テラーノベル
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ご本人様には関係ありません!!
残酷な描写がある可能性があります。
少しでも嫌な方はブラウザバックを推奨します。
パクリ×
ドズル社のスタジオには、笑い声がよく響く。
壁に吸い込まれていく笑い声が、また跳ね返ってくる。
まるでこの場所自体が、笑い方を覚えてしまっているみたいだった。
今日も同じだった。
照明がつき、カメラが温まり、マイクが小さく光る。
「はい! 今日も元気にやっていきましょう!」
ドズルの声が最初に空気を動かす。
低くて大きくて、場の中心に立つ声。
それを合図にするように、ぼんじゅうるが笑い、
おらふくんが「はーい!」と高い返事をして、
おおはらMENが落ち着いたトーンで軽くまとめる。
そして、その中に、おんりーがいる。
いつもの位置。
いつもの姿勢。
いつものテンポ。
ただ一つだけ違うのは——
おんりーの笑う回数が、いつもよりほんの少し多いこと。
「そこジャンプでいくのおかしくね?!」
ぼんじゅうるが言う。
ドズルが
「いや普通でしょ!」
と言い張る。
おらふくんが
「普通じゃないでしょ〜」
とツッコむ。
おんりーは横で肩を揺らして笑う。
「いや、普通……ではないっしょ」
そう言いながら、口元を押さえる。
笑いが止まらないときの癖だ。
目尻に皺が寄り、呼吸の合間にひゅっと小さな息が混ざる。
いつもより、笑うタイミングが少し早い。
小さな冗談でも、ちゃんと拾って笑う。
拾いすぎるくらい笑う。
でもそれを違和感として受け取る者は、誰もいなかった。
だって——この場所は、笑顔が似合うから。
ゲームが進む。
画面の中でキャラクターが跳ねる。
効果音が散る。
喋り声が重なって、たまにぶつかる。
「危なっ……ちょ、……!」
おんりーが言いかけて、少しだけ言葉を滑らせた。
いつもなら流暢に出るはずの言葉が、ほんの一瞬、舌の上で転ぶ。
「前かrっ、…あ…」
噛んだ。
ほんのわずか、本当に一瞬。
その一瞬を繕うみたいに、おんりーは笑った。
「前から来る!ごめん噛んだ」
自分で言って自分で笑う。
その笑いに、ドズルがすかさず乗る。
「今日噛みすぎやろ!」
「いつも噛んでますけど!」
おらふくんの明るい声が飛ぶ。
「俺そんな噛んでないって」
おんりーは言い返す。
声は軽い。
本当に何でもない出来事みたいに振る舞う。
チャット欄が盛り上がる。
〈噛みおんりー助かる〉
〈かわいい〉
〈今日テンション高いな〉
笑いが重なり、空気は温かいままだった。
噛んだことは、
ただの笑い話の材料として消えていく。
それでいい、とおんりーは思う。
それが一番いい。
「次どう動く? 俺こっち押さえるわ」
おおはらMENが茶化すようにに言う。
その言い方がいつも通りすぎて、
場の空気が自然と整う。
ドズルは作戦を説明しようとして、
途中で急に脱線する。
「これ成功したら神回だから」
「自分で言うのやめてもろて」
ぼんじゅうるがすかさず入る。
おらふくんとMENが笑う。
おんりーも笑う。
肩が揺れる大きな笑いじゃない。
息が漏れて、つい声が重なるタイプの笑い。
それが何度も何度も生まれて、
部屋の中を満たしていく。
誰も無言にならない。
黙り込む瞬間が生まれない。
話題が切れそうになる前に、
誰かが冗談を差し込む。
それを誰かが拾う。
また笑いが生まれる。
“いつものドズル社”は、そういうリズムでできている。
そしておんりーは、そのリズムがとても心地良い。
笑いながら、軽く言う。
「そっち違う、右右右。
いや、そっちの右じゃなくて……そう、それそれ」
メンバーが混乱する。
ぼんじゅうるが「どっち?!」と叫ぶ。
ドズルが「僕は悪くないよね?」と言う。
おんりーは、また笑う。
「説明下手って言うなよ?」
誰も言っていないのに、自分で言う。
それをまた、みんなが笑う。
楽しさは伝染する。
おんりーが笑えば、誰かが笑う。
誰かが笑えば、また別の誰かが笑う。
輪は自然に閉じて、終わらない。
配信机の上には飲みかけのペットボトル。
カメラの隣にはぬいぐるみ。
床にはコードが少しだけ無造作に伸びている。
生活感と仕事道具が混ざったこの空間は、
メンバーにとってただの作業場ではなくて、
帰ってくる場所みたいなものだった。
「今日もおもしろかったな」
撮影が一区切りついて、
誰かがそう言う。
「まだ終わってないけど?」
ぼんじゅうるが笑う。
おらふくんが、お菓子をつまみながら相槌を打つ。
おおはらMENがスケジュールを確認する。
おんりーは、少し離れた場所でモニターを覗き込む。
編集画面のタイムラインが光っている。
自分たちの笑い声が波形になって並んでいるのを見るのは、
何度経験しても不思議だった。
ただ話して、笑って、騒いでいるだけなのに、
それが“作品”と呼ばれて、
誰かの時間の中に置かれていく。
「……いいな」
小さく呟いた声は、誰にも届かないくらいの大きさだった。
その直後、ドズルが振り返る。
「おんりー、このへんカットでいける?」
「いけまーす」
おんりーは振り向いて即答する。
声のトーンはいつも通り。
返事も早い。
「噛んだとこだけ残しといていい?」
ぼんじゅうるがニヤニヤしながら言う。
「やめて?」
笑いながら言う。
本気じゃない。
でも抵抗だけはしておく。
「今日けっこう噛んでたよな」
おらふくんが無邪気に言う。
「いつもより?」
「いつもより」
おんりーは、ほんの一瞬だけ瞬きをした。
すぐに笑った。
「まぁ、呂律回ってなかったんじゃない?」
軽く肩をすくめる。
それ以上の感想は口にしない。
必要もない。
噛む。
笑う。
騒ぐ。
それで全部足りる。
少なくとも、この場所では。
夜になると、窓の外の景色は暗くなるのに、
スタジオの中だけは妙に明るい。
電気のせいだけじゃない。
多分、人の声のせいだ。
「次なに撮る?」
「なんでもいいぞ」
「おんりー決めてー」
自然に集まる視線。
当たり前みたいに期待される役割。
おんりーは笑う。
「じゃあ俺の好きなやつで」
「絶対難しいじゃん!」
「自分が強いの選ぶなー!」
わいわい騒ぐ声。
誰も疲れた顔をしていない。
少なくとも、お互いの前では。
カウントダウンが始まる。
モニターの隅で数字が減っていく。
3、2、1——
「はい、はじまりました!」
今日何度目かも分からない挨拶。
でも、そのたびに空気はちゃんと始まる。
笑い声がまた積み上がる。
冗談が重なっていく。
言葉と言葉がぶつかり合って、
破片みたいな笑いが散らばる。
それをおんりーは、
少しだけいつもより笑いながら受け止めていた。
噛みながら。
笑いながら。
何度も何度も、「いつも通り」を更新しながら。
ドズル社の楽しい日常は、
そんなふうに、何も変わらない顔をして続いていく。
最初に違和感に触れたのは、おそらく誰でもなかった。
気づいた、と言えるほどの明確な線ではなかったし、
はっきりと「おかしい」と断言できるものでもなかった。
それは、照明の明るさがほんの少しだけ変わるように、
毎日の中にわずかな影を混ぜ込んでいく種類の変化だった。
最近のおんりーはよく笑う。
それは誰かの口から直接言葉になったわけでもないが、
メンバーの胸の内で同時に芽生えていた感覚だった。
何かが面白い。
だから笑う。
そこまでは、いつも通りだった。
ただ少し違っていたのは、
笑うまでの理由が前よりも小さくなっているということだった。
軽くつまずく。
微妙なタイミングで咳払いをする。
ゲーム内で噛み合わない動きをする。
その一つ一つに、おんりーは肩を揺らして笑う。
「あはは、ごめん」
謝るよりも先に笑い声が出る。
笑いは場を和ませ、空気を柔らかくし、
その場の空気を“楽しい”方向へ強制的に傾ける。
それは才能だった。
そして同時に、防衛にも見えた。
ドズルが軽く笑いながら言う。
「おんりー、今日元気やな」
「そう?」
おんりーはモニター越しに笑いながら返した。
テンポは早い。
息に混ざる声は軽い。
ぼんじゅうるが続けて冗談を投げる。
「なんか笑いすぎて怖いw」
おおはらMENが「でも楽しそう」と言い、
おらふくんが素直に同意して笑った。
空気は明るい。
実際に明るい。
画面の前で見ている誰かにとっても、
そこには“いつものドズル社”があった。
ただ、その明るさの中心で笑っているおんりーの口元は、
笑い続けることに慣れすぎているようにも見えた。
笑う → 息を整える前にまた笑う → 次の言葉に噛む。
「それは、ち……ちが、…ん゛ん…っいや違うって」
噛んだ瞬間、本人が一番先に笑う。
噛みを誤魔化す笑いではなく、噛むことを「面白い」と定義し直す笑い。
「噛んだなぁ〜」とぼんじゅうるが笑い声を重ね、
おおはらMENが「噛み芸開発した?」とネタにする。
おらふくんは「かわいい」とこぼす。
その全てが、普通の日常だった。
楽しい、やわらかい日常。
ただ一つだけ違うのは
笑いが、必要以上に長い。
笑い終わってからも、残響のように微笑みが残る。
口角は下がらない。
表情は固定されたまま、声だけが新しい言葉に移る。
どこか、疲れた表情のまま笑いを貼りつけているようにも見えた。
けれど、それを明確に言葉にするほどの材料はまだ誰にもなかった。
違和感は、静かに積もるだけだった。
事務所の机が変わり始めたのは、それからまもなくのことだった。
おんりーの机は、元々汚くなかった。
なんなら一番綺麗まであった。
ただ、おんりーの使いやすさを一番重視している感があった。
読み終わった紙の裏に新しいメモを書き、
使ったペンを同じ場所に戻す前にまた次の作業に移る。
必要なものは必要な場所に“近い位置”に重ねていく。
それは外から見れば普通に見えて、
