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第四話 君が残した、最後の七日間
その本は、不思議なほど軽かった。
あっきぃの名前が書かれた表紙には、傷ひとつなかった。
紙は新しく、角も折れていない。けれど、ぷりっつがページを開くと、そこには何年も前から書きためられていたような、古いインクの匂いがした。
最初のページに書かれた文章を、ぷりっつはもう一度読み返した。
『僕がいなくなったのは、ぷーのすけを、忘れたくなかったからです。』
意味がわからなかった。
忘れたくないなら、そばにいればよかった。
忘れたくないなら、何も言わずに消えたりしなければよかった。
忘れたくないなら。
自分がどれだけ探すことになるか、少しでも想像してくれたらよかったのに。
「……なんやねん、それ」
声にした途端、喉の奥が詰まった。
「意味、わからんやろ……」
怒りたかった。
あっきぃの身勝手さを責めたかった。
7年という時間を、どれだけの思いで探し続けたと思っているのかと、目の前に本人がいたら、胸ぐらを掴んででも言ってやりたかった。
けれど、目の前にいるのは、あっきぃではなかった。
あっきぃが残した、たった一冊の本だった。
指先で文字をなぞる。
少し丸くて、ところどころ線が跳ねる文字。
何度も見てきた字だった。
買い物のメモにも、店の帳簿にも、冷蔵庫に貼られた夕飯の予定にも、いつもこの文字があった。
その文字を見るたび、あっきぃがそこにいるような気がした。
だから、ページをめくった。
あっきぃが何を考えていたのか。
何を知っていたのか。
どうして、自分を置いていかなければならなかったのか。
その理由を知ることが、今の自分にできる、たったひとつのことだった。
*
『十月二十四日。
今日は、ぷーのすけが朝から機嫌悪かった。
理由は、俺がコーヒーに砂糖を入れたから。
でも、ぷーのすけは本当は甘いものが好きだと思う。だって、この前、俺が買ってきたプリンを勝手に食べてたし。
問い詰めたら「賞味期限が近かったから」って言ってたけど、あれ、絶対うそ。
俺のプリンだったのに。
今度、倍の値段のプリンを買ってもらおうと思う。
あと、今日、店に変な鍵が届いた。
古い鍵で、持ち手に見たことのない模様がついてた。
ぷーのすけは気にしてなかったけど、俺は、あれを見たとき、なんだか嫌な感じがした。
どうしてだろう。
前にも、あの模様を見たことがある気がする。
思い出せないけど。』
ページをめくる手を止めた。
十月二十四日。
あの鍵が届いた日。
あっきぃは、何かを感じ取ってたのだ。
あのとき、自分に何か言ってくれれば。
そう思ったけれど、すぐに、その考えを打ち消した。
あっきぃは、きっと言えなかったのだ。
言えば、自分まで巻き込まれると、わかっていたのかもしれない。
ぷりっつは、続きを読んだ。
『十月二十五日。
夢を見た。
知らない駅に立ってた。
ホームには誰もいなくて、時計は全部、午前0時を指してた。
向こうから、古い列車が来た。
乗ってた人たちは、みんな顔がぼんやりしてて、誰も俺のことを見なかった。
ただ、1人だけだけ。
列車の窓際に、ぷーのすけが座ってた。
俺は、必死に走った。
名前を呼んだ。
手を伸ばした。
でも、ぷーのすけは、俺のことを見てくれなかった。
列車は、そのまま行っちゃった。
目が覚めたら、泣いてた。
夢でよかったと思った。
でも、どうしてだろう。
起きてからも、ずっと怖い。
ぷーのすけが、俺のことを忘れちゃう夢。
そんなの、絶対に嫌だ。
俺は、ぷーのすけのことを忘れたくない。』
ゆっくりと息を吐く。
夢。
あっきぃは、あの駅を夢で見ていた。
