テラーノベル
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しばらくの間、いるまはひまなつを抱きしめたまま動かなかった。
ひまなつの呼吸は、最初はまだ小さく乱れていたが、次第に規則正しく、ゆっくりとしたリズムに変わっていく。
胸に預けられた額の重みが、少しずつ増していくのが分かった。
「……?」
支えている腕に、ずしりとした感覚が伝わる。
いるまは、そっと力を緩め、ひまなつの体を少しだけ離した。
覗き込むと――
ひまなつは、眠っていた。
まつ毛は濡れたまま頬に影を落とし、唇はかすかに開いて、静かな寝息を立てている。
泣き疲れたのか、合コンの席で少し飲みすぎたのか、それは分からない。
けれど、その寝顔は、どこか懐かしかった。
学生の頃と変わらない、少し幼さの残った表情。
無防備で、警戒心のない顔。
「……変わってねぇな」
小さく呟いて、いるまは苦く、でもどこか優しく笑った。
このままベンチに寝かせておくわけにはいかない。
夜風も冷たいし、人通りもまだある。
いるまは、ひまなつの体をそっと持ち上げ、自分の背中へ回した。
「……っと」
ひまなつは、無意識にいるまの肩に顔を預け、わずかに身じろぎする。
体温が、じんわりと伝わってくる。
背中に感じる重みが、不思議と心地よかった。
歩きながら、ひまなつの落ちてきそうな腕を支え、バランスを取りながら夜道を進む。
街灯の光が、二人の影を長く伸ばしていた。
背中越しに聞こえる、静かな寝息。
それだけで、胸の奥が満たされていくような感覚があった。
自宅に着くと、いるまは慎重に鍵を開け、音を立てないように中へ入った。
「……よし」
靴を脱ぎ、ひまなつを背負ったまま寝室へ向かい、 ベッドの上にそっと体を下ろす。
「起きろ」なんて声をかける気にはなれなかった。
眠ったままのひまなつを起こさないように、いるまは手際よく上着を脱がせる。
シャツを外し、窮屈そうな服をゆっくりと整えていく。
乱暴にならないよう、動きはすべて慎重だった。
タンスからスウェットを取り出し、パジャマ代わりに着せる。
袖に腕を通し、裾を整える。
ひまなつは、少しだけ眉を動かしたが、目を覚ますことはなかった。
「……よく寝てるな」
小さく息を吐きながら、今度は自分も着替える。
部屋の明かりを落とし、ベッドに戻る。
ひまなつの隣に、そっと横になった。
近い距離で見る寝顔は、さっきよりもさらに無防備で、柔らかかった。
いるまは、指先で、ひまなつの髪をゆっくり撫でる。
さらりとした感触。
微かに残る、外の空気と洗剤の匂い。
昔、何気なく触れていたはずの仕草なのに、今は一つ一つが胸に沁みる。
「……おやすみ」
誰に聞かせるでもない、小さな声。
そのまま、ひまなつを包むように、そっと腕を回す。
強く抱きしめることはしない。
逃げ道を塞ぐこともしない。
ただ、温度を分け合うだけの距離で。
ひまなつの呼吸に、自分の呼吸を合わせながら、いるまは静かに目を閉じた。
久しぶりに、何も不安のない夜だった。
離れていた時間も、後悔も、言えなかった言葉も――
すべては、今は胸の奥にしまって。
ただ、このぬくもりだけを確かめながら。
二人は、同じ静かな眠りへと落ちていった。
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