本人からすれば最短距離の配置だった。
それがある日を境に、変わった。
メモ帳はひとまとめに束ねられ、
付箋には日付と目的が書かれ、
ケーブルには結束バンドが巻かれていた。
おおはらMENは素直に驚いた。
「なんか……めちゃ整理されてるな」
ぼんじゅうるが覗き込みながら冗談を言う。
「業者呼んだ?」
「違う」
おんりーは笑って首を振る。
軽く椅子を回しながら、淡々とした声で続ける。
「見やすいほうがいいかなって」
たったそれだけの言葉。
それ以上の理由は言わない。
フォルダ構成はさらに整っていた。
共有サーバ内の企画フォルダには、
構成案、素材、台本、差し替え候補まで揃えられている。
誰が開いても分かるように、
誰が引き継いでも困らないように。
だがその意図に気づいた者は、
そのときまだいなかった。
「えらいなぁ」
とおらふくんが笑う。
ドズルも
「見本にしよ」
と短く言う。
おんりーは「はは」と小さく笑って、
それ以上何も言わなかった。
その数日後、おんりーは短いメッセージを送った。
「体調悪いから、今日は休む」
それだけ。
長文ではない。
余計な絵文字もない。
淡々とした、おんりーらしい文章。
「了解」
ドズルが返す。
「お大事にー」
おらふくんが続ける。
「無理すんな」
おおはらMENとぼんじゅうるも、それぞれ言葉を重ねた。
その日はそれで終わった。
誰も深刻には捉えていなかった。
人は体調を崩す。
それは当たり前の出来事の一つだったから。
二日目。
同じような短いメッセージが届く。
「まだちょっときつい」
短い。
単語で終わる。
ぼんじゅうるがスタンプを送る。
おんりーは反応しない。
ただ既読だけがつく。
おらふくんは少しだけ画面を見つめた。
返事を打っては消し、
また打っては消す。
言葉を慎重に選んでしまうときほど、
何を書けばいいのか分からなくなる。
結局、送られたのは一言だった。
「ちゃんと寝てる?」
既読はついた。
けれど、答えはない。
三日目。
「ごめん、寝てる」
その一文が送られてきた。
主語も、具体もない。
“寝てる”という状態だけが提示される。
その文章を見た瞬間、
胸の奥に小さなざわつきが生まれた。
おおはらMENが呟く。
「寝てるって三日連続言われると、逆に怖いわ」
ぼんじゅうるも画面を見つめたまま言う。
「寝れてるならいいけどな」
言葉の最後に曖昧な重さが落ちる。
四日目。
既読はつく。
返事はない。
おらふくんはスマホを握りしめたまま眉を寄せた。
「……返事こない」
声は小さい。
誰かを責める響きはない。ただの事実。
“返事が遅いくらいで心配しすぎだ”
そう言い切れるほど単純ではなかった。
“見ているのに、返さない”
その選択の向こうにあるものを想像してしまうから。
「それほど辛いのかもな」
おおはらMENが言う。
自分にも言い聞かせる。
それでも胸の中のざわつきは、小さく鳴り止まない。
五日目。
「行こ、おんりーの家」
ドズルの言葉は短かった。
短いが、心配の力が宿っていた。
全員が迷いなく頷く。
おんりーの家の前に着いたとき、
廊下に漂う空気の冷たさに肩がすくんだ。
時間帯は昼。
それでも静かすぎる。
チャイムを押す。
返事はない。
「おんりー?」
呼びかけは空気に吸い込まれて消えた。
もう一度押す。
もう一度呼ぶ。
それでも、出てこない。
中に人がいる気配もしない。
生活音がなく、空気が止まったままだった。
「……いない、んかな」
おらふくんが呟く。
「病院でも行ってるんじゃない?」
ドズルが小さく意見を提示する。
留守、という言葉は救いだった。
でも同時に、矛盾も抱えていた。
連絡は既読になる。
オンラインの履歴も消えていない。
なのに、姿だけがない。
確かに存在しているのに、触れられない。
そんな奇妙な不在だった。
六日目。
事務所の空気は静かだった。
笑い声が出ないわけじゃない。
会話が止まったわけでもない。
けれど、どの言葉にもどこか力が入っていない。
モニターを見つめる時間が増える。
通知を見る回数が増える。
無意識にスマホへ手が伸びる。
「……まだ返事ない」
おおはらMENが言う。
誰も驚かない。
全員がもう知っている事実だった。
おんりーのアカウントはそこに残っている。
消されていない。
更新もされていない。
ただ、静かに存在している。
「いるのに、いないって感じするな」
ぼんじゅうるが天井を見上げた。
誰も反論しない。
七日目。
一週間という時間の重さを、
四人は思い知らされていた。
「一週間、顔見れてない」
声にすると、現実が濃くなる。
言葉が形を与えてしまう。
沈黙が落ちる。
誰も椅子を動かさない。
誰も冗談を言わない。
その沈黙の中で、視線が自然と一点に集まった。
おんりーの机。
きれいに揃えられた書類。
整理されたデータ。
共有フォルダの中の、完璧な引き継ぎ。
「ああ……」
おらふくんが小さく息を飲んだ。
それは片付けではなかった。
準備だった。
「まるで……」
誰かが言いかけて、言葉を途中で止めた。
言いたくなかった。
言葉にしたくなかった。
認めた瞬間に、戻れなくなる気がした。
それでも胸の奥では、みんな同じ結論に触れていた。
——おんりーは、誰かが見ても困らない形に整えていった。
それは、帰ってこない前提の整理のように見えた。
引き継ぎ、のように
「……おんりー」
名前を呼ぶ声が、少し震えた。
返事はない。
既読はつかない。
通知は鳴らない。
アカウントはそこにあるのに、
本人だけがいない。
その事実だけが
冷たい現実感を帯びて、四人の胸を締めつけた。
言葉にできない予感が、形を持ち始める。
そして同時に、誰もまだその予感を認められなかった。
ただ
心配が、恐怖へ変わり始めていた。
三週間目に入った頃だった。
最初の一週間。まだ心配だけだった。
「おんりー、ちょっと無理しちゃったんだろう」
「休めるときに休め」
そんな言葉を言い合いながら、メンバーは “いつも通り” を”装えていた”。
不安は少しずつ大きくなってはいたけれど、まだ。
二週間目。
胸の奥に少し重たい石が沈み込んだ。
三週間目。
その石は、重りではなく、ひびの入った氷の塊に変わる。触れるだけで胸が痛み、息を吸うだけで割れてしまいそうな、危うい感覚だった。
視聴者はまだ知らない——はずだった。
そう、「はず」だったのだ。
動画は出ていた。
おんりーの声も、笑いも、噛んで誤魔化す癖も残っていた。
編集された明るい時間は、確かにそこにあった。
だが、それはもう「過去」の切り取りだった。
ストック動画。
便利で、優秀で、そして残酷な存在だった。
一週間は誤魔化せた。
二週間目に入って、雲行きが変わり始めた。
三週間目、視聴者は気づいてしまった。
最初の違和感は、小さなコメントからだった。
《最近おんりー生配信してなくない?》
《元気?忙しいだけ?》
《声は元気そうだけど新録じゃない感じする》
それは軽い心配、いつもの冗談混じりの優しいトーンだった。
推しの体調を気遣う、ごく普通のファンの声。
だが、それは波紋の中心になった。
同じ言葉が、二度三度と繰り返される。
似た疑問が、別の配信、別の動画にまで少しずつ広がっていく。
コメント欄は、優しい違和感で満ちていった。
メンバーはその流れを見ていた。
動画の撮影後の控室。
モニターに映るのは最新動画のコメント。
ドズルが腕を組んだまま、何も言わずにスクロールを見続けていた。
ぼんじゅうるは唇を噛みしめ、軽口を挟もうとしてやめる。
おおはらMENは眉間に皺を寄せたまま固まり、
おらふくんはスマホを握る手に力を入れていた。
おんりーに関するコメントは、増え続けていた。
《おんりーちゃんの声、最近昔っぽい気がする》
《これって前撮りのやつ?》
《生放送ないのは普通に心配》
《運営さん、大丈夫って一言ほしい》
優しい言葉ばかりだった。
責めるものは少ない。
むしろ、過剰に気遣っているからこそ、余計につらかった。
視聴者は知っていた。
彼が無理をする人間ではないことを。
自分を甘やかさないくせに、周囲を安心させる嘘は平気で吐く人間だということを。
それを知っているからこそ——怖かった。
「……連絡、返ってこない」
静かな部屋に、おらふくんの声が落ちた。
既読はつかない。
通話も繋がらない。
DMも、LINEも、サーバーチャットも。
綺麗に、何も反応がない。
おんりーのアカウントは存在した。
消えてなどいない。
だからこそ、余計に現実味が増していく。
「そこにあるのに、いない」
そんな感覚が、胸を締め付けた。
「家も……この前行ったとき、鍵閉まってて」
おおはらMENが続ける。
「窓から見える中は綺麗だった。片付いてた。……いつもより」
その言葉に、全員の喉が同時に動いた。
思い出す。
少し前から、机が整理されていたこと。
ファイルにラベルが貼られ直し、コードが綺麗に束ねられていたこと。
データもフォルダごと整頓され、見やすくなっていたこと。
それを、一度はただの「やる気」だと笑って見過ごした。
違ったのかもしれない。
胸の奥で、嫌な予感が形を持った影になる。
前に飲み込んだ言葉が、どんどん現実味を帯びていく。
そして、視聴者がざわつき始めた三週間目。
ついに、メンバーは動いた。
「……家族に連絡しよう」
静かな声で、ドズルが言った。
それは最後の線だった。
そこだけは、できれば触れたくなかった。
プライベートの領域。
超えてしまえば、何かを認めることになる一線。
だが、もう迷っていられる段階ではなかった。
電話口の向こうの家族は驚き、そして戸惑い、そして——小さく沈黙した。
『……実は、うちにも連絡がなくて』
その一言で、部屋の空気が一気に冷えた。
家族も知らない。
メンバーも知らない。
視聴者も、もちろん知らない。
——では、誰が知っている?
