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意識にかかった灰色の薄絹の向こうで啜り泣きに似た呻き声が聞こえている。その声に手を取られて誘い出されるようにグリュエーは夢のない眠りから目覚める。とても深い泥沼の底のような眠りについていた。ささやかだが不快な圧迫感と温かさに満たない温もり。逃れるように起き上がろうとし、指先まで一切動かないことに気づき、混乱と恐怖で急き立てられるようにして完全に覚醒する。
視界一杯に真っ白な糸が縦横に張られている。その糸があちらこちらに幾何学模様を形成している。蜘蛛の巣だ。
その蜘蛛の巣が張り巡らされているのは石造りの建物のようだ。何となく見覚えのある広間だ。救済機構に攫われる前に何度か訪れたのかもしれない。シシュミス教団の神殿、モルド城のどこかの一室だ。しかし全てが斜めになっている。床は壁になっており、柱は大きく傾いている。城が丸ごと引っ繰り返っているのだ。元が何だったのか分からない家具や調度品の残骸が散らばっており、いくらかは蜘蛛の巣に引っかかっている。
グリュエーもまた粘着性のある強靭な糸に囚われており、他にも囚われている者たちがいる。目の前にいるユカリの名を叫びたかったが口も覆われている。レモニカはユカリのそばで横向きに吊るされており、少し離れた所にユカリの義母ジニが縮こまるような体勢で揺れていた。視界の端にも誰かいるが、首も動かせないのでよく見えない。視界外の息遣いや身動きする物音からして、どうやら旅の仲間の全員がこの場に囚われているようだ。
ユカリは気を失っていた。糸の轡の奥で熱にうなされる子供のような浅く速い呼吸を繰り返している。仮に目を覚ましていたとしてもベルニージュやジニ、おそらくカーサも口を閉ざされて呪文を唱えられずにいるのだ。そしてソラマリアの膂力でも蜘蛛の糸を引き千切ることはできないらしい。
つまり魂だけ脱出できる自分こそが鍵なのだ、とグリュエーは理解する。心の内で念じた魂の形を二分割し、代謝を維持できる最低限の魂を体に残して、風に魂を移す。当然ハーミュラーも想定済みのはずだが、魂を拘束する方法はまだ見つけていないようだ。
風のグリュエーは風の感覚で部屋の中の状況を把握する。やはり全員がいて、一人残らず強靭かつ柔軟な糸に拘束されている。誰も自力では逃れられそうにない。風の力ではせいぜい蜘蛛の巣を揺するくらいしかできず、誰も助けられはしない。
ユカリのか細い呻き声を聞き、注意を向けるとまだ意識を失っているが、睫毛の間から微かに涙を流していた。悪い夢を見ているようだ。
「みんな、待ってて。すぐに助け出すから」と言い残して、グリュエーは広間を吹き出て行く。
自身の力では皆を解放できない以上、助けがいる。グリュエーは必死に考えながら斜めになったモルド城の中を吹き抜けていく。とても強くて、助けてくれそうな人が必要だ。
当てはまる二人の人物が思いつく。一人は不滅公ラーガだ。当人の強さは噂でしか知らないが、レモニカが捕まっていることを教えれば戦士たちを率いて乗り込んでくれるはずだ。
もう一人はチェスタだ。そもそもグリュエーを追ってクヴラフワにやって来たのだ。諦めて帰るような男ではないはずだ、とグリュエーには妙な確信があった。
傾いた柱廊を吹き抜け、歪な正面玄関から苔生した池のようなビアーミナ市上空へと吹き出る。どこを支えにしているのか分からないが、空中に張られた蜘蛛の巣に現クヴラフワの中枢たるモルド城は絡め取られていた。少なくとも幾本かはモルド城を支える柱かのように地上から伸びている。
地上では争いが起きていた。街のあちこちで火の手が上がり、黒い煙が立ち昇っている。街路のあちこちで黒々とした巨大な蜘蛛が群れになって、救済機構の僧兵や大王国の戦士に襲い掛かっていた。蜘蛛は緑の光を目に灯している。全て克服者だ。
グリュエーは一陣の風となって怪物の跋扈する戦場を吹き抜ける。凶暴な大王国の戦士も凶悪な救済機構の僧兵も今は一丸となってハーミュラーの生み出した怪物と戦っていた。全ては二か国の撒いた種だが。
僧兵の集う戦域へと吹き寄せると、黒々とした集団の中に、風に翻る派手な炎の赤く煌めく刺繍を縫い付けた衣を見出した。今は護女を狩るチェスタの猟犬と成り果てた加護官たちだ。
その中にチェスタの姿を見出すと、グリュエーは真っすぐに、印象の残らない幻影の目許と憎たらしい微笑みに吹き付ける。
巨大蜘蛛の頭を踏み潰していたチェスタははっと顔をあげる。「妙な風ですね。護女エーミですか?」
「チェスタの察しが良くて助かるのは初めてだね」とグリュエーはチェスタの頭上で渦巻く。
「体はどこにあるのですか? 大事にしてくださいよ。大切な聖女候補なのですから」
突き飛ばしてやりたい気持ちを抑えてチェスタの幻の髪を滅茶苦茶にしようと吹き付けるが手応えはなかった。
「モルド城の中だよ。ハーミュラーに捕まったんだ。助けてくれるよね?」
チェスタの微笑みが一層邪悪さを増した気がした。
「助けを求めるならまずお友達では? なぜ私のところへ来たのですか?」
「もちろん。だけどみんなが見つからないんだよ」とグリュエーは嘘をつく。
ユカリたちが本体のそばにいるからといってチェスタがグリュエーを助けるのを止めるとも思えないが、下手に警戒されても困る。しかし無理のある嘘だったかもしれない。チェスタはまるで目に見えるかのように風のグリュエーを見つめながら何事かを考えている。
グリュエーは辛抱強く返事を待つ。
「まあ、良いでしょう。魂だけ連れ帰るわけにもいきませんし」
魂だけ連れ帰ることが可能かのような言い方だ。しかしグリュエーは怯まない。
グリュエーは少しでもモルド城へと急ぐため、チェスタのために露払いをする。強烈な突風となってビアーミナ市の路地を吹き抜け、狂乱状態の羊の群れのように押し寄せてくる八本脚の毛むくじゃらを押しのけて行く。チェスタと僧兵たちが開かれた道を後に続く。
チェスタたちは地上から伸びている蜘蛛の糸を束ねた柱の一つを見つけると這い上っていく。魔術を駆使し、粘着性の蜘蛛の糸に自由を奪われることなく空高く浮いているモルド城まで上っていける者は少数だった。しかし元首席焚書官チェスタはまるで自身の巣を行き交う蜘蛛のように難なく空を這い上っている。
元々グリュエーは風の力でチェスタをモルド城まで運んでいくつもりでいたが、チェスタには助けなど必要なかった。代わりにグリュエーは殿を務め、追ってくる蜘蛛を払い落す。
チェスタが他の僧兵たちに先んじて、斜めになって空に浮くモルド城にたどりつくと、グリュエーは再びチェスタを案内するように崩れた廊下と下りて行く上りの階段と狭くなった広間を次々に吹き抜ける。
そうして七人の囚われ人がいる広間へと戻ってきた。チェスタは魔術で跳躍し、広間の扉を蹴り破ると素早く状況を確認した。
「それで? あなたはどこですか? グリュエー」
グリュエーも混乱し、確かめるように広間を二周する。グリュエーの体が消え失せていた。そうして初めて本体の離れていく微かな気配に気づいた。