自分が今いる場所を。
そして、そこにいる自分の姿を。
けれど、夢の中のぷりっつは、あっきぃを見てくれなかった。
それは、いったい何を意味していたのだろう。
続きを読み進める。
『十月二十六日。
今日は、ぷーのすけと買い物に行った。
帰り道、スーパーの袋が破れちゃって、卵が1つ割れちゃった。
ぷーのすけは「お前、ほんま何してんねん」って笑ってた。
俺も笑った。
すごく楽しかった。
こんな日が、ずっと続けばいいのに。
……なんて。
変なこと、書いちゃった。
明日も明後日も、ずっと一緒にいられるのにね。
俺、何を心配してるんだろう。』
ぷりっつは、目を閉じた。
その日のことを、覚えていた。
卵が割れたのは、あっきぃが袋を持つ手を、途中で持ち替えたからだった。
重いから代わると言ったのに、あっきぃは大丈夫だと笑って、結局、歩道の段差に足を取られた。
帰り道、二人で笑った。
夕飯は、卵を使う予定だったけどほぼ割れちゃったから結局料理を変更したんだ。
あっきぃは、自分が失敗したせいで予定が変わったことを気にしていたけれど、ぷりっつは、そんなことはどうでもよかった。
ただ、二人で食べる夕飯があればよかった。
それだけだった。
何でもない一日。
その一日が、今は、どうしようもなく遠い。
「……あほやなぁ」
かすれた声で笑う。
「心配せんでええのに……」
ずっと一緒にいるつもりだった。
あっきぃがいなくなるなんて、考えたこともなかった。
だからこそ、何も言わなかった。
いつか伝えればいいと思っていた。
好きだと。
お前が隣にいることが、どれだけ自分にとって大切なのか。
お前がいなくなったら、自分はどうなってしまうのか。
そんなことを、いつか、ちゃんと伝えればいいと思っていた。
その「いつか」が来ることを、疑っていなかった。
目を開ける。
そして、ページをめくった。
『十月二十七日。
今日、店の裏の倉庫に行った。
あの扉が、あった。
夢で見たのと同じ扉だった。
最初は、気のせいだと思った。
でも、扉に触れた瞬間、一部だけど思い出した。
俺は、前にも、あそこへ行ったことがある。
小さい頃。
まだ、この町に来る前。
俺は、あの駅にいた。
誰かと一緒にいた。
でも、その人の顔が思い出せない。
名前も、声も、何もかも。
ただ、少しだけ覚えてる。
俺は、誰かと約束したんだ。
絶対に忘れないって。
何があっても、忘れないって。
なのに、俺は、その人のことを忘れちゃった。
どうしてだろう。
どうして、忘れちゃったんだろう。』
思わず本を閉じかけた。
けれど、指が止まった。
あっきぃは、子どもの頃に、あの駅へ行ったことがある。
誰かと一緒に。
そして、その人のことを忘れてしまった。
あの駅は、忘れものを預かる場所。
物だけではない。
記憶も。
約束も。
人の存在さえも。
震える指で、次のページを開いた。
『十月二十八日。
駅員さんに会った。
夢の中で会った人と同じだった。
駅員さんは、俺に言った。
「あなたは、忘れられることを選ばなければなりません」って。
意味がわからなかった。
どうして、俺が忘れられなきゃいけないの。
どうして、俺がいなくならなきゃいけないの。
駅員さんは、何も答えてくれなかった。
ただ、1つだけ、教えてくれた。
この町には、忘れられたものを預かる場所がある。
そこには、誰かが忘れたものだけじゃなくて、誰かが忘れなければならなかったものも、保管されている。
そして、その場所にあるものは、いつか、持ち主のところへ戻らなければならない。
戻らなければ、世界が壊れてしまう。
……どういうこと?
俺、何か悪いことをしたのかな。
俺が、何かを忘れてちゃったから?
俺が、誰かとの約束を破っちゃったから?