沈黙が落ちた。
誰も答えを持っていない沈黙だった。
その日の夜。
コメント欄はもう、はっきりとした色を帯びていた。
《おんりーちゃん大丈夫?》
《生きててほしいとか言いたくないけど…本当に心配》
《笑ってる動画見るのに胸が痛い》
《明るいのに、なんか違和感ある》
笑っている映像。
明るい声。
噛んで照れる癖。
全部「元気そう」に見える。
なのに、それを見るほど、胸が締め付けられる。
視聴者はまだ真実を知らない。
それでも、何かを感じ取っていた。
おんりーは、どこかにいる。
だけど、届かない場所にいる気がする。
そんな、不吉な直感。
そして三週間目の終わり。
コメント欄は、ついに言葉を選ばなくなり始めた。
《失踪とかじゃないよね》
《笑ってるけど無理してたのかな》
《戻ってくるって信じてる》
《待ってるから、ちゃんと帰ってきて》
明るい動画の下に、涙を我慢する文章が並ぶ。
対比は残酷だった。
画面の中、満面の笑みのままの、おんりー。
画面の外、不安に押しつぶされかけている視聴者。
そして、そのどちらとも同じ場所にいられないメンバー。
ただ一つだけ、誰もが同じ思いを抱えていた。
——遅れてもいい。
——怒らない。
——叱らない。
だから、どうか。
帰ってきてほしい。
その願いが、まだ届くと信じていた三週間目だった。
四週間目に入った。
“体調不良によるお休みです”
そう言い切るには、あまりにも長かった。
四週間目だ。
もう、1ヶ月以上になっている。
「触れない」という選択肢は、完全に消えていた。
会議室に四人が集まっていた。
長テーブルの上に置かれたのは、ノートパソコン、外付けSSD、付箋だらけのメモ帳、半分以上飲み切れずに放置されたコーヒー。
空気は重いのに、室温だけは妙に高い。
暖房ではない。緊張と焦燥で身体の内側だけが熱いのだ。
ドズルがゆっくりと息を吐いた。
「……公式で、触れよう」
その声は、聞いたことがないほど低かった。
怒りでもなく、悲しみでもない。
“責任を引き受ける覚悟の声”だった。
「おんりーのことに、公式として触れる」
短い言葉だったのに、胸に落ちたときの重さは地響きのようだった。
ぼんじゅうるが両手で顔を覆った。
おらふくんは唇を噛み、声にならない息を吐く。
おおはらMENは、机の木目を爪でなぞりながら、視線を動かせなかった。
「……触れたら、もう戻れない」
おおはらMENが絞り出すように言った。
「“不在”が、冗談じゃなくなる」
それは真実だった。
言葉は形だ。
形になった瞬間、現実は輪郭を持つ。
“いない”と発表することは、いない現実を認めることだった。
それをしたくなかった。
それでも、しないことの方が残酷になってしまった。
誰もドズルの言葉に驚かなかった。
驚けるほど心に余裕のある人は、一人もいなかった。
ただ、全員が同じことを考えていた。
ここまで来て、言わない理由はもうない。
「曖昧に匂わせる形じゃ、もう無理だ」
ぼんじゅうるの声は低かった。
普段の陽気さは影も形もない。
「視聴者は気づいてる。無理に隠しても、逆に傷つける」
おらふくんが拳を握る。
「でも……言えることが、少ない」
それが最大の問題だった。
知らないから言えないのではない。
何も、わかっていないからだった。
体調不良なのか、燃え尽きなのか、事故なのか、何かから逃げているのか。
それともまったく違う何かなのか。
推測だけなら、いくらでもできる。
だが、それを口にする資格は誰にもなかった。
四人の沈黙が、机の表面に音もなく積もっていく。
視聴者はもう、気づき切っていた。
優しい人ほど、静かだった。
その静けさが、いちばん怖かった。
《おんりーくんの配信待ってるね》
《無理しなくていいから戻ってきて》
《元気って言ってほしいわけじゃない》
《ただ、生きてるって言ってほしい》
その四つ目の言葉を見た瞬間、
おらふくんの視界がぼやけた。
“生きてるって言ってほしい”
視聴者はそこまで来ていた。
誰も軽口を叩かない。
誰も冗談を言わない。
明るいコメント欄の中に、沈黙が増えていく。
それは、海の底に沈む砂のように、静かに全体を重くしていった。
「……探そう」
おおはらMENが呟いた。
何を、と言わなくても全員理解した。
痕跡。
理由。
置き去りにされた足跡。
いや、そう願っていた。
本当は、答えなんか見つかりたくなかった。
見つからないでほしい。
何も残してないでほしい。
ただの一時的な休息であってほしい。
それでも、探すしかなかった。
逃げる言い訳を自分たちが許せなかった。
四人はおんりーの家の作業部屋の前に立っていた。
鍵はもしものためにと、おんりー自身にらよって預けられていた。
それでも、扉に触れる指は重く震えていた。
カチャリと音が鳴る。
扉が開いた瞬間、誰かが小さく息を呑んだ。
部屋は、綺麗だった。
ただ綺麗なのではない。
「整いすぎて」いた。
机の上に無駄なものは一つもない。
ペン立ての中身は芯の長さ順に並び、ケーブルは結束バンドできっちり束ねられ、モニターの埃すら拭き取られている。
引き出しを開けるたび、整理された音が鳴った。
「前は……もっと人の気配があったよな」
ぼんじゅうるが笑おうとして、笑えない声になる。
思い出すのはいつもの風景だった。
ペンが転がり、紙の端がよれ、おんりーが使いやすいを追求した机。
『あ、これ後でやります』
そう言って笑っていた顔。
それがない。
痕跡は綺麗に、残酷なほど「片付いて」いた。
パソコンが起動した。
デスクトップには、最小限のアイコン。
フォルダ名は、見やすい順番に整理されている。
「仕事」
「進行中」
「提出済み」
「雑多」
何一つ、乱れがない。
ドズルが震える指でマウスを握った。
「仕事」フォルダを開く。
サブフォルダがずらりと並ぶ。
案件ごと、日付ごと、バージョンごと。
その全てが、完璧な秩序で整えられていた。
「……これ、一人でやったの…?」
おらふくんの声に、誰も答えられなかった。
分かっていた。
おんりーなら、やろうと思えばできる。
だが、それを「やろうと思った理由」を考えるのが怖かった。
本当に引き継ぎ資料のようだった。
まるで、誰かが自分の後を継ぎやすいように揃えられた棚のようだった。
まるで——。
——まるで、「ここからいなくなる準備」のようだった。
その考えが胸に浮かんだ瞬間、四人とも同時に視線を逸らした。
認めたくなかった。
「パスワード、かかってるやつある」
おおはらMENが画面を見つめて呟いた。
重要フォルダの一部には、見慣れないロックが掛かっていた。
いつもの共有パスワードでは開かない。
ヒントもない。
解除方法もメモされていない。
そして、そのフォルダ名だけが、妙にあっさりしていた。
「プライベート」
ただそれだけ。
「……変だな」
ドズルが息を整えながら呟く。
「いつもは仕事関係にロックかけるのに。プライベートは雑なのに」
おらふくんがかすかに笑って言い、そして笑えなくなった。
鍵は、堅牢だった。
破ることはできる。
技術的には、方法はいくつもある。
でもそれは、侵入だ。
勝手に踏み込む行為だ。
四人の指は、同時に止まった。
やれる。
でも、やりたくない。
知りたい。
でも、知るのが怖い。
矛盾が胸の中でぶつかり合い、喉に刺さる。
「……別のところ見るか」
ぼんじゅうるが、逃げるように言った。
逃げだと理解していても、誰も責めなかった。
クラウド。
外付けドライブ。
バックアップ。
メモ帳ファイル。
音声の下書きフォルダ。
未公開のサムネ素材。
あらゆるデータがチェックされていく。
そこにあったのは、「仕事としての完璧」だった。
未提出の案件は整理され、引き継ぎ資料のようにまとめられている。
依頼メールはラベル分けされ、返信は必要なところまで済ませられていた。
やり残しが、ほとんどない。
それが、いちばん怖かった。
「終わらせてる……全部じゃないけど、限りなく」
おおはらMENの声が掠れる。
終わらせる必要がないほど、彼はいつも未来を前提に動いていた。
だからこそ、今この整い方が異様だった。
終わらせようとしていた人間の机だった。
公式文面の雛形が、画面に映し出される。
「現在、体調不良により活動を休止しております」
それは嘘ではない。
だが、真実とも言えなかった。
「現在、確認中です」
それもまた、真実であり、無力な言葉だった。
何も伝えられない。
何も保証できない。
ただ不安を共有することしかできない。
打ち込んでは消し、打ち込んでは消し。
カーソルが画面の白に瞬きを繰り返す。
「……弱い」
ドズルが静かに言った。
「でも、嘘は書けない」
ぼんじゅうるが続ける。
沈黙の中、キーボードの音だけが鳴り響く。
これが四週間目だった。
もう隠せないのに、何もわからない。
触れざるを得ないのに、何も掴めていない。
おんりーのいない空白を、言葉で埋めることはできなかった。
その夜、公式から短い文章が発表された。
はっきり言わなかった。
でも、言わなかったことが、すべてを語っていた。
視聴者は理解した。
本当に、いないのだ。
コメント欄は静かに震えた。
《待つって言うしかないのがつらい》
《元気って言葉を軽く言えなくなった》
《笑ってる動画見るのが苦しいの初めて》
《無事でいてほしい、それだけ》
優しい言葉ばかりだった。
それが、余計に胸を締め付けた。
メンバーはそれぞれの家に帰った。
帰ったはずなのに、誰も眠れなかった。
スマホの画面を光らせては消し、
通知を確認しては、落ちる。
そのたび、同じことを願う。
——返信が来てほしい
——既読がついてほしい
——一言でいい
——「大丈夫」じゃなくていい
生きている証拠だけでいい
そんな当たり前すぎる願いが、四週間という時間の中で「奇跡」に変わってしまっていた。
そして、四人はまだ知らなかった。
あの「プライベート」フォルダの奥底に、
答えの半分が眠っていることを。
そして
まだ見つけていない、おんりー自身が一番見つけて欲しいと思っている「一本の動画」が存在していることを。
四週間目は、ただそこまでだった。
絶望は、まだ形になっていない。
だが、確実に近づいている。
笑って動画の中に残り続けるおんりー。
その裏で、欠けていく日常。
光と影の対比だけが、はっきりと濃くなっていった。
ドズル社の事務所は、相変わらず日常の形を保とうとしていた。
録音、打ち合わせ、編集作業、スポンサーとの連絡。
時計の針は止まらない。予定も止まらない。
ただ一つ、おんりーだけがいない。
椅子が一脚だけ、ぽつんと空いている。
そこに何度も何度も視線が吸い寄せられる。
誰も触れない。
触れた瞬間、何かが壊れる気がしていたから。
《……ねえ、本当に生きてる?》
そのコメントの一文を、メンバーは見てしまった。
モニターに映る黒いテキスト。
軽いタップで打たれたはずの文字列が、胃に石のように沈んでいく。
否定しようとして、言葉が出ない。
おんりーから、何も連絡がない。
既読もつかない。
位置情報も共有していない。
机は整いすぎていて、痕跡をそっと拭ったようにきれいだった。
「生きてるって、言い切れる材料がない。」
それが、いちばん怖かった。
視聴者は悪意ではなかった。
むしろ、ほとんどが善意だった。
善意ゆえに、残酷だった。
「心配してるだけなんです」
「救いたいんです」
「無理して笑わないでほしい」
最初は、祈りのツイートだけだった。
しかし数は暴力だった。
「事務所はちゃんと説明して」
「隠してるんじゃない?」
「匂わせ無理」
「体調不良って言葉、便利だな」
ハッシュタグができた。
まとめ動画が出た。
切り抜きが分析を始めた。
笑い方の変化
噛み方の回数
視線の向き
配信に映った飲み物の本数
深夜のツイートの時間帯
秒単位で切り取られていく。
「この時点で、もう限界だったんじゃない?」
断言口調。
知らない誰かの口から、勝手に結論が置かれる。
ドズルは、否定する言葉を何度も打っては消した。
「違う、そうじゃない」と言いたい。
だが、違うと言い切る根拠がない。
言葉は、責任を伴う。
何かを宣言すれば、それは公式の音になる。
「おんりーは大丈夫です」
それを打とうとして、指が止まった。
押せなかった。
もし、違ったら?
