テラーノベル
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喘ぐあの女の声。背中に伝う汗を拭うように背中を這う男の手。肌色の腕が伸びてきて、翠を捕まえようとする。
翠は必死に逃げて、逃げて、一度振り返ったときあの女の手はもう翠を追い駆けてはこなかった。
ひと息ついて顔をあげると、見慣れない部屋にいた。
壁は白く正面に見える扉のノブが銀色に光っていた。ノブに手を伸ばそうとしたとき、扉の向こうから足音が聞こえてきて、翠のいる部屋の前でぴたりと止まった。次の瞬間ガチャガチャ、ガチャガチャとノブを力づくで回し扉を開けようとする。それでも開かない扉を思いきり蹴りあげながら叫び声が響いた。
「居るのわかってるんですよー。
家賃払ってくださいよ、今すぐに。
おい、聞こえてるんだろう。
居留守使ってるんじゃねーよ。
それとも子供を売るか?」
恐怖に叫び声をあげる自分の声に、翠は飛び起きた。顏を覆った手は大人の手だった。
夢?
そのとき扉が勢いよく開いて、翠はベッドの上で身構えた。部屋に飛び込んで来たのが結だとわかると、大きく息を吐いて翠は背中を丸めた。
「翠さん!」
翠は身体を震わせている。
「どうしたの? ひどい汗よ」
そっと肩に触れると、恐怖で身体が張り詰めているのが指先から感じた。ベッドの端に腰をかけた結は、両腕を翠の背中へと回して翠を抱き寄せた。
「よほど怖い夢を見ていたのね。でも、もう大丈夫よ、私がいるから大丈夫」
背中を優しく撫でると、翠が深く息を吐いて次第に肩の強張りが解けていくのがわかった。
「結。もう少しここにいてくれない? 頭痛い」
子供みたいに甘えた瞳をして、甘えた声で言われたら嫌とは言えないじゃない。
「じゃあちゃんと横になって。それとも何か飲む? でももうお酒はダメよ」
翠が小さく笑った
「今日ね、暖人さんがホテルまで来てくれたの。一人でバスに乗って、翠さんのことを私に伝えようと来てくれた。だからここに来ることができたのよ」
「ああそうだ。暖人に今夜のおかずを作って持たせてやるつもりだったのに。どうしよう、暖人も夏夫さんも困っている」
「それなら大丈夫よ。夕飯は作って来たから」
翠が結を見上げた。額に不安そうに皺が寄るのを見て何が言いたいのか嫌でもわかった。
「作ってくれたのは秘書の工藤さんよ。工藤さん料理上手で驚いちゃった。冷蔵庫にあったもので親子丼を作ってくれたのよ」
「ああ、それならよかった」
「ちょっとそれ失礼じゃない」
今度は小さな笑みではなく、声を出して翠が笑ってくれた。わざと膨れてみせていた結だったが、翠の笑った顔を見て素直に嬉しくなった。
翠の作るものはどれも美味しいと夏夫が言っていたことを思い出して、結は聞いた。
「料理はどこで覚えたの?」
「育った施設よ。園長先生がとっても料理上手な人で、よく教えてもらった。食べることも好きだけど、作ることはもっと楽しかった」
「暖人さんがここでアルバイトを始めたって聞いたけど、これからのことを考えて暖人さんが自立できるよう手助けしているの?」
結を見上げて、翠がかすれた声で言う。
「自立? そんなご立派なものじゃないわよ。ただ今までとは違う経験をさせてやりたいだけ。いろいろな世界を見せてやりたいだけよ」
眉毛を下げて、小さく唇を開けて穏やかな寝息をたてて眠る翠の寝顔をしばらく見つめていたかった。左耳で小さな星みたいに光るピアス。長い指、丁寧に磨かれた爪が綺麗だった。
このところ眠れない夜が続いていた。仕事が忙しいせいもあるが、春日凛太郎という存在を知ったときから、電話が鳴るだけで心臓が止まる思いがする。部屋の扉を開けたとき、目の前に立っているのでないかと思うと、部屋に一人でいるときでも安らげなかった。
それだけではなく、貴一の書斎で見つけたあの記事を読んだときから、いつか両親のことがあることないこと記事に書かれて、スキャンダルに巻き込まれるのではないかと考えると怖くてたまらなかった。
けれど大きくて温かい翠の手を握っていると、とても穏やかな気持ちになれた。この気持ちを幸せと呼ぶのだろうか。
コメント
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第28話、読ませていただきました。 翠さんの悪夢のシーン、すごく生々しくて胸が締め付けられました。「子供を売るか?」という台詞、あれが夢の中であっても現実の追い詰められた感覚を一瞬で伝えてくるから怖い…。 そこから結さんがそっと抱きしめる流れが本当に優しくて、静かな温かさにじんと来ました。 翠さんの「もう少しここにいてくれない?」という甘えた口調、結さんがそれに応える関係性がじわじわ沁みます。お互いにとっての“居場所”ができていく感じがいいなあ。 続きも楽しみにしています🌷