花吐き病×ルールシェア「この部屋で、咲いた花」 ~d×n~
Side翔太
朝の光が、レースのカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。
目覚ましが鳴る前に目が覚める。眠ったはずなのに、身体はまだ眠っているような重たさが残っていた。まぶたの裏がじんわり熱を帯びているのは、昨日の照明か、それとも寝不足のせいか。
薄暗い部屋。
スーツケースが開いたまま、床に広がっていた。
衣装、スニーカー、未開封の台本。中途半端な生活感が、日々の慌ただしさを物語っている。
それでも、心のどこかには、じんと温かいものがあった。
——嬉しかった。
どの現場でも名前を呼ばれる。
街でふと視線を感じるようになった。
バラエティ、雑誌、ドラマの端役。どれも「もっと見たい」と言ってもらえるたび、肩の荷が軽くなる気がした。
自分が、自分のままで誰かの記憶に残るなんて。
ほんの少し前まで夢でしかなかったことが、今は日常になりつつある。
「ありがたいな……」
呟いた声が部屋に溶ける。
その声に応えるように、キッチンの冷蔵庫が控えめな音を立てた。
けれど、喜びの影には疲労が静かに積もっていた。
昨日の帰宅は深夜2時。
明け方まで台本を覚えて、数時間だけ仮眠。
今日は朝から収録、そのあと雑誌の取材、夜はスタジオリハ。
一つひとつに全力で向き合いたいのに、心が追いつかない瞬間がある。
誰かに「最近、元気そうだね」と言われるたび、
「うん」と笑うための力をどこから引き出せばいいのか、わからなくなる。
ベッドの端に座って、翔太はゆっくり息を吐いた。
それでも、戻りたくはなかった。
無名だった頃の、不安と焦りに溺れそうだったあの日々には。
「今の俺が、一番幸せなんだろうな」
カーテンの隙間から覗く空は、今日も晴れている。
ただその青さだけが、変わらずにそっと俺を包んでいた。
―――――――――
スタジオの控室に入った瞬間、ほっと息が漏れた。
この何日か、まともにメンバー全員の顔を見てなかった。グループで活動してるのに、仕事が細かく分かれてる今は、それが当たり前みたいになってる。
「おっ、久々じゃん! 全員集合っていつぶり?」
一番に入ってきたのは康二。相変わらず明るくて、でも目の下には少しクマ。多分、俺と同じくらい眠れてないんだろうなって思った。
「この前はラウールとふっかさんと一緒だったけど……俺、しょっぴーと会うの1週間ぶりくらいかも」
目黒が差し入れの袋を机に置きながら静かに言った。今一番忙しいだろうけど、ちゃんとメンバーのこと見てるのが伝わってくる。
「ねえ、もう俺さ、みんなの顔見たら泣きそうなんだけど。誰かハグしてよ〜!」
ソファに倒れ込んだ康二が甘えるように言う。佐久間の肩にぐいっと頭を乗せて、しっかりくつろいでる。
「お前、それ毎回言ってるよな」
涼太が苦笑しながらツッコむけど、表情はどこか優しい。何だかんだで甘えるのを許すタイプなんだよな。
「でもほんま、こうやって全員揃うと安心するな〜。なんか、”ああ戻ってきた”って感じ」
康二の言葉に、うんうんと何人かが頷いた。
俺もマスクを外して、息を吸い込んだ。
こんなふうに、ちゃんと呼吸できたのって久しぶりかもしれない。
「……顔見ただけで元気出るって、こういうことなんだな」
ぼそっと呟いたつもりだったけど、隣のラウールがふっと笑った。
「わかるよしょっぴー。俺も、なんかホッとする」
「もういっそ合宿でもする? 全員で住もうよ」
佐久間が笑いながら言うと、阿部が首を横に振った。
「絶対寝不足になる。あと俺、部屋きれいじゃないと無理」
「でも翔太と舘様とか、ルームシェアしたらバランス取れそうじゃない?」
「え、なんで俺? 無理無理、俺めっちゃ夜型だから涼太に怒られる未来しか見えない」
「それ知ってる。翔太のLINE、だいたい3時とかに来るし」
照のツッコミが飛んできて、控室に笑い声が広がった。
なんてことない会話なのに、あたたかい。
ただそれだけで、疲れが少しだけ和らいだ気がした。
連日詰め込まれたスケジュール、台本、撮影、寝不足。
どこか置いていかれそうな焦りも、いつも背中にあった。
でも——
この場所に戻ってくると、
「俺、大丈夫だ」って思える。
「……やっぱ、このメンバーが一番だな」
そう思えたのは、ほんの一瞬だった。
――――――その翌日、昼過ぎ。
撮影終わりでくたくたになって帰ってきた俺を、玄関先で待っていたのは——
「渡辺さん、ごめんねぇ。もう次の人決めちゃったのよ」
ニコニコしながらも容赦なく放たれたその言葉に、時が止まった。
「……え?」
「契約更新、ほら。先月末までだったでしょう? お返事なかったから、てっきり引っ越すのかと思って」
頭の中が真っ白になった。
いや、そんな連絡、来てた? 来てないよな? え、来てた?
