足元に淡く光る水面が広がり、
鏡のように世界を映していた。
「――また会えたな」
背後から聞こえた声に、菊はゆっくり振り返る。
そこに立っていたのは、
千年前の衣を纏った自分自身だった。
けれどその瞳は、今の菊よりもずっと堅く、
そして深い哀しみを宿している。
「あなたは……私?」
問いかけると、もう一人の“菊”は微笑んだ。
「私は椿だ。
千年前、この世界に命を与えた“神”の記憶」
「なぜ、今になって――」
「鈴が鳴ったからだ」
春は指先をすっと伸ばし、
菊の胸にある鈴をひとつ、そっと撫でた。
その瞬間、桜が一斉に散り、
空に鮮やかな人影が次々と浮かび上がった。
蒼い瞳の騎士――ルートヴィッヒ。
緑の瞳の魔術師――アーサー。
自由を叫ぶ青年――アルフレッド。
愛を囁く旅人――フランシス。
白銀の雷――ギルベルト。
陽だまりの微笑――アントーニョ。
全員が、かつての春の神を取り囲んでいる。
しかしその衣装も姿も、
どこか千年前の戦士や王たちの面影を帯びていた。
「これは……過去?」
菊が呟くと、椿は頷いた。
「愛は力になる。けれど、それは世界を壊す力にもなる」
椿は静かに微笑む。
「彼らは私を守るために、
私を封印という檻へ閉じ込めた。
私自身の願いで、」
桜の花びらが再び舞い、
過去の騎士たちが菊へと手を差し伸べてくる。
それは懐かしくも、胸を締めつける温もり。
「菊」
椿が耳元で囁いた。
「目覚める時が近い。
けれど目覚めれば、また同じことが繰り返される。
お前が彼奴らを――愛すれば、な」
「……私は……」
言葉が喉に詰まる。
心の奥から、鈴がかすかに鳴った。
――チリン。
その音に呼応するように、
六人の影が菊へと一歩ずつ近づいてくる。
愛しさと、切なさと、滅びの香りを携えて。
「選ぶのはお前だだ」
椿がそっと微笑む。
「このまま“封”を守るのか、
それとも――愛を選ぶのか」
桜が光となって菊を包み込む。
視界が白に染まり、
現実の鈴の音が遠くで重なった。
「――菊!」
誰かの声が、夢を破る。
目を開けると、そこは再び神殿の寝所。
ルートヴィッヒが肩を支え、
アーサーが魔法陣を解こうとしていた。
アルフレッドとフランシス、ギルベルト、アントーニョも
不安げに見守っている。
「大丈夫か」
ルートヴィッヒの声が震えていた。
菊は静かに息を吸い、
夢の中の言葉を胸の奥で反芻する。
――選ぶのは君だ。
コメント
4件
姉貴がこんな立派な小説書けるなんて🥲 成長したなぁ……(((??
自由を叫ぶ青年とか…かっこよ…(語彙力消失)