胸の内側で、その仮定が膨張する。
心臓を内側から掴んでくる。
無言でスマホを机に置いた。
画面が伏せられる。
おらふくんは、コメント欄を見るのをやめた。
「見たら崩れる」と、直感で理解していた。
ぼんじゅうるは、それでも見続けた。
見て、傷ついて、やめられなくなっていた。
「知りたい」「知りたくない」「知ってしまう」
三つが同時に回り続け、眠れなくなった。
三時四時、空が白むまでスマホの光に顔を照らされながら、スクロールを止められなかった。
MENは静かだった。
ただ静かに、壊れていた。
DMは溢れていた。
心配しています
助けたいです
戻ってきてほしいです
優しい文体で、何百通。
そして、その優しさはこう変わる。
「あなたたちが守れなかったんじゃないですか」
「もっと早く気づくべきだった」
「笑ってるのを見て安心してたんですか」
突き刺さる主語は広い。「あなたたち」。
だが矢は、特定の胸に深く刺さる。
事務所
メンバー
視聴者
家族
全員が、少しずつ責任を抱え込む。
誰も悪者じゃないのに、誰もが悪者の顔をしていく。
四週間目の終盤から続けていた作業があった。
おんりーのパソコンの中に残された「プライベート」フォルダ。
パスワードがかかっていた。
おんりーらしい、とメンバーは言った。
みんなに、見てほしいけど見てほしくない心情が、溢れていた。
開きたい。
だが、開いた瞬間に決定的な何かが出てくる予感がする。
触ったら戻れない線が、そこにあった。
事務所の人間と相談の上、最低限の解析が行われる。
完全には開かない。
だが、一部だけひらいた。
「ログ」
「メモ」
「ドラフト」
それだけ。
動画はまだ見えない。
最も核心に近い何かは、まだ奥にある。
フォルダの階層の深さが、喉を締めつけた。
開いたファイルにあったのは、短い文章だった。
完成した文章ではない。
途中で切れているメモ。
単語の羅列。
断片。
・迷惑をかけたくない
・明るい方が大丈夫だと思われる
・「気づかれない」が一番正しい
・最後まで冗談みたいに
・怒らせたくない
・ちゃんと整理してから
誰も声を出さなかった。
読むたびに、肺の空気が抜ける。
文字はただの文字なのに、重さがあった。
「明るい方が大丈夫だと思われる」
おんりーの笑顔が、脳内で再生される。
あの日の撮影。
少し噛んで笑って、いつもよりもよく笑っていた。
——あれは、「サイン」だったのか。
いや、違う。
違っていてほしい。
でも、違うと言えない。
善意が刃物になる感覚を、メンバーは初めて知った。
そうこうしている間に、世間では考察という名の切り抜きが増える。
「噛み方、増えてるの気づいてた」
「片付けられた机って、もう覚悟してる人の机じゃん」
「声が軽いのに、目が笑ってない」
言葉は優しい調子を装いながら、断定になっていく。
切り抜き動画には、BGMがつく。
テロップがつく。
感情が誘導される。
サムネイルには、大きく白文字。
《気づいてあげられなかった》
まだ何も終わっていないのに。
まだ何も確認できていないのに。
結論が勝手に先に立った。
「公式は何してるの?」
「黙ってるってことは、そういうこと?」
「情報隠して金稼ぎは最低」
沈黙は、選択ではなかった。
言えることが、なかった。
確定していないことは言えない。
軽率な発言は傷に塩を塗る。
でも、説明しないことが、責められる。
そして、説明できないことほど、説明を求められる。
——これが五週間目だった。
プライベートフォルダの奥には、まだ鍵がかかったままの階層がある。
動画。
音声。
日付のついたファイル。
そこまでは、まだ辿り着かない。
踏み込めば、戻れない領域だとわかっている。
開けた瞬間、
「たぶん」「きっと」「おそらく」は
すべて「現実」になる。
人は、現実よりも「まだ確定していない不安」の方に、かろうじて希望を見出せる。
だから、鍵はまだ開けない。
開けられない。
しかし同時に、こうも思う。
——開けなければ、永遠に見つからない。
希望と絶望が同じ重さで吊り合い、胸の中で揺れる。
五週間目。
善意は暴走し、考察は加速し、言葉が重くなる。
そしてまだ、核心には辿り着かない。
辿り着いていないのに、もう十分に痛かった。
静かな日だった。
雨が降っていたわけでも、嵐だったわけでもない。
むしろ空はどこまでも青く、冗談みたいに良い天気だった。
そんな日だったからこそ、「それ」は余計におかしく見えた。
事務所にはいつもの音があった。
キーボードの音、マウスのクリック、椅子のキャスターが床を滑る音。
飲み物の缶が置かれる小さな音。
いつも通りのはずなのに、すべてが空洞に響いていた。
そこに、空いた椅子が一つ。
おんりーの席。
誰も座らない。
誰も動かさない。
椅子は静かに机に押し込まれたまま、「不在」という事実だけを示していた。
やっぱりおんりーは戻ってこなかった。
連絡もない。
既読もない。
通話も、メールも、すべて沈黙。
探そうとすればいくらでも探せた。
でも「その先」が怖くて、何度も足が止まった。
理由は何一つ、わからない。
ただ一つわかるのは「いない」という事実だけだった。
その日、決定的なものに辿り着いた。
おんりーのPCの中、幾つもの鍵を越えたさらに奥。
そこにあった。
「 」
その中に、シンプルすぎる名前のファイルがあった。
「goodbye.mp1」
ドズルの手が止まった。
カーソルは静かにその上で点滅していた。
クリックすれば再生される。
クリックしなければ、何も始まらない。
いや、もう何かは「始まって」いたのかもしれない。
喉が渇く。
部屋の空気が一段階重くなる。
「……開けよ」
誰かが言った。
誰かが聞いた。
誰も答えなかった。
答えられなかった。
開いた先にあるものが何か、誰も知らない。
ただ一つだけ想像できてしまう。
—— 戻れないもの。
マウスが小さく動いた。
カチ、とクリック音。
画面がふっと明るんだ。
そこにいた。
おんりーだった。
驚くほど普段どおりの見た目で、
お気に入りのパーカーで、
ライトに照らされて、
背景には見慣れた壁。
ただそこに、いつも横で聞こえる音がなかった。
笑い声も、ツッコミも、雑談もなかった。
静寂の中で、
おんりーだけが画面の中央にいた。
そして、動いた。
小さく何かを呟くように唇を動かした後
聞こえる声で無情に部屋を響かせた。
「さよなら」
それだけだった。
一拍置いて、画面が暗転した。
終わりだった。
たった一言。
言い訳も、説明も、軽口も、冗談も、ふざけもなく。
それだけが置き去りにされた。
誰も声を出さなかった。
声帯の使い方を忘れてしまったかのように、誰も音を出せなかった。
動画は黒い画面のまま止まっている。
再生バーだけが端まで伸び、時間だけがゼロからカウントを終えていた。
「……は?」
最初の声は、まともな意味をなさなかった。
理解に追いつかない脳みそが、無意識に漏らした言葉だった。
「え?」
「いや、…」
言葉にならない音がいくつも重なった。
意味がわからない。
理解したくない。
理解が追いつく前に、心だけが先に崩れていく。
「……違うでしょ」
ぼんじゅうるの声だった。
震えていた。
「なんかあるでしょ?続きとか……おい、短すぎる、……」
笑おうとして笑えなかった。
声が裏返り、喉が詰まる。
再生ボタンがもう一度押される。
再生される。
「さよなら」
終わる。
もう一度押される。
「さよなら」
終わる。
何度も、何度も。
意味が増えることはない。
ニュアンスが変わることもない。
ただ同じ一言が胸に打ち込まれる。
「さよなら」
斬撃のように。
理由がないことが一番怖かった。
怒っているわけでもない。
泣いている顔でもない。
切羽詰まった表情でもない。
穏やかだった。
ただ静かで
ただ優しくて
ただ柔らかく笑って
その上で「さよなら」とだけ言った。
それは「別れ」を言い慣れた人の口調ではなかった。
日常の挨拶みたいに、軽く。
だから余計に残酷だった。
「理由を言ってくれた方がよかった」
誰かが呟いた。
でもそれは嘘だった。
理由があったら、もっと壊れていたかもしれない。
理由がなければないで、壊れていた。
ない優しさも
ある冷酷さも
どちらも同じくらい痛い。
事務所の静けさが、急に牙を持ち始める。
冷蔵庫のモーター音がうるさく感じる。
時計の針の音が胸を刺す。
風の音さえ神経を逆撫でする。
「なんで言わないの」
「なんで笑ってるんだ」
「なんで“またね”じゃなくて“さよなら”なん」
言葉が溢れてくる。
でも当人はいない。
問いかけだけが宙にぶら下がり、落ちてこない。
答えのない質問は、ナイフだった。
投げても、投げても、自分に突き刺さって戻ってくる。
誰もすぐには泣かなかった。
泣くには、理解が要る。
理解が追いつく前に、心が砕けていた。
おらふくんの手が震えていた。
膝に置かれた手の甲を、汗か涙かわからないものが伝う。
MENはうつむいたまま眉間を押さえていた。
強い人間が静かに崩れるとき、音は出ない。
ぼんじゅうるは声を殺せなかった。
「ふざけんな」と何度も言った。
けれど怒っているわけではなかった。
ドズルは画面から目を逸らさなかった。
暗転したモニターの前で、動かなかった。
「……さよならって言われたら、どう返せばいいの?」
誰にでもなく言った。
「僕ら、“またね”って返し方しか知らないのに」
返せなかった言葉が喉につかえて、形にならないまま苦しさだけを残す。
動画は削除されなかった。
閉じられなかった。
また再生ボタンが押された。
「さよなら」
終わる。
数秒間の無音。
それから、また押される。
「さよなら」
終わる。
言葉の意味は同じなのに、刺さり方が変わっていく。
一度目は理解不能だった。
二度目は恐怖だった。
三度目は現実だった。
四度目には、祈りになった。
同じ声なのに、
何度聞いても慣れない。
いや、慣れたくなかった。
頭の奥で幻聴が鳴る。
噛んで笑った声
ふざけて突っ込む声
照れながら褒められて逃げる声
全部が、まだそこに“ある”気がした。
ほんの数週間前、確かに隣にいた。
その事実と、「さよなら」の四文字が混ざらなかった。
「ついこの前まで、一緒にいたじゃん」
事実を列挙していく。
収録もした
会議もした
飯も食った
他愛もない話をした
なのに、結果として残った言葉はたった一つ。
「さよなら」
あまりに釣り合わなかった。
積み重ねた日常と
一言の別れが
どうして同じ天秤に乗るのか理解できなかった。
それでも天秤は傾いた。
一言の方に大きく。
「発表どうする?」
現実の話をしなければならなかった。
視聴者。
ファン。
待っている人たち。
「言える?」
誰かが言った。
「言えないでしょ」
誰かが返した。
「“さよならって言われました”なんて」
それを口にした瞬間、やっと涙が零れた。
言葉にしたら、現実になる。
さよならは
ただの音ではなかった。
宣告だった。
それでも、発表した。
タイトルは出さない。
BGMもない。
黒い画面がただ映り、チャット欄の文字だけが滝みたいに流れていく。
「今日、話します。おんりーのこと」
