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「課長ー、大丈夫ですか?
おうち、ひとりで入れますか~?」
春。
新入社員を迎えての花見で、耀は酔うまいと思ったのに、結局、酔ってしまい、部下たちにタクシーで送ってもらった。
だが、タクシーを降りてからは、なんとかひとり、玄関までたどり着く。
「中までお送りしますよ~」
と男性社員がタクシーから降りてこようとするが、
「いや、大丈夫だ」
と平気を装い、手を振った。
どうせ、廊下に倒れて寝てても一人暮らし。
誰にも迷惑かけないからな。
耀は指紋認証で扉を開けたあと、大丈夫だとみんなに手を振った。
「では、失礼します」
と部下たちは頭を下げ、タクシーで走り去る。
キッチンで水を飲んだ耀は、なんとか二階に上がると、寝室で横になる。
少し、うとうとしたあと、目を開けてみたが。
いつかのように、和香が自分を覗き込んでいるなんてことはもちろんなかった。
あのあと――
和香は自分が関わっていた大きなイベントが終わる頃には、綺麗に引き継ぎを終えていて。
止める間も無く、会社を辞めて消えていた。
専務たちには、すでに話してあったらしい。
すべてを忘れて一からやり直すのが和香のためにはいいんだろう。
そう思うが。
声をかけてくれたら、俺も今まで築き上げたキャリアのすべてを捨てても、お前について行ったのにな、と思ってもいた。
いつも持ってるお気に入りのちょっと出しにくい財布は持っていくのに。
いつも側にいた俺は持っていかないのかと思ったり。
誰も知らない街でやり直すと言いながら。
その街のアパートのお隣には、情報収集能力に長けた、どっかの公安のイケメンがさりげなく住んでるんじゃないかと思ったり。
……そのどっかの公安のイケメンの上の階には、公安より情報収集能力に長けた、主婦の人も追いかけてきて、住んでそうでちょっと怖いと思ったり……。
和香が去って、三ヶ月。
今も企画事業部とイベントの打ち合わせをしていると、なんとなく、和香の姿を探してしまう。
「うちが契約している気象予報の会社も、他社も、この日、雨だって言うんですよ。
困りましたね」
そう池本が言う。
池本や美那たちに、和香は会社を辞めるとき、
「自分探しの旅に出る」
と言ったらしい。
若者が旅に出るときにありがちな、いかにもな理由だが。
あんなハッキリ自分を持ってる奴が、なに探しに行くんだ、と思わなくもない。
美那も時也もあのとき、あの場にいたのに、得体の知れない和香を怖がることもなく、
「呑み会に和香がいないとつまらないですね~」
などと言って、寂しがっていた。
「課長?
雨降ったら、どうします?
集客力落ちますよね。
とりあえず、探して手配しましょうか」
テント業者、と美那は言おうとしたようだったが、和香のことを考えていて気もそぞろだったせいか。
「晴れの天気予報を?」
と言ってしまう。
「いや、晴れの予報、探してどうするんですか」
「この状況でそんなもの出してくる奴は、当たらない予報士では……」
「和香に似てきましたね、課長」
とみんなに畳みかけるように言われてしまう。
たまたま後ろで聞いていた専務が苦笑いして、こちらを見ていた。
その日の帰り。
和香が住んでいたアパート近くのスーパーを訪れてみた。
特に欲しくもない、そこにしかないチーズを買う。
よく脱走する猫が塀の上で呑気に寝ていたが、和香も羽積も三階の主婦も現れたりはしなかった。
よく晴れた日曜日。
白い布袋を手に耀は図書館に行こうとしていた。
和香はもういない。
だが、自分の頭の中にある未来は、もう和香と年をとっていく未来で確定していたので。
和香がいなくなっても、あのとき思い描いていた未来をひとりで生きていこうと思っていた。
日曜日には、ひとり、白い布袋を手に図書館に向かい、少し散歩をして、岩城のケーキを買い、珈琲を淹れて飲む。
職場では、最近、ちょっと言動が和香化していると言われるのが問題だが。
まあ、クビになるほど、ビックリなことをしてしまうわけではないので、ちゃんと定年まで働けて、ここのローンは返せるだろう。
和香が二度と訪ねてこないとしても、あいつの愛したこの家は守りたいから、と思いながら、扉を開けたとき、目の前に和香が立っていた。
「あっ、すみませんっ。
オリーブの実がなっていたので、つい」
と苦笑いしている。
耀は思わず、家に戻り、扉を閉めた。
「課長っ!?」
と外で和香が叫んでいる。
「不法侵入すみませんでしたっ」
耀はうっすら開けた扉の隙間から和香の姿を確認して言う。
「……鍵持ってる奴が不法侵入もないだろうよ」
……驚きすぎて隠れてしまったが。
いきなり、和香が走って逃げたらどうしよう。
車すら撥ね飛ばしそうな、こいつの脅威のスピードには追いつかないかもしれない、と思いながらも。
和香が走り出したら、タックルしてでも止めよう、と耀は身構える。
……なんだろう。
慣れてない猫みたいになってるんだが、課長が、と思いながら、和香は庭に突っ立っていた。
近づいたら、フーッとかって威嚇されそうだ。
春になったので、耀の家には球根系の花々が溢れていた。
意外にも雑に植えてあるので、おそらく、耀の母が、
「あんた、庭に花くらい植えなさいよ」
とか言って買ってきた球根セットかなにかを耀が、
またなんかめんどくさいこと言ってきた、とばかりに、その辺に適当に植えたのではないだろうか。
――そもそも、庭まで入るつもりはなかったのだが。
つい、未練がましく、この家の前を歩いていたら、花がたくさん咲いていたので、そんな情緒が課長にもあったのか、と驚いて庭を覗いてしまったのだ。
すると、あの、一本なので、実がならないはずのオリーブの木にひとつ、実がなっていた。
それで、驚いて庭まで入ってしまったのだ。
なにかに対して身構えながら、扉から出てきた耀が言う。
「お前、以前、言ってたな。
『いつか、このオリーブの実がなったら……』って。
オリーブの実がなったら、なにが起こるんだ」
「……オリーブの実がなったら?