「……ちょ、ちょっと待ってもらっていいですか」
言いながら、玄関を閉めて部屋の中に駆け込む。
ダンボールの隅。机の引き出し。冷蔵庫の横の山。
とにかく手当たり次第に探す。焦ってるせいで、指先が震える。
そして、やっとのことで見つけた。
ポストに突っ込んだまま、忘れていたはがき。
「契約更新のお知らせ 在住確認書類 同封のこと」
——先月初めの日付が、無慈悲に赤く印刷されていた。
「あ゛〜〜〜……っ」
その場に崩れ落ちた。
ふざけてるわけじゃない、本当にただ忘れてただけなのに。
毎日がめまぐるしすぎて、寝るか働くかの繰り返しで、
“家のこと”なんて、まるで頭になかった。
汗が滲む額をぬぐう気力もない。
これからどうすればいいんだ、俺……。
目の前で、薄いはがきがふわりと落ちて、
床に咲くように静かに横たわった。
その文字だけが、やけにくっきりと見えた。
「——次の入居者が決まりました」
最悪だ。
家、なくなった。
―――――――――――
「……ってことで、俺、家なくなった」
控室のソファでぼそっと言った瞬間、数秒の沈黙が落ちた。
え? という間の抜けた顔をしていたのは佐久間。
その隣で、阿部ちゃんがぽかんと口を開け、目黒は一瞬だけ目を見開いた。
「え、マジで!?」
康二が真っ先に声を上げた。
「ドッキリとかじゃなくて? ほんまに?」と念押しされて、俺は小さくうなずいた。
「昨日さ、大家さん来てさ……もう次の人に決まっちゃったって」
「ヤバ! 翔太、ホームレスじゃん!」
佐久間が笑いながら茶化すと、目黒までそれに乗っかってくる。
「え、段ボールいる? 段ボールハウス作ろっか?」
「俺、毛布持ってくるわ。段ボールだけじゃ寒いやろ?」
「食料支援なら任せて。カップ麺ストックあるし!」
「いや、みんなマジでやめて。人の不幸で盛り上がらないで?」
ツッコミつつも、どこか救われる感覚があった。
本気で心配されるより、笑っていじられるくらいのほうが楽だ。たぶん、俺も。
……でも、さすがにこのままだと会話が完全に悪ノリになるな、って思ってた時だった。
「コラコラ、それくらいにしなさい」
柔らかくて、でもちゃんと通る声。
部屋の空気がすっと静まる。
舘様——涼太が、いつもの落ち着いた口調で笑いながらメンバーをなだめた。
「翔太も困ってるんだから、ふざけすぎないの。……で、どうするの? 次の住まい、もう探してる?」
「いや、これから……。引っ越す時間もあんまりないし、正直、けっこう焦ってる」
そう言うと、ラウールがぽつんと呟いた。
「じゃあ、舘さんの家にルームシェアってのはどう?」
その言葉に、全員が一瞬だけ固まった。
「え、俺んち?」
涼太が少し驚いたように眉を上げる。けれど、すぐにふわっと笑って、俺の方を見た。
「いいよ。翔太なら全然。うち、静かだし部屋も空いてるし」
「え、マジで……?」
思わず聞き返した俺に、涼太は軽くうなずいた。
「うん、気にしなくていいよ」
その瞬間、メンバーが「おー!」「ナイス提案!」「翔太、よかったな!」と口々に盛り上がり出したけど——
俺は、しばらく黙って考え込んだ。
(涼太の家……。確かに静かで綺麗だし、ルールもしっかりしてて暮らしやすいとは思う)
(……それに、気心は知れてる。小さい頃からずっと一緒にいて、何となくの呼吸もわかってる)
(けど、今の俺、あんまり余裕ないし。仕事で張りつめてる分、家では誰にも気を遣いたくないっていうのもあるし……)
少しだけ目を伏せて、ソファに深くもたれた。
周りはまだ笑ってたけど、心の奥で何かが揺れていた。
“涼太と一緒に住む”って、その言葉がなぜか妙に響いていた。