ドズルの開口一言は、喉の奥に砂利でも詰まっているみたいだった。
言葉を押し出すたびに、胸の奥で何かが削れる。
横に並ぶ三人も同じ顔をしている。
明るさを作らない。
作れなかった。
おんりーの名前を出すというだけで、
全員の肩が僅かに揺れた。
画面のコメント欄は、もう知っている。
《おんりー?》
《今日こそ何かある?》
《帰ってくる?》
《発表ってなに?》
《怖いこと言わないで》
ドズルは、手を握った。
指の節が白く浮かぶ。
「動画が、ありました」
その瞬間、コメントの流れが一瞬止まり、
次の瞬間、爆ぜる。
《動画!?》
《生存確認!?》
《帰ってくる?》
《よかった…》
《泣きそう》
その期待の波を、正面から浴びながら、
四人は一言も足さなかった。
期待を裏切ることになると、
もう分かっていたから。
動画は、突然始まる。
背景は写っていない。
真っ暗。
顔も映っていない。
映るのは口元だけ。
白すぎるほど白い唇。
照明も、画角も、荒くて、
それが余計に「最期の記録」みたいな空気を作っていた。
おんりーは笑っていた。
音声が再生される。
いつもの、少し眠そうで、
息を含んだ、柔らかい声。
「さよなら」
それだけだった。
理由もない。
冗談もつけない。
言い訳も、優しさも、何もつけない。
ただ、さよなら。
たった三秒。
動画は途切れる。
暗転。
終わり。
静寂が降りた。
いちばん最初に崩れたのは、コメント欄だった。
《やだ》
《待って》
《やだやだやだ》
《終わり?》
《嘘って言って》
《さよならって言った…?》
《意味が…》
《理解したくない》
崩れたというより、崩れることしかできなかった。
四人は、誰も口を開かなかった。
ドズルの喉が動いたのに、声にならなかった。
ぼんじゅうるは下を向いて、目元を乱暴に拭った。
おらふくんは笑おうとして、失敗した顔をした。
MENは拳を握って、机の角に押しつけていた。
画面に映る彼らは、泣いていない。
泣いたら、本当に終わる。
そんな奇妙な理屈が、全員の中に同時に生まれていた。
チャット欄が突然大きく流れる。
《信じたくない》
《唇が“いちど”って動いた》
《おんりーともう会えない…?》
《ドッキリって言ってくれまじで》
ほんの一瞬だけ、
流れの中に逆らう声が浮かぶ。
だが、すぐに沈む。
大きな悲鳴に飲み込まれていく。
正しさよりも感情のほうが早い。
希望よりも絶望のほうが重い。
ドズル社の四人は、そのコメントを視界の端で捉えながらも、
掴みきれずにいた。
おんりーの口の動き。
確かに、何か言った気がする。
だが、動画は短すぎる。
言葉は音になりきらない。
それが余計に残酷だった。
ドズルが、ようやく口を開いた。
「……何か、知ってる人がいたら、教えてほしい」
声が震えなかったのは奇跡に近い。
「俺たちの知らない顔、言葉、行動。
なんでもいい。
“変だった瞬間”を、教えてほしい」
視聴者は応じる。
コメント欄が、一斉に過去を掘り返し始める。
《この時の笑顔、作り笑いだったのかな》
《この配信、声枯れてたよね》
《写真写らなかったのって伏線?》
《このツイート、今見るとお別れの挨拶に見える》
善意が動き出す。
心配で、優しくて、
だからこそ、容赦がない。
無数の細部が、勝手に意味を与えられていく。
何気ない沈黙が「サイン」になり、
ただの癖が「SOS」になる。
「救いたい」という感情は、
時に、鋭い刃の形をしている。
おらふくんが呟く。
「……調べよう。僕らも」
それは提案ではなく、懺悔に近かった。
配信上で検索窓が開く。
おんりーの症状と噂される断片的な言葉が入力される。
視聴者も同時に検索し、情報が次々とチャット欄に投げ込まれていく。
《これじゃない?》
《声が出なくなる病気》
《進行性》
《日本で完治無理らしい》
リンクは流れる。
文章が貼られる。
専門用語が並ぶ。
そして、ある一文が共有された。
「根治は困難」
その言葉が、
画面の空気を完全に止めた。
「治らないってこと?」
「無理なの?」
「だからさよなら?」
「もう終わりなの?」
チャット欄が、
静かに、無音で崩れる。
泣き顔の絵文字すら打てない人がいる。
言葉にすると現実に変わるから。
ドズル社の四人も同じだった。
口を開けば、終わってしまう気がした。
だから、何も言えなかった。
配信時間の経過は、残酷に進んでいく。
何も解決しないまま、
何も見つからないまま、
ただ「さよなら」の余韻だけが残る。
動画は三秒。
絶望は終わらない。
終わり際、ドズルが呟いた。
「……おんりー。
もし見てたら、なんでもいいから帰ってきて」
返事はない。
通知音もない。
チャット欄すら返せない。
それでも、言うしかなかった。
言葉を投げることしか、
残っていなかった。
配信が切れたあと、
静かな世界が残る。
視聴者の部屋にも、
ドズル社のオフィスにも、
同じ沈黙が沈んでいる。
一言の「さよなら」が、
何万人分の夜を止めた。
そして誰もまだ知らない。
今はまだ、誰も辿り着けない。
絶望のほうが、
少しだけ近くにあった。
配信は、切れなかった。
切るべきだ、と頭のどこかでは分かっているのに、
指が動かない。
画面には四人が映っている。
さっきまで“発表する側”の顔をしていた人たちが、
今はもうただの人になっていた。
言葉を選ぶ余裕はない。
言葉を飾る余裕はない。
沈黙が長い。
息を吸う音だけがマイクに乗る。
ぼんじゅうるが一番最初に泣いた。
堰を切るみたいな泣き方じゃない。
音を殺すように、唇を噛んで、
それでも零れてしまう涙。
拭っても拭っても止まらない。
「……無理、だな…これ…」
絞り出す声が震えていた。
おらふくんは笑おうとした。
相変わらず、癖みたいに。
「………ふ、っ…おんりー……ひどい…」
笑顔はすぐに崩れた。
顔を手で覆う。
肩だけが静かに揺れる。
MENはうつむいていた。
一言も喋らない。
その沈黙が逆に、
声を上げて泣くよりも痛かった。
ドズルは、泣かない顔を必死に保っていた。
「大丈夫」
「まだ」
「信じよう」
そのどれかを言おうとするたびに、喉が締め付けられる。
声が出ない。
音にならない。
泣いてはいけない、と思っていた。
誰か一人ぐらい、立っていなきゃいけない。
そんな責任感が、鎧みたいに体に張り付いていた。
でも、堪えきれなかった。
「……おんりー」
ただ名前を呼んだだけで、
視界が滲んだ。
涙は、気づいたら落ちていた。
コメント欄は、洪水みたいだった。
《やめて泣かせないで》
《無理》
《見てられない》
《一緒に泣いてる》
《心が痛い》
《おんりー返して》
強い言葉は少ない。
罵倒も責めもほとんどなかった。
ただ、悲しみだけがそこにあった。
そして、きっかけは唐突に訪れた。
視聴者の一人が、病名に似た症状解説サイトを貼った。
誰かが要約して、誰かが補足していく。
それは噂から、
すこしずつ「確からしい情報」に形を変えていく。
「声帯の病気」
「進行すると発声困難」
「さらに進行すると筋肉が動かしにくくなる」
チャットが揺れた。
《動けなく…?》
《声が出なくなるだけじゃないの?》
《配信も、ゲームも、できなくなるの?》
ドズルは震える手で画面をスクロールする。
医学用語が続く文章の中に、
決定的な一文があった。
——症状が進行すると、日常動作に支障が出る場合があります。
世界が一瞬、無音になる。
おんりーの声が出なくなる未来は想像していた。
それですら耐えがたかった。
そこに重ねるように見せられたのは、
動けなくなるかもしれない未来だった。
「おんりー…ゲームできなくなるの…?」
おらふくんの声が震える。
「しゃべれなくて…動けなくて…
それでも笑ってたってこと…?」
MENの拳が机に当たった。
大きな音ではない。
でも、響いた。
ぼんじゅうるは首を振り続ける。
「やだやだやだ…それだけは…」
涙が止まらなかった。
ドズルは目を強く閉じた。
情けないぐらい、涙が溢れる。
「……言ってよ…」
かすれ声が、マイクを震わせる。
「辛いって…言ってよ……」
画面の向こうにもういない人に向けて、
祈りみたいに、責めみたいに、
どうしようもない言葉がこぼれる。
配信はまだ続いている。
止められなかった。
止めたら終わりになってしまう気がした。
だから四人は泣きながら続けた。
泣きながら、思い出話をし始めた。
「おんりーさ、録画止めた後がいちばん笑うんだよ」
「カメラ回ってないとこで無邪気なんだ」
「気遣いがね、凄いんだ」
「天才みたいな顔して努力めっちゃするのに隠すのな」
話せば話すほど、
喪失感は形を持って重くなっていく。
“もう二度と増えない思い出”として確定してしまうから。
視聴者も同じだった。
「あの笑い方好きだった」
「噛むの可愛かった」
「声聞きたい」
「戻ってきてほしい」
配信の空気は一色だった。
悲しい。
ただ、それだけ。
夜は、進む。
現実も、進む。
「いなくなった人が、いないまま日付が変わる」
という事実が、骨にまで染み込んでいく。
ドズル社の四人は、
最後まで「終わります」と言えなかった。
閉じるボタンを押すのに、
何分もかかった。
画面が暗転する直前まで、
誰かが来る気がしていた。
「ただいま」って言ってくれないかと、
子どもみたいに期待していた。
でも、扉は開かなかった。
だから、泣くしかなかった。
最初に見つかったのは、
誰も見ない場所だった。
机の上でもない。
PCの中でもない。
引き出しの奥でもない。
ホワイトボードの裏。
掃除のついでに少しズレたその隙間から、
白い紙が一枚、ゆっくりと床へ落ちた。
最初に気づいたのはMENだった。
「……ん?」
無意識に拾う。
紙は薄く、折り目もない。
大事に扱われたというより、
「雑に見つからないように置かれた」紙だった。
裏返す。
そこには、見慣れた字があった。
丸くて、少し癖のある、
おんりーの字。
たった二行。
ごめんね
だいじょうぶだよ
それだけ。
名前も、日付も、理由もなく。
説明も言い訳もなく。
ただ、その二つの言葉だけが置かれていた。
「……なぁ」
MENの声が震える。
呼ばれた三人が振り向く。
見ただけで理解した。
誰の字かなんて、確認するまでもない。
空気が変わった。
ぼんじゅうるの手から、持っていたマグカップが落ちた。
割れもしなかったのに、音がやけに大きく響く。
おらふくんは一歩近づいて、
一歩後ずさった。
「やだ……やだそれ……」
ドズルは、紙を見つめたまま動かない。
視界の周辺が霞む。
ごめんね。
何に対して?
だいじょうぶだよ。
誰が?
どこが?
何が?
何も書いていないからこそ、最悪まで想像できてしまう。
ぼんじゅうるが泣いた。
声を殺すとか、我慢するとか、そういう段階ではもうなかった。
「なにが大丈夫なんだ…?」
しゃくりあげながら言う。
「大丈夫じゃないって……!
全然……大丈夫じゃないから……!」
紙は薄い。
くしゃくしゃにしたら一瞬で終わる。
でも誰も、折り曲げることすらできなかった。
そこに触れるだけで、
壊れてしまいそうだったから。
「……ごめんね、って…何…?」
おらふくんが呟く。
「置いていくことに?
何も言わなかったことに?