わからない。
でも、はっきりしてることはある。
ぷーのすけだけは、巻き込みたくない。』
呼吸が浅くなった。
巻き込みたくない。
その言葉が、胸の奥に突き刺さった。
あっきぃは、知っていたのだ。
自分がいなくなれば、ぷりっつが傷つくことを。
それでも、あっきぃは、何も言わなかった。
何も言わずに、ひとりで抱え込んだ。
「……なんでやねん」
ぷりっつは、声を絞り出した。
「なんで、俺に言わんかったんや……」
言ってくれればよかった。
一緒に考えたかった。
一緒に悩みたかった。
どんなに難しいことでも、どんなに怖いことでも、あっきぃと一緒なら、何とかできる気がしていた。
それなのに。
あっきぃは、自分を守るために、自分を置いていった。
その優しさが、今は、何よりも苦しかった。
ぷりっつは、目元を押さえた。
泣くつもりはなかった。
まだ、何もわかっていない。
まだ、あっきぃに会えていない。
こんなところで泣いている場合ではない。
そう思うのに、涙は止まらなかった。
あっきぃが、ひとりで怖がっていたこと。
ひとりで悩んでいたこと。
そして、そんなときでさえ、自分のことを考えてくれていたこと。
それを知ってしまったら、もう、怒ることさえできなかった。
ただ、会いたかった。
もう一度、顔を見たかった。
そして、言いたかった。
何も言わずにいなくならんといてくれ、と。
俺にも、お前を守らせてくれ、と。
お前が怖いなら、一緒に怖がらせてくれ、と。
「……あっきぃ」
涙で滲んだページを見つめた。
「……俺、お前のこと、何も知らんかったんやな」
その声は、誰にも届かなかった。
けれど、あっきぃが残した本だけは、静かにそこにあった。
*
そのとき、背後で足音がした。
「……お客様」
駅員の老人だった。
ぷりっつは慌てて涙を拭い、本を閉じた。
「……何や」
「お読みになりましたか」
「……ああ」
「その方が、何を選ばれたのか、おわかりになりましたか」
首を横に振った。
「……まだや」
老人は、静かに頷いた。
「そうでございますか」
「なあ、駅員さん」
「はい」
「……あいつ、まだ生きとるんか」
その問いに、老人はすぐには答えなかった。
ランタンの光が、古い本棚を照らしている。
長い沈黙のあと、老人は、ゆっくりと口を開いた。
「この駅にたどり着いた方が、必ずしも亡くなっているわけではございません」
ぷりっつは顔を上げた。
「……ほんまか」
「はい。ただし、こちらの世界に長く留まるほど、元の世界とのつながりは薄れていきます」
「……つながり?」
「人は、誰かに覚えられていることで、世界の中に存在し続けることがございます。名前を呼ばれること。思い出してもらうこと。誰かの心に、自分がいた証が残っていること。それらが、こちらとあちらをつなぐ糸になるのです」
ぷりっつは、マフラーを握りしめた。
「……ほな、俺が覚えとったら、あいつは帰ってこられるんか」
老人は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「それだけでは、足りません」
ぷりっつの胸が、冷たくなった。
「……何が足りへんねん」
「その方が、帰りたいと願わなければなりません」
ぷりっつは、言葉を失った。
帰りたいと願う。
あっきぃは、帰りたいと思っているのだろうか。
自分のところへ。
あの店へ。
あの町へ。
7年後も隣にいると約束した、自分のところへ。
それとも。
もう、帰ることを諦めてしまったのだろうか。
「……あいつは、帰ってきたがっとる」
ぷりっつは、強く言った。
「絶対、帰ってきたがっとるわ」
それは、願いだった。
確信などなかった。
あっきぃの気持ちを、何ひとつ確かめられていないのだから。
それでも、信じたかった。
あっきぃが、あの店を忘れていないこと。
自分のことを、忘れていないこと。
7年後の約束を、まだ覚えていること。
「……俺が、連れて帰る」
本を胸に抱いた。
「帰りたくない言うても、ちゃんと話聞く。怒るし、文句も言う。なんで何も言わんかったんか、全部聞いたる」
そこで、声が少しだけ掠れた。
「……せやから、帰ってきてほしいねん」
老人は、何も言わなかった。
ただ、ぷりっつの手元にある本を見つめていた。
その目には、長い年月を見てきた者だけが持つ、深い悲しみが浮かんでいた。
「……お客様」
「何や」
「どうか、お忘れにならないでください」
老人は、静かに頭を下げた。
「その方が、どのような選択をされたとしても。どうか、その方が確かに生きていたことを、お忘れにならないでください」
その言葉に唇を噛んだ。