――――――――――
退去まで、ほんとうに時間がなかった。
スケジュールの隙間を縫って、なんとか荷物をまとめたのが昨夜。
今日は朝から、涼太が手伝いに来てくれることになっていた。
アパートのドアを開けた瞬間、「うわ、殺風景」と涼太がぽつり。
目の前には、段ボールが数個。部屋の隅には、雑に折りたたまれたハンガーラック。
「……マジで少ないな、翔太。これだけ?」
「うん。もういらない服とか全部捨てた。必要最低限」
「断捨離のプロだね」
笑いながら、段ボールのひとつを持ち上げた涼太が、ふと箱の中を覗き込んで言った。
「翔太、荷物少ない割に美顔器はちゃんと持ってきてるんだ」
「あ、当たり前でしょ。美容系なめちゃダメだから」
思わず真顔で言い返すと、涼太はククッと笑って首をかしげた。
「じゃあさ……一緒に住むんだから、たまには貸してくれたりする? 家賃代わりに」
「全然いーよ」
即答した自分に、涼太が少し驚いた顔をしてから、柔らかく笑った。
「……マジで? ありがとう。じゃあ、俺も翔太に何か返さなきゃだな」
「舘様の優雅な紅茶タイムとか?」
「いいね、それ。じゃあ今度、俺の特製ハーブティー淹れてあげる」
「やば、めっちゃ楽しみなんだけど」
段ボールを運びながら交わす何気ないやり取りが、妙に心地よかった。
家を失ったはずなのに、
新しい場所に向かうことが、こんなに軽やかに感じるのは——
隣にいるのが、涼太だからかもしれない。
「お邪魔しまーす……」
引っ越しの荷物を運び終え、ようやくひと段落。
涼太の部屋——今日から俺がしばらく暮らすことになる場所。
玄関から漂う落ち着いたアロマの香り。
きちんと整えられた靴箱の上には、シンプルな陶器の花瓶とティーカップの飾り。
なんていうか……らしいな、と思った。
リビングに足を踏み入れると、涼太がふっと笑った。
「翔太、紹介しとくね」
「ん?」
その視線の先をたどると、部屋の一角に置かれた白いケージ。
中には、小さなセキセイインコがちょこんと止まり木にとまっていた。
ふわふわの羽は、淡い黄色にパステルブルー、尾のあたりはうっすらピンクがかっていて——
……え、色、すご。
「ふふっ、“レインボーローズ”っていう名前。可愛がってね」
「レインボーローズ……」
一瞬言葉に詰まる。可愛い、というか豪華すぎる名前だ。
「ふーん。よろしく〜、俺翔太〜」
軽く手を振ってみせると、インコが首を傾けて、そして——
「コンニチハ、コンニチハ」
「……うわっ、喋った!?」
思わずのけぞると、涼太が嬉しそうに笑った。
「最近覚えたばっかなんだ。“こんにちは”と“おはよう”が得意」
「すごいな、インコってほんとに喋るんだ……。てか俺より挨拶うまいかもしんない」
「……それ、翔太がだらしないだけじゃない?」
「それを言うなよ……」
苦笑しながらケージを覗き込むと、レインボーローズがまた首をかしげて、「コンニチハ」と一言。
なんだか一気に、ここが“他人の家”じゃなくなった気がした。
小さな羽の音と、涼太の笑い声。
それが、今日からの新しい日々のはじまりだった。
――――――共同生活、って聞くと、最初はちょっと構えてた。
気を遣うんじゃないかとか、リズム合わないと大変そうとか、
いろいろ考えたけど——
始まってみたら、意外なほど心地よかった。
朝。
俺がシャワーから上がってリビングに出ると、もうキッチンからはカチャカチャと食器の音。
「おはよ。コーヒー、濃いめでいい?」
エプロン姿の舘様——いや、涼太が、振り返りもせずにそう言った。
「うん、お願い」
ふわりと広がるバターの香り。
今日は目玉焼きと、厚切りトースト、彩りよく並べられた野菜サラダ。