泣かせたことに?」
質問は全部宙ぶらりんのままだ。
答える人はいない。
ドズルは、唇を噛んで笑った。
笑いながら泣く、
みっともない顔だった。
「“だいじょうぶ”っていう時、いつも嘘つくじゃん……おんりー…」
嫌味ではない。
優しい怒りだった。
「大丈夫じゃない時ほど笑うし
限界の時ほど“平気”って言うし
助けてって絶対言わないし……」
声が掠れる。
「……なんで最後までそれなの」
紙を握る手が震える。
「僕らにぐらい、本音言ってよ……」
その手紙を見つけた日から、
さらに二週間が過ぎた。
季節は変わらないのに、
空気だけが老けていく。
日常は戻ってこない。
仕事は続く。予定もある。配信もある。
でも、おんりーの席は空いたままだった。
PCの前の椅子。
コードの束。
マグカップの丸い跡。
触れれば崩れてしまいそうで、
誰も片づけられなかった。
時間は、残酷に仕事をする。
最初の一週間は、ただ泣くだけで過ぎた。
二週間目に入るころ、
悲しみは形を変え始めた。
諦めが混ざる。
慣れてしまう、という意味ではない。
「もしかしたら本当に戻らないのかもしれない」
という現実が、静かに骨に沈んでいく。
笑う瞬間もある。
冗談も言う。
仕事では声を張る。
でも、ふとした瞬間に、
胸の奥で何かが落ちる。
あ、
いないんだ、って。
配信は続けていた。
「四人のドズル社」として。
タイトルも構成も、いつも通りに見えるように整えた。
視聴者も、
笑うところは笑ってくれる。
それでも、
おんりーの名前が出ない日はなかった。
癖みたいに出てしまう。
「ここおんりーだったら絶対こう言う」
「この建築、おんりー得意だったな」
「このタイミングで噛むんだよな、おんりー」
笑って言ったはずなのに、
言った本人が黙り込む。
沈黙は短い。
でも、重い。
ある配信の日。
ちょっとしたトラブルで音声が一瞬途切れた。
沈黙。
音が戻る。
その一瞬で、
四人とも同じことを考えていた。
おんりーの声が戻らなかったら、
こんな感じなんだろうな。
誰も言わない。
言葉にしたら現実になってしまう気がして。
それでも涙は勝手に溢れた。
画面の向こうで、
視聴者も泣いていた。
《いないのに癖で探してしまう》
《まだ信じられない》
《おんりーの笑い声が聞こえる気がする》
コメントが滲んで読めない。
二週間。
長いようで、残酷なほど短い。
悲しみは薄れないまま、
形だけ生活が進む。
おんりーの手紙は、
額縁にも入れられず、
しまわれもせず、
ただホワイトボードの横に磁石で留められていた。
ごめんね。
だいじょうぶだよ。
読むたびに痛い。
なのに手放せない。
ある夜、
ドズルは一人でオフィスに残っていた。
灯りを落とした部屋。
PCの光だけが顔を照らす。
ふと、
おんりーの椅子が視界に入る。
空っぽの椅子に向かって、
独り言みたいに呟いた。
「…ねぇ、おんりー」
返事はない。
「大丈夫って言ったよね」
沈黙が返ってくる。
「……何が大丈夫なの」
机に影が落ちる。
涙がぽたりと落ちた。
「僕らか?
視聴者か?
おんりーか?」
答えは、
影の向こう側に隠れたままだった。
それでも、配信は明日も来る。
笑う。
ゲームする。
喋る。
噛む。
ミスる。
謝る。
そして、不意に思い出す。
もう一人足りないことを。
泣いた涙は、
いつの間にか慣れた動作で拭えるようになっていた。
慣れたくなかったのに。
配信は続けていた。
「四人のドズル社」として。
タイトルも構成も、いつも通りに見えるように整えた。
視聴者も、
笑うところは笑ってくれる。
それでも、
おんりーの名前が出ない日はなかった。
癖みたいに出てしまう。
「ここおんりーだったら絶対こう言う」
「この建築、おんりー得意だったな」
「このタイミングで噛むんだよな、あいつ」
笑って言ったはずなのに、
言った本人が黙り込む。
沈黙は短い。
でも、重い。
ある配信の日。
ちょっとしたトラブルで音声が一瞬途切れた。
沈黙。
音が戻る。
その一瞬で、
四人とも同じことを考えていた。
――おんりーの声が戻らなかったら、
こんな感じなんだろうな。
誰も言わない。
言葉にしたら現実になってしまう気がして。
それでも涙は勝手に溢れた。
画面の向こうで、
視聴者も泣いていた。
「いないのに癖で探してしまう」
「まだ信じられない」
「おんりーの笑い声が聞こえる気がする」
コメントが滲んで読めない。
悲しみは薄れないまま、
形だけ生活が進む。
おんりーの手紙は、
額縁にも入れられず、
しまわれもせず、
ただホワイトボードの横に磁石で留められていた。
ごめんね。
だいじょうぶだよ。
読むたびに痛い。
なのに手放せない。
非通知からの着信は、静かな夜を真っ二つに割るみたいに鳴った。
スマホの画面に浮かんだのは、見慣れすぎて嫌いになりそうな四文字。
けれど現実は
「非通知設定」
ドズルは息を止めた。
誰も何も言わないのに、空気が凍り付いたのがはっきり分かった。
おんりーの「さよなら動画」が公開されてから、二週間。
泣きすぎて喉がおかしくなった人もいたし、眠れていない人もいた。
笑うってどうやるんだっけ、と本気で忘れかけた瞬間すらあった。
それでも配信は止めなかった。
止めたら、本当に帰ってこない気がしたから。
画面の向こうには視聴者。
チャットは今日も流れている。
「無理しないで」
「休んでください」
「大丈夫です」
優しい言葉ばかりなのに、胸に刺さるときがある。
優しさは時々、罪みたいに重い。
そんな夜だった。
プルルルルル——
また鳴った。
「出て」
誰が言ったのか分からない声だった。
自分でも自分の声が分からないほど、みんな疲れていた。
ドズルは覚悟を押し込むように、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
返事は無い。
ノイズが微かに混ざる。
部屋の時計の秒針の音が、異様に大きく聞こえる。
次の瞬間、小さな息の音がした。
「………………」
誰かがいる。
生きている誰かの音。
「おんりー?」
無意識に名前が零れた。
誰も止めなかった。
止められなかった。
すると、スマホから、囁くような声が落ちた。
低くて、掠れていて、壊れかけたボイチェンをかけた声。
「……ここに、来て」
それだけだった。
場所の名前を告げられた瞬間、胸が掴まれるような感覚が走った。
そこは、何度もみんなで行った場所。
笑いながら、騒ぎながら、動画の企画を話した場所。
そして——
最後におんりーと会った場所。
通話はそれで切れた。
ツーツー…という機械的な音が、やけに残酷だった。
「……行く」
誰も反対しなかった。
考えるより先に、体が動いていた。
◇
夜の街は、やけに冷たくて広かった。
車の中、誰も喋らない。
カーラジオを入れる勇気もない。
窓の外の景色が流れていくのに、時間だけが止まったみたいだった。
「本当に……おんりーなのかな」
誰かが震える声で呟く。
「いたずらの可能性もある」
そう言いながらも、心のどこかでひたすら願っていた。
会いたい。
もう一度でいい。
怒ってもいい。殴られてもいい。
ふざけて「なんすか」って言ってくれたら、それでいい。
「ただいま」
その一言を聞くためなら、なんでもよかった。
場所に着く。
懐かしいはずの景色が、別世界のものみたいに見えた。
夜風が冷たく、街灯の明かりが滲んで揺れている。
「……誰もいない」
周囲を見渡しても、人影はない。
探し回る。
名前を呼ぶ。
声が震える。
喉が焼ける。
「おんりー!」
返事は、風の音だけ。
影も、足音も、残っていない。
さっきまで通話していた温度だけが、手の中でじんじんと痛い。
まるで、つかめそうでつかめない蜃気楼みたいに。
期待した分だけ、落差は深かった。
一人が崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
「……もう、いないのか」
言葉にした瞬間、現実になってしまいそうで怖かった。
胸の奥に、錆びた鉄球みたいな絶望が落ちる。
胃のあたりで重く沈んで動かない。
涙は出ない。
泣く力すら残っていなかった。
ただ、空っぽになっていく。
尊いものほど、簡単に手の中からこぼれていくんだと、嫌でも理解させられる。
しばらくして、ドズルが静かに言った。
「戻ろう……配信、始めよう」
「この状態で配信なんて」
「やる。
やらないと、壊れる」
その声は、無理に保っている氷みたいに薄かった。
スタジオに戻る。
いつもの空間のはずなのに、椅子の並びも、マイクの位置も、全部違って見えた。
一つだけ空いた席。
そこに視線が吸い寄せられる。
誰も座らない。座れない。
配信のカウントが始まる。
10
9
8
心臓の音と同期する。
3
2
1
——配信開始。
ライトがつく。
画面が光る。
コメントが一気に流れ始める。
《大丈夫ですか?》
《ムリしないで》
《ゆっくりでいいよ》
優しい言葉たち。
全部、痛い。
何を言えばいいか分からない。
喋ろうとすると喉が詰まる。
沈黙の中で、秒針の音だけが響く。
その瞬間だった。
——キィ。
静かな音が、スタジオの奥からした。
全員の意識がそちらに向く。
扉が、ゆっくりと開いていく。
蛍光灯の光が差し込んで、影が伸びた。
そこに、誰かが立っていた。
フードを深く被ったパーカー姿。
顔は見えない。
表情も分からない。
ただ、そこに「人」がいる。
息を呑む音が重なる。
心臓が跳ねる。
現実がぐにゃりと歪んだ気がした。
誰かが震える声で言う。
「……誰?」
扉が、最後まで開いた。
スタジオに外気が流れ込む。
空気が揺れた。
時間が一瞬だけ止まる。
フードを深く被った人物は、しばらく何も言わなかった。
足だけが一歩、スタジオの中へ踏み込む。
靴音がコツン、と響く。
その音を合図にしたみたいに、全員が息を呑んだ。
視聴者のコメントも一瞬止まり、
すぐに雪崩のように流れ始める。
《誰?》
《スタッフさん?》
《警察?》
《おんりー???》
その名前が流れた瞬間、胸が軋んだ。
期待と恐怖が一緒に喉を締め付ける。
願ってしまえば、壊れる。
でも、願わずにいられない。
フードの人物が、ゆっくりと手を上げた。
指がフードの縁を掴む。
布が擦れる小さな音。
一秒がやけに長い。
呼吸の仕方を忘れる。
そして——
ふわり、とフードが外れた。
光の中に現れた顔。
見慣れた輪郭。
見慣れた目。
笑う前の、少し困ったように目尻が下がる癖。
現実は、静かにそこにいた。
ふわっと、柔らかく。
夢みたいに。
「……………っぁ…っ!………」
声が出ない。
誰も何も言えない。
その人は、ほんの少しだけ首を傾げて、
いつもの調子より少し弱い声で、
それでも、確かにいつもの声で。
「ただいま」
その瞬間、スタジオの空気が弾けた。
音にならない叫びみたいな息が、同時に漏れる。
視界が一気に滲んだ。
「……おんりー……?!」
「おんりー!!!!っ」
最初に名前を呼んだのが誰だったのか、もう分からない。
全員が同時に崩れ落ちたみたいに感情を失ったから。