えーと、新鮮で美味しそうだなって思っただけなんですけど」
と素直に言って、なんだ、それは!? とキレられてしまう。
「オリーブの実がなったら、俺と結婚してくれるとかじゃないのかっ?」
「いや、なんで、オリーブの実が私の運命を決めるんですかっ」
と言ったら、
「……どうしたことだ。
お前の方がまともなことを言っている」
と耀はショックを受けていた。
「……すみません。
あの、私、もう課長の前に現れるつもりはなかったんです。
だって、私がいると、課長の出世の妨げになるんじゃないかと思って。
でも、ひとりで違う街に行ってもなんか寂しくて。
課長と行ったのと同じ、トンカツのチェーン店にも入ってみたんですけど。
なんか違うなって……」
「俺も一人でトンカツ屋に入ってみた。
だけど、この先ずっとお前とあの店に行くんだと思ってたし。
家族で来るところも想像したし。
あそこの店長、野球チームのコーチなんで息子の面倒も見て欲しいと思ってたし」
「……サッカーしたいって言い出したら、どうするつもりなんですか」
計画性がありすぎる人も困りますね、と言って和香は笑う。
「ああ、そうだ。
もう細かいところまで計画を立ててしまっていて、修正がきかない。
俺の人生はお前なしでは成り立たない」
そう言い、耀は和香の手を握ってきた。
「お前は得体の知れないことばっかり言ったりやったりするし。
復讐以外に関しては、生き方がゆるすぎるお前とは、根本的に意見が合わない気がする。
だが――
何故かお前しかいないと思うんだ。
お前がいないと、トンカツ屋さえ、なにかが違う。
木のいい香りも。
サクサクのトンカツも。
甘辛いねったりとしたソースも。
お前がいないと、なんか違うんだ。
この家も違う。
自分の家なのに、借り物みたいだ。
お前が一緒にいて初めて、ここは俺の家になるんだ」
和香……と耀はそっと口づけてくる。
いやあの、ここ、外なんですけど。
お天気がいいので、歩いて図書館に向かうおじいさんや、お孫さんと手をつないだ専務なんかが通ってるかもしれませんよ。
そう思う和香の頭の中では、長年の敵だった専務が孫を見守るおじいちゃんのように、ニコニコ和香たちを見守っていた。
「ところであの……」
と和香は照れながらも上を見て言う。
「この実、セロハンテープで引っ付けてあるじゃないですか」
「お前が、もしも、オリーブの実がなったらとか意味深なことを言っていたから。
なったら帰ってくるんじゃないかと思って――。
だが、奇跡を待ってるのは性に合わん。
なので、とりあえず、買って、引っ付けてみた」
と言う耀に笑ってしまう。
そんな和香の顔を見ながら、耀は言った。
「確かにオリーブの実には、お前の運命も未来も決められないかもしれないが。
お前はたぶん、最初にこの家を見たとき、お前の運命と未来を見てたんだよ」
「え?」
「図書館前に建つ白い家には、本好きの老夫婦が住んでるんだろ?」
白い頑丈そうな布袋を手に家から出てくるおじいさん。
家の前を掃いているおばあさん――。
「穏やかにこの家で暮らす老夫婦は、きっとお前が見た俺たちの未来だ――」
さあ、入れ、とうながされ、指紋認証で開けようとしたが、開かない。
「課長っ。
未来が私を拒絶していますっ」
白い家のおじいさんとおばあさんの未来が、第一歩目から拒絶されているっ、と和香は慌てたが。
耀は、
「また手が乾燥してるんだろ」
といつかのように、息を吹きかけてくれたあとで、和香の指先で指紋認証で開けさせる。
扉は開いた。
ガランとした、なにもない広い廊下を見ながら、和香は、初めて、その廊下を見たときのことを思い出していた。
「最初に課長をここに送ってきたとき、まさか、こんなことになるとは思ってもみませんでした」
知らない家の扉はパンドラの箱の蓋のようだ。
その先になにが詰まっているのかわからない。
「……今までの恨みもしがらみも全部捨てて。
誰にも迷惑かけずに、一からやり直そうと思ってたのに。
今、この廊下を見て、ホッとしている自分がいます」
やっぱり、駄目ですね、私……と苦笑いしたが。
そんな和香の肩を抱き、耀は言った。
「大丈夫だ、強がるな。
駄目なのは、お前だけじゃない。
俺もお前がいない未来は想像すらできない――」
もう一度、耀がそっと口づけてくる。
和香が開けた扉を片手で押さえていた耀は、
「まあ、入れ」
と和香に言ったあとで、和香の斜め後ろを見て言う。
「蚊も」
――蚊も!?
「まだ、春ですよっ?」
和香がいつもの素っ頓狂な声と顔で振り返ると、耀が笑い出す――。
いつも憧れ、見つめていた図書館前の白いおうちには、仲のいい若夫婦が、今日も元気に暮らしている――。
完