見た目にも丁寧で、まるでホテルのモーニングみたいだった。
「……やっぱすごいよな、舘様の朝ご飯って」
「一日の始まりだしね。ちゃんと食べた方が仕事も集中できるでしょ」
返ってきた声は相変わらず穏やかで、
だけどその中に、生活への“美意識”がしっかり息づいてた。
自然と決まったルールがある。
朝ご飯は、涼太が作る。
夜ご飯は、先に帰った方が作る。
俺が早ければコンビニ弁当じゃ寂しいしって、簡単な炒め物とか味噌汁を作る。
涼太が早ければ、きちんと和食っぽく整えてくれる。
互いのペースを崩さない程度に、寄り添うような生活だった。
日用品の買い出しも、意外と楽しい。
涼太は免許を持ってないから、車を出すのは必然的に俺の役目。
助手席に乗ってる涼太が、いつもきちんと買い物リストをスマホで管理していて、
「翔太、シャンプーあと1回分だよ。柔軟剤ももうすぐ終わる」
「……俺、気づかなかった。さすが主婦」
「主夫ね」
そんなたわいない会話をしながら、週に一度の買い出しがちょっとしたイベントになっていた。
スーパーの棚の前で、
「このトイレットペーパー、香り付きだって。翔太好きそう」
「いや俺、無香料派なんだけど」
とか、言い合いながら笑う。
食材を選ぶ手つきが丁寧で、
カゴに入れる順番すらこだわる涼太を見てると、
「この人と住んでよかったな」って思う瞬間が、日に日に増えていった。
帰りの車の中。
荷物が少ない時は、窓を開けて風を感じながら音楽を流す。
レインボーローズの「コンニチハ」が帰宅の合図みたいに響いて、
なんてことない毎日が、ちょっとずつ特別になっていく。
“ふたりの生活”って、もっと曖昧でぼやけたものだと思ってた。
でも今は、ちゃんと輪郭がある。
やわらかくて、整ってて、息がしやすい。
―――――昼の収録前、控室のソファに座っていると、佐久間がふいに声をかけてきた。
「ねぇねぇ翔太、舘様んちでの同居生活どうなの? そろそろ揉めてたりして〜?」
その声に、康二もすかさず乗ってくる。
「お風呂の順番とか! 生活リズムとか! やっぱ男同士ってむずかしいやんな〜」
「いや、別に。普通にうまくいってるけど」
口を尖らせながらも、思ったより悪くない——というか、
居心地がいいことを認めたくて、少し声が弾んでしまった気がした。
「ふーん? まんざらでもないな〜その顔」
ニヤニヤと笑うラウールに、「うるさい」と軽く肩を小突いたときだった。
「翔太、綺麗好きだから俺も過ごしやすいよ」
……声の主は、涼太。
いつもの穏やかな口調で、さりげなく、でも真っ直ぐに言った。
「……え?」
一瞬、心臓が跳ねた。
「ほら、洗面所とか毎朝ちゃんと拭いてるでしょ? それにタオルもたたんで揃えてくれるし。俺が気にする前に気づいて動いてくれるの、ありがたい」
「そ、そんなん……普通でしょ」
視線を逸らしながら答えるけど、耳が熱いのがわかる。
なんだこれ、ただの生活の話なのに。
“綺麗好き”とか“過ごしやすい”とか、
そんな当たり前みたいな言葉が、妙に刺さる。
ふと目が合った涼太は、柔らかく笑っていた。
「ふふっ」と口元だけで笑う、あの涼太の笑い方。
不意打ちすぎて、また心臓が跳ねた。
「……なんか、ちょっと恥ずかしいから、やめてよ」
「褒めてるだけなのに」
そう言われて、ますます逃げ場がなくなる。
周りがふざけ半分でからかってくるのとは違う、
静かでまっすぐな言葉に、俺の気持ちだけが妙に揺れていた。
ほんの数秒の沈黙が、やけに長く感じたのは——
きっと、気のせいじゃない。
―――――――――――
「舘様、CM決定おめでとうございます〜!」