次の瞬間には、全員が動いていた。
椅子を倒す音。
マイクがぶつかる音。
床を踏み鳴らす足音。
そして、
ドン、と音を立てておんりーの体を抱きしめた。
「バカぁ……!」
「帰ってきてよ…っ……!」
「心配したんだ……!」
「ほんとに……ほんとに……!」
言葉にならない声が重なる。
泣き声が混ざる。
押し殺していた感情が一気に溢れ出す。
涙が落ちて、肩を濡らす。
腕に力が入る。
離したら消えてしまう気がした。
おんりーは少し驚いた顔をして、それから、
くすぐったそうに、笑った。
本当に、柔らかい笑い方で。
「……わ、ちょ……ちょっと……」
苦笑混じりに呟く。
「そんなに力入れられると……倒れるって……」
その言葉に、全員がハッとしたように動きを止めた。
腕の力がほどける。
抱きしめていた手が離れる。
目を見れば、そこにある細さに気づく。
顔色も完全ではない。
体も前より痩せている。
「……ごめん」
本気で謝る声が重なる。
おんりーは首を横に振って、小さく笑った。
「大丈夫…………生きてるよ」
それは冗談みたいな口調なのに、
冗談では済まされない重さがあった。
スタジオは泣き笑いの空間になっていた。
視聴者のコメントも止まらない。
《おかえり》
《泣いてる》
《夢?》
《本物…?》
《生きてたんだ……》
誰かが深呼吸して、震える声で言った。
「……説明、してくれる?」
おんりーは一瞬だけ目を伏せて、
そしてこちらを見た。
覚悟を決めた目だった。
「うん」
短く答えたあと、言葉を紡ぐ。
「……病気、だった」
静かな声。
重く沈む言葉。
「声から始まって……そのうち、体も動かなくなるやつ」
視聴者のコメントが急激に減る。
息を止めたみたいに静かになる。
おんりーは淡々と言う。
「日本じゃ、治らないって言われた」
その言葉は、刃物みたいに鋭く胸に刺さる。
分かってる。
もう調べた。
もう何度も見た。
でも本人の口から聞く現実は、残酷さが違う。
おんりーは、少しだけ笑って続けた。
「……だから、海外 行った」
軽く言う。
買い物に行ったみたいなトーンで。
その軽さが逆にえぐい。
「治る確率、二割」
空気が凍る。
「…八割、は?」
誰かが聞く。
声が震えている。
おんりーは、あっさり言った。
「死ぬ」
心臓が落ちた。
深い海に沈められる感覚。
頭が真っ白になる。
「は…?」
「ふっっっざけんなよ!?!」
堪えきれずに怒鳴り声が響いた。
「意味わかんない!!!」
「なんで言わねぇんだ!!」
「なんで1人で行くんだ!!!」
怒鳴りながら泣くなんて器用なことが出来るんだと、どこか他人事みたいに思う。
おんりーは、それでも笑っていた。
「言ったら……止められるじゃん」
その笑い方が優しすぎて、また胸が痛くなる。
「止められたら……行けなくなるし」
少し間を置いてから、悪戯を打ち明けるみたいに言った。
「それに……見たかった」
「何を…!」
声が震える。
おんりーは、迷いなく言った。
「俺がいなくなったら……みんな、どうするのかなって」
ゾワッ——と背筋を撫でられた感覚が広がる。
優しい狂気みたいな言葉。
「世間はどうなるかなとか」
「ドズル社はどう動くかなとか」
「真相まで辿り着けるかなとか」
一つひとつを、笑いながら並べる。
「……気になった」
その声は、酷く無邪気だった。
怒りが込み上げる。
悲しみも、安堵も、全部混ざる。
「バカ……」
そう言うしかなかった。
おんりーは、肩を竦める。
「バカなのは自覚してる」
少し間を置いて、
それから静かに言った。
「でも——帰りたかった」
涙を堪えるみたいに、目を細めて。
「“おかえり”って言われたくて」
その言葉で堤防が決壊した。
「……おかえり」
「帰ってきて、よかった……」
「二度といなくなるな」
泣きながら言う声が重なる。
おんりーはふわっと笑う。
「ただいま」
それは、本物だった。
命の重さも、確率も、賭けも、全部潜り抜けて辿り着いた一言。
視聴者の画面の向こうでも、泣きながら笑ってる人間が無数にいるのが想像できた。
おんりーは、最後に小さく付け加える。
「二割に勝ったんだよ、俺」
その声は少し誇らしげで、少し子どもみたいで、
そして——紛れもなく、生きている声だった。
扉が閉まり、スタジオの鍵がかけられた。
外の喧騒も、カメラの赤いランプも、すべて消えた。
残ったのは、テーブルと椅子と、泣きはらした目をした仲間たちだけ。
誰も口を開かない。
誰も開けなかった。
おんりーは、その沈黙を見つめてから、ぽつりと笑った。
「……まず、ごめん」
その一言で、胸の奥がきしむ。
軽く言っているのに、軽くない。
謝罪にすら優しさが混ざっている。
「ほんとに、ごめん。びっくりさせた」
「びっくりで済むか」
誰かが低い声で言った。
おんりーは、少しだけ目を伏せて、
けれどすぐにいつもの調子で、顔を上げた。
「じゃあ、ちゃんと話す」
椅子に座る。
背もたれに寄りかからず、前のめりに肘を膝に置く癖。
昔から変わらないその姿勢が、やけに懐かしく見えた。
全員が無意識に、おんりーの方へ身体を向ける。
おんりーは、一度息を吸ってから口を開いた。
「あの“さよなら動画”のことなんだけど」
空気がぴん、と張った。
あの動画。
世界を地獄に叩き込んだ数分間の映像。
視聴者も、メンバーも、スタッフも、全員の心臓に穴を開けたあれ。
おんりーは、困ったように笑った。
「あれさ、最後に“さよなら”って言ったでしょ」
みんな頷く。
頷くしかなかった。
おんりーは、右手で口元を軽く覆って、言った。
「その直前、俺——口だけで“いちど”って言ってた」
静まり返る空間。
数秒遅れて、理解が追いついた。
「あれ、“一度”って言ってたんだ」
自分の唇を指先で軽く触れながら、確かめるように。
「一度だけ、さよならって言うって意味」
淡々としていて、優しい説明だった。
怒鳴りたい感情も湧いたのに、喉の奥で言葉が溶けていく。
おんりーは続けた。
「一度しか言わないって決めたらさ」
少しだけ笑う。
「それって、“戻ってくる前提”じゃん」
胸を締め付けるような、優しい残酷さ。
「だから大丈夫だったでしょ?」
柔らかく言う。
「“さよなら”を何回も言う人はいないし」
「……一回だけ言うってことは、帰るつもりだったってことだから」
その理屈は優しかったし、同時にひどく残酷だった。
耐えていた誰かが泣く。
泣きながら、絞り出すように言う。
「大丈夫じゃなかった」
「全然、大丈夫じゃなかった」
「壊れるかと思った」
「生きてる心地しなかった」
「ふざけるな」
言葉が溢れて止まらなくなる。
おんりーは、その全部を受け止めるみたいに黙って聞いた。
責めるでもなく、否定するでもない顔。
そして、小さく頭を下げる。
「……ごめん」
本当に申し訳なさそうな声だった。
謝りながら、泣くわけでもない。
ただ、穏やかに、静かに、謝罪だけが落ちていく。
しばらくしてから、おんりーは話を続けた。
「海外に行くときの話もするね」
視線が集まる。
おんりーは遠いものを見るように、少し天井を見た。
「空港でさ」
言葉がふわりと落ちる。
「荷物、めっちゃ軽かった」
笑う。
「片道だと思ってたから」
その言葉に、空気が止まる。
心臓だけがどくんと音を立てる。
「向こうで治せる確率、二割って言われた」
そのトーンは落ち着いていた。
淡々と事実を述べているのに、刺さりすぎる。
「八割は……」
途中で言葉を切り、短く息を吐く。
「帰ってこれない」
それでも笑っていた。
なぜ笑えるんだ、と言いたかった。
でも言葉にならない。
「でも俺、割と楽観的だから」
肩を竦めて笑う。
「助からなかったらそれはそれ、って思った」
世界がぐらりと揺れた気がした。
誰かが机を掴む。
手が震えている。
「だってさ」
おんりーは続ける。
「二割って、“ある”じゃん」
「ゼロじゃないから、賭ける価値あるなって」
命を賭けに例えるその軽さが、逆にえぐかった。
自分の命なのに。
当たり前にここにいる存在なのに。
でもおんりーにとっては、
「やってみたいことの一つ」
みたいに聞こえてしまう口調だった。
「家族には、なんて言った?」
低い声が問う。
おんりーは一瞬だけ言葉を選び、それから静かに答えた。
「“聞かれたら、こう答えて”って渡した」
「仕事でしばらく帰れないって」
胸の奥が締め付けられる。
「ほんとは言いたかったけどさ」
少し目を伏せる。
「泣かれたら、俺、たぶん行けなくなるから」
それは卑怯な優しさだった。
でも、その優しさがそのままおんりーだった。
おんりーは、一度だけ強く言う。
「みんなが大切だから、言えなかった」
冗談でも軽口でもない声。
「みんなの“止める顔”見て、
それ振り切って行くほど、強くないんだよ、俺」
静かな、本音。
「だから消えた」
絞り出すような声ではなかった。
ただ事実を置く、淡々とした言い方。
「さよなら動画は、“最悪のとき用”だった」
「戻れなかったら、あれが最後」
優しい声。
「ありがとうって本当は言いたかったけど」
少し笑う。
「泣かせちゃうからやめた」
なんてやさしい、なんて残酷。
沈黙が落ちる。
おんりーは、最後に一つだけ言葉を重ねた。
「大切だから、ああいう形になった」
まっすぐな目。
逃げない視線。
「ほんとは、ただ言いたかっただけなんだ」
ゆっくり、言葉を紡ぐ。
「“ただいま”って言いたかったし」
「“おかえり”って言われたかった」
その瞬間、全員の視界が滲んだ。
誰も声を出さないのに、部屋が泣いているみたいだった。
おんりーは照れくさそうに笑って、
「だから、帰ってきた」
短く、当たり前のように言う。
それだけ。
その一言に、命懸けの旅と手術と孤独と恐怖と期待と
全部が凝縮されていた。
誰かが小さく呟く。
「……おかえり」
もう一人が言う。
「おかえり」
次々に重なる。
「おかえり」
「おかえり」
「おかえり」
返すように、おんりーが笑う。
「ただいま」
あたたかい、柔らかい、少し掠れた声だった。
「もう、いなくならないの?」
誰かが聞く。
おんりーは、ほんの少し間を置いてから言った。
「“一度”って言ったじゃん」
あの日、唇だけで伝えた言葉。
一度だけのさよなら。
一度だけの賭け。
その代わりに、帰ってきた。
そして今はここにいる。
生きている。
笑っている。
それだけで、呼吸が楽になるのに、涙は止まらなかった。
おんりー視点
白い天井だった。
何も描いていない、ただの白。
光が滲んで、境界が曖昧で、夢みたいにぼやけている。
最初に認識したのは、痛みじゃなかった。
重さだった。
体全体に掛けられた布団の重み。
肺の奥に残る、深く潜ってきたあとのような圧迫感。
喉の奥の、ひりついた違和感。
目を動かす。
視界の端がゆっくり揺れる。
音が遅れてやってきた。
機械音。
一定のリズムで刻まれる電子音。
遠くの足音。
世界が現実に戻ってきている。
生きてる。
そこまで考えて、思考が止まる。
生きている、という実感が、胸の奥でじわりと広がる。
でも、涙は出てこない。
感情が追いついていない。
喉に手をやろうとして、腕が空を切った。