「……忘れるわけないやろ」
それは、怒りに近い声だった。
「何回言わせんねん。俺は、絶対に忘れへん」
老人は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、ほんの少しだけ、微笑んだ。
「……そうでございますか」
その笑顔が、なぜか、ぷりっつにはひどく寂しいものに見えた。
*
記録の本には、まだ続きがあった。
十月二十九日。
『今日は、ぷーのすけと一緒に夕飯を食べた。
何も知らないぷーのすけは、いつもどおりだった。
くだらない話をして、笑って、明日の予定を決めて。
俺は、その時間が終わるのが怖かった。
このまま何も言わずにいれば、明日も同じ一日が来る。
明後日も。
来年も。
そう思いたかった。
でも、もう、わかっている。
俺は、いなくならなきゃいけない。
俺がいなくならなければ、ぷーのすけが、あの場所に連れてかれちゃう。
あの駅に。
忘れものたちが、最後にたどり着く場所に。
俺は、ぷーのすけを、あんなところへ行かせたくない。
ぷーのすけには、普通に生きていてほしい。
普通に朝起きて、仕事をして、夕飯を食べて、眠って。
何年かしたら、誰かと出会って、好きになって、幸せになって。
俺のことなんか、忘れちゃってもいい。
……うそ。
やっぱり、忘れないでほしい。
忘れられたくない。
俺、わがままだね。
ぷーのすけの幸せを願ってるのに、俺のことも覚えててほしいなんて。
でも、どうしても、忘れられたくない。
ぷーのすけ中に、俺がいたことを、残しておきたい。
俺が、ぷりっつを好きだったことを。
ぷーのすけと過ごした時間が、俺にとって、世界でいちばん大切だったことを。
どうか、忘れないで。』
思わずページを握りしめる。
視界が滲んだ。
もう、文字が読めなかった。
好きだったことを。
自分と過ごした時間が、世界でいちばん大切だったことを。
忘れないで。
あっきぃは、そんなことを思いながら、最後の一日を過ごしていたのだ。
自分の隣で笑いながら。
いつもどおりに、朝食を作りながら。
7年後の約束を、楽しそうに話しながら。
もう、いなくなることが決まっていたのに。
もう、帰ってこられないかもしれないと、知っていたのに。
「……っ、あっきぃ……」
とうとう、本を閉じてしまった。
これ以上、読めなかった。
これ以上、あっきぃの気持ちを知ってしまったら、もう、自分は立ち上がれなくなる気がした。
あっきぃは、ひとりで決めたのだ。
自分を守るために。
自分が、普通に生きていけるように。
そのために、自分の存在を、世界から消そうとした。
けれど、ぷりっつには、そんなことを望んだ覚えはなかった。
あっきぃがいなくなってからの7年間。
普通に生きていたつもりだった。
朝起きて、仕事をして、夕飯を食べて、眠って。
けれど、どこにも、あっきぃがいなかった。
あっきぃのいない朝は、静かすぎた。
あっきぃのいない店は、広すぎた。
あっきぃのいない夕飯は、味がしなかった。
あっきぃのいない未来を、何度も想像した。
けれど、そのたびに、途中で考えるのをやめた。
そんな未来を、受け入れたくなかったからだ。
それなのに、あっきぃは、自分のために、その未来を選んだのだ。
「……勝手に、決めんなや……」
「……俺の幸せ、勝手に決めんなや……」
涙が、止まらなかった。
「……俺、お前がおらんかったら、幸せちゃうねん……」
言ってしまった。
誰もいない部屋で。
あっきぃに聞こえるはずもない場所で。
7年間、伝えられなかった言葉を、ようやく口にした。
「……お前がおらんかったら、何の意味もないねん……」
その瞬間だった。
閉じた本の中から、かすかな音がした。
紙が擦れるような、小さな音。
顔を上げると 本の表紙が、ひとりでに開いていた。
最後のページに、文字が浮かび上がっている。
それは、さっきまでなかった文字だった。
『十月三十日。
明日、ぷーのすけと約束した場所に行く。
最後に、もう一度だけ、隣にいたい。
7年後も一緒にいるって約束したのに、守れなくてごめんなさい。
でも、もし、いつか。
もし、何年も先に。
ぷーのすけが、俺のことを探しに来てくれるなら。
そのときは、どうか、俺を見つけてください。
俺は、きっと、忘れちゃってるから。
ぷーのすけのことも。
この町のことも。
一緒に過ごした時間も。
全部、忘れちゃってるから。
それでも。
それでも、もし。
ぷーのすけが、俺を見つけてくれたなら。
どうか、もう一度、俺の名前を呼んでくれるかな。
俺が、誰だったのか。
俺が、誰を好きだったのか。
教えてくれない?