控室に入った瞬間、佐久間の拍手とともに、空気がパッと明るくなった。
すぐさま康二が追い打ちのように、「まじで? 何のCM?」と食いつき、阿部ちゃんがスマホ片手に「公式に出てたよ、すごいなぁ」って感心していた。
涼太はというと、いつもの穏やかな微笑みで「ありがとう」と軽く頭を下げていたけど、ほんの少しだけ耳が赤くなってるのを、俺は見逃さなかった。
自分のことみたいに嬉しかった。
だって、努力してるの、ちゃんと知ってるから。
手を抜かないで一つひとつ積み上げてきたのを、毎日見てるから。
「どんなやつ? 見れるの?」
目黒がリモコンを持ってテレビをつけると、タイミングよく特集番組が流れ出した。
画面には涼太が起用された新しいスキンケア商品のCM映像。光に包まれた横顔、静かな音楽、優しい声のナレーション。
「おお〜〜〜〜〜」
「え、舘様、めっちゃ顔がいい……」
「わかる! これは惚れる!」
みんなが口々に褒める。俺も思った。本当に、舘様ってこういうの似合う。美しいし、安心感あるし、説得力がある。
でも——そのあとに流れたメイキング映像で、空気がほんの少し変わった。
「あ、共演の人、あの女優さんじゃん!」
佐久間が声を上げたと同時に、画面には撮影の合間に笑い合う涼太と女優さんの姿が映し出された。
日差しの下、リハーサルの合間に水を渡して、
何か冗談を言って、女優さんがクスッと笑って、
涼太もつられて笑う。
すごく自然で、やわらかくて、距離が近くて。
ズキッ。
不意に、心臓の奥が鈍く痛んだ。
(……なにこれ)
瞬間的に息が浅くなる。
笑っていたはずの口元が、少しだけ引きつった気がした。
「……いい雰囲気だったね、撮影の現場も」
誰かが何気なくそう言ったのを聞いた時、思わず手のひらに力が入った。
なんだこれ。
別に、当たり前じゃん。仕事なんだから。
相手は女優さんで、舘様は共演者にちゃんと優しくて、プロで、いつも通りで。
……いつも通り。
なのに、どうして。
心の中にざらっとしたものが張りついて離れなかった。
ほんの数秒の、画面の中の笑顔が、頭の中に焼きついて離れない。
「俺、見たことない顔だ」って、そう思ってしまった。
「翔太?」
ふいに隣から声をかけられて、ドキッとする。
涼太だった。
「……ん、何?」
「ぼーっとしてたから。疲れてる?」
「ううん、別に」
平気そうに笑ってみせたけど、自分の声が少し震えていた。
涼太は俺の顔をじっと見たあと、ふっと笑った。
「じゃあ、あとであのCMの現場話聞いてくれる?」
「……うん」
優しいその言葉が、逆に胸に染みた。
聞きたいようで、聞きたくなかった。
テレビの画面では、まだ涼太の笑顔が流れていた。
誰かに向けた、やわらかい笑顔。
俺の中の何かが、ゆっくり、静かに、揺れ始めていた。
―――――――――――
夜。
涼太はまだ仕事から帰ってきていない。
リビングは静かで、インコのレインボーローズの羽音だけが、たまに空気を揺らしていた。
ソファに沈み込み、膝を抱えて考え事をしていた。
さっき見た、あのメイキング映像のことが、ずっと頭から離れない。
(いや、別に……あれくらい普通だし)
(俺だって女優さんと共演くらいある。冗談言ったり、和やかに笑ったり、仕事の一環でしょ)
(なんなら……恋愛だって、経験あるし。昔は、もっと軽く誰かを好きになれた)
けれど、心の奥がざわついたままだった。
どんな言葉を重ねても、それを押し込めるには足りなかった。
(でも……)
目の奥がじんと熱くなる。
(俺、あんな顔、涼太にされたこと……あったっけ)
(俺が見たことない笑い方を、他の誰かに向けてるのが……ただ、ちょっと苦しかった)