力が入らない。
まるで自分の身体じゃないみたいだ。
呼吸だけが確かで、
それが生命の証拠みたいに胸のあたりで上下していた。
「……目が、覚めましたか?」
顔を覗き込む影。
白衣のような気配。
言葉は遠くで響いて、近くで落ちる。
返事をしようとして、喉が痛みに震えた。
声にならない音。
掠れた空気が漏れる。
医師はそれを止めるように小さく首を振った。
「喋らなくていいです。今はまだ」
ああ、そうか、と心のどこかで納得する。
喉の奥のひりつきは、
何かを通された名残みたいに生々しい。
意識がまた沈みかける。
睡魔が深い海の底へ引きずる。
それでも、ほんの一瞬だけ思う。
間に合ったんだ。
真っ暗じゃない。
白い天井がある。
目を閉じると、音が遠のいた。
その白さを見たまま、おんりーは眠りに落ちた。
おんりーは目を開けたまま泣いていた。
嗚咽は出ない。声も出ない。
ただ、目から勝手に涙が溢れて止まらなかった。
怖かったからじゃない。
死ぬのが嫌だからでもない。
「喋れなくなるのが嫌だった」
胸の奥で、言葉にならない声が震える。
配信で笑う。
噛んで、茶化されて、笑いが転がる。
企画で失敗して冷やかされる。
編集部屋で説教される。
収録後、椅子を回しながらぐだぐだ話す。
それが、おんりーの生きてる形だった。
「それが無くなるなら、俺は俺じゃない」
喉を壊す病気はゆっくり進んで、
声を奪い、体を奪い、日常を奪うと聞いた。
治る確率は、二割。
八割は、声も、命も、失うかもしれない。
家族に説明した夜、
笑いながら話した自分の声を、いまでも覚えている。
「大丈夫。俺だから」
強がりじゃない。
自分を鼓舞するためでもない。
そう言わなきゃ全員が崩れるとわかっていたから。
一人になった瞬間、崩れた。
声を殺して泣いた。
枕が濡れて、ぐちゃぐちゃになるまで泣いた。
それでも決めていた。
喋れなくなるくらいなら、
舞台から下ろされるくらいなら、
「ドズル社のおんりーとして死ぬ方がいい」
拍手も、叫びもいらない。
ただ、あの居場所の中にいる自分で終わりたいと思った。
だから手術台に乗った。
だから賭けに出た。
勝ち目の低いゲームに、自分で入っていった。
震えていた。
身体は小刻みに震え続けた。
それでも心の中で繰り返していた。
みんなに会えなくなるのは嫌だ
喋れない俺は俺じゃない
でも
それでも生きて戻りたい
帰りたい。
帰りたい。
帰りたい。
帰りたい。
麻酔の白い靄の中、最後に浮かんだのはスタジオの照明。
VRゴーグルみたいに視界が暗くなり、世界が音を失う。
そして、目覚めた。
白い天井。
痺れる手足。
体の奥が熱い。
医師の口が動いた。
聞き取れなかった。
でも、何度も、何度も、はっきり言った。
「勝ちました」
涙が勝手に溢れた。
勝った。
二割に、勝った。
死にに行ったわけじゃない。
「おんりーとして生きるために」賭けに出た。
次目を覚ましたとき、世界は少しだけ鮮明になっていた。
今度は天井だけじゃなく、
点滴のチューブ、
カーテンの影、
窓から差し込む光の角度まで見える。
体のだるさは残っている。
でも、動けないほどではない。
扉の開く音がして、足音が近づく。
医師の顔。
疲れているが、どこか柔らかい表情。
カルテをめくり、確認する仕草。
そして、こちらを見た。
静かな間。
おんりーは何も言えない。
喉はまだ動きにくい。
だから、医師が先に口を開いた。
「手術は、成功です」
その言葉はあまりにも静かで、
それなのに胸に叩きつけられるほど重かった。
続く言葉が優しい。
「あなたは、二割に入りました」
世界が一瞬止まる。
二割。
賭けみたいな数字。
無謀に踏み込んだ境界線。
その狭い場所に、自分は入った。
医師は続ける。
「もちろん、これからリハビリも経過観察も必要です。
ですがあなたは、生きています」
あまりにもまっすぐな言葉だった。
生きています。
その事実が胸に落ちる。
笑おうとしたのに、顔がうまく動かない。
代わりに涙が溢れた。
声は出ない。
音も出ない。
ただ静かに、頬をつたって落ちる。
嗚咽もない。
静かな涙だった。
——帰れる。
——帰らなきゃ。
その瞬間、心の中で誰かの笑い声が浮かんだ。
賑やかな声。
しょうもない雑談。
ゲームの効果音。
笑い合う空気。
ドズル社の音。
帰りたい場所が、ちゃんと浮かぶ。
誰かに「おかえり」と言われる景色が、
ありありと、はっきりと、脳裏に浮かぶ。
それが嬉しくて、
そして、少し照れくさくて、
泣きながら笑った。
音のない笑い。
生きてる証拠だった。
帰国の日。
滑走路を歩く人々の気配。
アナウンスの声。
スーツケースの転がる音。
おんりーはひとりで立っていた。
マスクをつけ、フードを目深に被り、
キャリーケースを片手で引きながら。
人混みのざわめきの中にいても、
自分だけが透明みたいな感覚。
でも、それはもう怖くなかった。
体はまだ万全じゃない。
足取りも重い。
肺の奥には違和感が残る。
それでも、一歩進むたびに、
——帰ってる。
という実感がついてくる。
自動ドアが開くたびに風が肌を撫でる。
匂いが変わる。
知っている空気だった。
懐かしい国の湿気。
日本語のざわめき。
視界の隅に見える広告。
胸の奥に、ふっと灯がともる。
(……間に合った)
それだけでよかった。
スマホを取り出す。
電源を入れ、画面が光る。
通知は膨大だった。
メッセージ、電話、未読の嵐。
全部、指先が止まる。
開かない。
今、言わない。
——驚く顔が見たい。
わがままみたいな願い。
でも、それを叶える権利ぐらいは、
賭けの帰り道に持っていてもいいと思った。
タクシーの列に並ぶ。
空を見上げる。
雲がゆっくり流れている。
「……ただいま」
誰にも聞こえない声で呟いた。
それは自分自身に向けた言葉だった。
そしていま。
スタジオで、五人が泣いている。
「…死んでもいいなんて言うなよ…!」
「おんりーじゃなくてもいい、いてくれよ!」
怒鳴り声も、しゃくり上げる声も、全部愛しかった。
おんりーは首を横に振る。
「違う」
泣きながら、はっきり言った。
「死んでもいいと思ったんじゃない」
喉が震える。涙が落ちる。
「みんなと喋れないのが嫌だった」
静寂。
「それが一番怖かった」
死が怖くなかったわけじゃない。
でも、
「声を失って別人になる方が怖かった」
だから選んだ。
だから一人泣いた。
だから帰ってきた。
これからの人生は、保証されていない。
再発の可能性もある。
声が完全には戻らない日もある。
不安が突然胸を締めつける夜もある。
それでも決めた。
おんりーは笑う。
噛んで、茶化されて、突っ込まれて、笑う。
また叱られて、また褒められて、
また一緒に机を囲んで、また動画を作る。
これからの人生は、
「命を賭けても残したかった“居場所”で生き続ける人生」
泣きながら、それでも前を向く。
涙の向こうに、仲間の顔がある。
未来は怖い。
でももう一人じゃない。
「…俺、またうるさいくらい喋るよ」
笑って言う。
「うざいって言われるくらいまで」
泣き笑いが返ってくる。
そして五人は、前を向いた。
失うことを知って、取り戻して、それでも選んだ。
——ドズル社として、生きていく。
◇まとめ
今日も、いつも通りだった。
噛んで、笑われて、笑い返して。
台本を落として拾おうとして椅子に足をぶつけて、
ちょっと痛がるふりをして笑いを取って。
「はいはい」って言いながら編集の修正を頼まれて、
でも内心は嬉しくて。
みんなの声が飛び交って、モニターが光って、
当たり前みたいに俺はそこにいた。
喋って、ふざけて、呼吸するみたいに笑って。
俺の中では、それが「生きる」とほとんど同じ意味だった。
だから最初は、喉に違和感が出たときも、正直、あまり気にしてなかった。
少しくらい声が枯れることなんてあるし、職業柄当たり前だって思ってた。
でも、違和感は消えなかった。
声が引っかかる感じ。
身体の奥が、鈍く重い感じ。
それで病院に行った。
白い部屋で、医者が静かに説明する声を聞いている間、俺はずっと自分の両手を見ていた。
話の内容は理解できるのに、頭と心が別々の方向を向いてる感じだった。
「この病気は、進行すると声が出なくなり、体の自由が効かなくなります」
その一言で、世界が急に遠くなった。
声が出なくなるかもしれない。
喋れなくなるかもしれない。
動けなくなるかもしれない。
誰かに怒られることも、茶化されることも、
配信で視聴者と笑い合うことも、
大事な場面で噛んで突っ込まれるのも、
全部、声があって成立してたんだ。
その声が奪われるかもしれない。
死ぬかもしれないより先に、それが怖かった。
その先の説明もあった。
いくつかの選択肢。
治療の話。
助かる可能性と、失う可能性。
数字が口から出た瞬間、心臓が強く鳴った。
——二割。
治る可能性。
裏返すと、
治らない可能性も、命を落とす可能性もあるということ。
でも俺の頭の中には一つしか残らなかった。
「声がなくなる未来」と「賭けに出る未来」。
家族には仕事だと言って笑って説明した。
メンバーの前では、いつも通りふざけた。
崩れたのは、ひとりの夜だった。
誰もいない部屋で、声を出さないように泣いた。
枕を抱えて、目を真っ赤にして、それでも朝になればケロっとした顔を作った。
俺は強くなんかない。
ただ、見せたくなかっただけだ。
ひとつだけ、はっきりしていた。
喋れない俺は、もう「俺」じゃない。
噛んで、笑って、叩かれて、突っ込まれて、
「あーもう!」って言われながらまた悪ノリして、
それを見てくれる人がいて。
その中で喋っている俺が、「おんりー」だった。
声を失って別の存在として残るより、
俺は、ドズル社のおんりーとして終わりたいと思った。
死にたいわけじゃなかった。
ただ、
「おんりーじゃなくなるのが怖かった」。
だから決めた。
治る可能性があるなら賭けに行く。
その先に何があるかはわからなくても。
笑ってる俺のままでいられなくなるくらいなら、
舞台の上の俺として終わる覚悟で、前に進む。
震える手を膝の上で握りしめて、俺は心の中でゆっくり言った。
——いこう。
怖かった。
吐き気がするくらい怖かった。
本当は全部投げ出したかった。
でも、みんなの前では笑った。
それが癖みたいに、自然にできた。
俺は明るいままでいる。
最後まで笑ってる。
みんなの前では、絶対に崩れない。
それが、俺にできる俺にとって最善の方法。
仲間と会えなくなることが、一番怖かった。
“ただいま”に、”おかえり”が返されることだけを望んだんだ。
以上で完結となります。
リクエストくださいお願いします!
案が…浮かばないんです!!
このノベルの案をください!!!!
よければ、ハートコメントよろしくお願いします!
改めてフォロワー300人ありがとうございます!
それでは、また
コメント
10件

まじ泣いた明日浮腫むの確定

えぐ好きまじ好き 泣きそうになった。頑張って耐えた
ハッピーエンドでよかったぁぁ 帰ってきてくれてよかった、 そして、うますぎてびっくりしました