俺は、きっと、もう一度、ぷりっつを好きになるから。』
息をするのも忘れて、その文章を見つめていた。
最後の一行を、何度も読み返した。
俺は、きっと、もう一度、ぷりっつを好きになるから。
あっきぃは、自分を忘れてしまうことを、知っていた。
自分が誰だったのか。
誰を好きだったのか。
そのすべてを、忘れてしまうことを。
それでも、あっきぃは、願っていた。
いつか、ぷりっつが自分を見つけてくれることを。
もう一度、名前を呼んでくれることを。
そして、もう一度、好きになれることを。
「……あっきぃ」
震える手でページを閉じた。
今度は、涙を拭かなかった。
頬を伝う涙が、顎から落ち、服を濡らしていく。
それでも、構わなかった。
あっきぃが、自分を忘れてしまってもいい。
自分の顔を覚えていなくてもいい。
名前も、声も、何もかも忘れてしまっていても。
それでも。
もう一度、出会えるのなら。
もう一度、名前を呼べるのなら。
もう一度、好きになってもらえるのなら。
何度だって、探しに行く。
何年かかっても。
どれだけ遠くても。
たとえ、あっきぃが自分のことを、まったく知らない人間として見つめたとしても。
その目を見て、もう一度、好きになってもらえるまで。
何度でも。
「……待っとれよ」
本を胸に抱いた。
「……今度こそ、俺がお前を見つけたる」
その言葉に応えるように、遠くで、列車の汽笛が鳴った。
駅舎の時計が、一斉に動き始める。
午前零時を指していた針が、ゆっくりと、ひとつだけ進んだ。
十二時一分。
たった一分。
けれど、7年間、止まっていた時間が、初めて動いた瞬間だった。
*
その頃。
忘却駅から、ずっと遠く離れた場所に、小さな部屋があった。
窓の外には、見知らぬ街の灯りが広がっている。
部屋の中には、机とベッドと、古い木製の椅子がひとつ。
机の上には、真新しいノートが置かれていた。
そのノートの最初のページには、こう書かれていた。
『俺の名前は、あっきぃ。』
その下には、何度も書き直した跡が残っていた。
『好きな食べ物は、わからない。』
『好きな場所は、わからない。』
『大切な人は、わからない。』
そして、最後に。
『でも、どうしてか、忘れられないものがある。』
その文字の下には、青いマフラーの絵が描かれていた。
不器用な線で、何度も何度も描き直されたマフラー。
その絵の隣には、小さな文字が添えられていた。
『誰かが、これを持ってた気がする。』
あっきぃは、椅子に座り、そのノートを見つめていた。
自分が誰なのか、よくわからない。
どうして、ここにいるのかも。
どこから来たのかも。
何をしていたのかも。
思い出そうとすると、頭の奥が痛くなる。
それでも、時折、夢を見る。
誰かが、自分の名前を呼んでいる夢。
誰かが、自分の隣で笑っている夢。
誰かが、泣きながら、自分の手を握っている夢。
その人の顔は、いつも見えない。
けれど、声だけは、ハッキリと聞こえる。
低くて、少し掠れていて。
怒ったような声なのに、どこか優しくて。
その声を聞くたび、どうしようもなく泣きたくなる。
「……誰、なんだろう」
ノートの端を指でなぞった。
そのとき、机の引き出しから、かすかな音がした。
開けてみると、中には、小さな封筒が入っていた。
宛名はない。
差出人もない。
ただ、封筒の表に、ひとつだけ、文字が書かれていた。
『十月三十一日まで、開けないこと。』
その封筒を見つめた。
どうして、こんなものを持っているのか。
誰が、これを置いたのか。
何も思い出せない。
それでも、封筒を手に取った瞬間、胸の奥が、ひどく痛んだ。
まるで、大切な誰かを裏切ってしまったような。
取り返しのつかないことをしてしまったような。
そんな気がした。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉なのかもわからないまま、あっきぃは呟いた。
窓の外では、街の灯りが、静かに瞬いていた。
その夜、あっきぃは、また夢を見た。
夢の中で、誰かが自分の手を握っていた。
温かい手だった。
離れないように、必死に握りしめてくれている手だった。
そして、その人が、泣きながら言った。
『……忘れるわけないやろ』
その言葉を聞いた直後に目を覚ます。
頬が濡れていた。
自分が泣いていることに、しばらく気づかなかった。
それから、胸元を押さえ、何度も何度も、同じ言葉を繰り返した。
「……ぷりっつ」
なぜ、その名前が口から出てきたのか。
わからなかった。
ただ、その名前を口にした瞬間、胸の奥に、ほんの少しだけ、温かいものが戻ってきた気がした。
泣きながら、もう一度、その名前を呼んだ。
「……ぷりっつ」
その声は、誰にも届かなかった。
けれど、遠い忘却駅の地下で。
あっきぃの記録を抱きしめていたぷりっつの胸ポケットに入った紙片が、かすかに光った。
そこには、あっきぃの文字で、こう書かれていた。
『ぷーのすけが、僕を忘れませんように。』
コメント
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涙が止まらなかった……「忘れたくないから消えた」って、あっきぃの不器用すぎる愛し方が切なすぎます。日記に綴られた何気ない日常のひとつひとつが、もう戻れない時間で、でもぷりっつが「俺が連れて帰る」って言ったとき、本気でそうなってほしいと思いました。あっきぃが忘れても、また好きになるって書いてあったのが、どんな救いより強くて……本当に、会わせてあげてほしいです。
@ きみ以外なんて選ばないよ
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