頭では理解してる。嫉妬なんて格好悪い。しかも相手は仕事仲間。
涼太は何も悪くない。ただ、誠実に、プロとしてそこにいただけ。
でも、心は言うことをきかなかった。
胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられるように痛んで——
「っ……」
突然、吐き気が込み上げてきた。
「……えっ、ちょ……」
慌てて立ち上がって、ふらつく足で洗面所へ向かう。
喉の奥が焼けるように熱い。息が詰まる。なにこれ、こんなの、初めて——
「……ッ、うっ……!」
洗面台に手をついた瞬間、喉の奥からこみ上げるものが、強制的に口を突いて出た。
ぼとり、と音がして、白い陶器の中に落ちたそれは——
花だった。
淡いピンク色。小さな、まるでブーケの一部のような花弁が、いくつも折り重なって、そこにあった。
「……は?」
目を疑った。
呼吸が荒くなる。頭が回らない。身体は震えている。
何が起きたのか理解できない。
でも、確かに自分の口から、花が、出た。
「……っ、嘘、でしょ……?」
震える手で洗面台の縁を掴んで、ふらふらとその場に膝をついた。
冷たいタイルの感触が、現実に引き戻してくれるようでいて、それでも足元が崩れていく感覚は止められなかった。
目の前には、口から吐き出された花。
花弁はしっとりと濡れ、静かに重なり合い、
まるで何かを訴えるように、俺を見返しているようだった。
「……なんで、俺……」
息が震える。鼓動はうるさくて、なのに身体の感覚はどこか遠く、指先の冷たさだけが妙にリアルだった。
意味が分からなかった。
何が起きたのかも、どうしてこんなことになったのかも。
思わずポケットに手を伸ばし、スマホを取り出す。
画面が手の汗で曇るのを、乱暴に袖で拭って検索バーを開いた。
「花 吐く 意味」
「花 口から出る 病気」
必死に打ち込む指。画面に浮かんだ検索結果の中に、その言葉は確かにあった。
——「花吐き病(はなはきびょう)」
喉の奥がまたひくついた。
【片想いが強くなりすぎた時に発症すると言われる、謎の病。
想いが苦しみへと変わった時、花を吐くことで心の痛みが現れる——】
読み進めるごとに、胸がきゅうっと縮まっていく。
まるで、自分のことがそこに書かれているようで。
俺は、片想いなんて——
そんなつもり、なかったのに。
気づいたら、視界の端に咲いた花がまた目に入った。
薄くて繊細な、ピンクの小さな花弁。
どこかで見たことあるような気がして、
震える指で再び検索バーに打ち込む。
「ピンク 小さい 花 花言葉」
画像検索をたどり、やがて一枚の写真が、目の前の花とぴたりと重なった。
——ナデシコ。花言葉は、嫉妬。
「……っ」
喉の奥が詰まる。
ふとしたCMの映像。
涼太の知らない笑顔。
女優さんに向けられた柔らかな視線。
あのとき感じた胸の痛み。
言葉にできないざらついた感情。
あれは——
嫉妬だったんだ。
自分でも気づかないふりをしていた。
そんな感情を抱くわけがないって、何度も心の中で打ち消していた。
でも、身体は正直だった。
目の前の花は、確かに俺が感じた“想い”そのものだった。
「……最悪だ……」
声にならない声がこぼれる。
花はまだ、洗面台の中で静かに咲いていた。
咲くべきじゃなかった場所で。
俺の中からこぼれ落ちた、恋と嫉妬のかたち。
そして俺は、そこから目を逸らすことができなかった。
続きはnoteで作者名『木結』(雪だるまのアイコン)で検索して下さい。
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