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まるでインプに大きな翼が生えて、飛んでいるような感覚――大好きな人を隣に乗せて、滅多にできないことをやってのけた。それはほんの2、3秒だったのかもしれないけれど、躰を包み込むような浮遊感や幸せを、宮本はしっかりと噛みしめる。
隣にいる橋本は、どんな気持ちでいるのだろうかと助手席に視線を飛ばしたら、あられもない姿勢のまま、白目を剥いて失神していた。
「ありゃりゃ……」
橋本なら、これくらい平然としていられると思ったのに、あっけなく撃沈している姿は、宮本のテンションを一気に下げるものに変化させた。
沈痛な面持ちでハンドルを握り直したインプは、適度な加速で突っ込んだこともあり、着地してから一度だけ、車体が軽くバウンドした。
「おっとっと☆」
アクセルを緩めることなく、そのままコーナーに突っ込んだ車体は、宮本が思ったような操作ができず、くるくる回転しながら走行する。
ハンドルから伝わってくる、ぬるっとした独特なタイヤの滑り具合に、宮本は渋い表情を浮かべながら、むぅと低い声で唸り声をあげるしかない。
(タイヤの熱ダレかな。陽さん、グリップ力のある、高そうなタイヤをインプに履かせてるから。俺の運転で隣にいる持ち主同様に、タイヤまで音を上げてしまったのか)
オーバースピードと橋本に称された速度だったが、宮本としてはテクニックで御すことのできるものだった。車体が回転した状態でコーナーに入っても、アクセルワークとブレーキングでやり過ごし、何事もなかったように、普通に走行させてみせる。
失神している橋本を労わるように、制限速度でしばらく走っていたが、ギャラリーがいない区間に入ってから路肩に車を止めて、ハザードを点灯させた。
自身のシートベルトを外して、助手席に躰を寄せて、白目を剥いたままでいる橋本の瞼を下ろしてから、姿勢も直してあげる。
「この姿もなかなかすごいけど、インプの傍に立ってた陽さんと目が合ったときのほうが、結構衝撃的だったな……」
呟きながら、そのときのことを宮本は思い出し、瞼を下ろした手で橋本の髪を撫でてみた。自分のものとは質感の違う、触り心地のいい柔らかい髪に、ずっと触れていたいという思いが込み上げる。
橋本に触れるだけで疼いてしまう、胸の感覚――三笠山の山頂で顔を突き合わせたとき、インプだけに視線を奪われた自分を見る、橋本の呆れた眼差しは、どこから見てもいい印象じゃなかったというのに、目が合った瞬間から心臓がばくばくと張り詰めてしまった。
そのときに感じた胸の高鳴りと、現在ふたりきりでいる状況にドキドキしている感じは、同じ種類のときめきだと、簡単に認識することができた。
江藤とのことがあってから、恋愛することに関しても、自分が傷つきたくなかったり、相手を傷つけたくないという気持ちが強かったせいで、宮本自ら避けていた経緯がある。
だからこそ、感じてしまったこの恋心について、どうしたらいいのだろうかと持て余すしかなく、やるせなさを噛みしめるように、きゅっと下唇を噛んだ。
髪を振れていた手を、シャープな頬に移動させた。直に触れた肌から伝わってくる、橋本の温もりを愛おしく思いながら、宮本は目を閉じる。
――恋が絶対に叶わない相手に、恋をしている橋本。
初めて逢ったときは、渋い二枚目の容姿を羨ましく思うだけで、特別な感情を抱くことはなかった。
自分の見た目がマンガでいうところの、冴えないモブキャラと同じだからこそ、アニメに出てくる格好いい主人公に憧れるような純粋な動機で、友達になってくれと頼んだ。橋本が時折見せる笑顔や、親分肌で男前な性格を知っていく内に、憧れの気持ちが色濃くなったのは事実だった。
そして今夜、格好いい橋本に近づきたかった憧れの想いが、インプとセットになったところを見ただけで、その性質を変えた。
乗ってみたいと憧れていた車を、橋本が所有している時点で、運命だと勝手に思ってしまったのは、少々行き過ぎかもしれないけれど――。
『雅輝の好きは、何だか火山のマグマみたいだな。抑えられないところが、噴火した真っ赤なマグマみたいに思える。その熱に溶かされたら、堪ったもんじゃないな』
耳障りのいい橋本の声で表現された、宮本の好きという気持ち。目を開けた途端に、そのセリフが頭の中でリフレインする。
「陽さんの中にあるキョウスケさんに対する気持ちを、俺の想いの熱でドロドロに溶かすことができたらいいのに」
いつかは視野を広げると言った橋本が、一番近くにいる自分を見てくれたらいいなと思ったのも束の間、更にテンションの下がることを思い出した。
『そりゃあ見た目が良ければ、言うことないだろうな。顔を突き合わすたびに、癒されるわけだし』
山頂で謝った後に告げられた、橋本の好みを語ったセリフ――考えてみたら彼が好きなキョウスケの容姿は、言葉通りだった。
(せめて目元だけでも弟の佑輝みたいな感じだったら、顔全体が引き締まる気がする……。それでもイケメンには、程遠いけどな!)
見た目が残念すぎる、自分を好きになってもらえるチャンスがあるかもしれないと淡い期待を抱き、嬉々としてインプでコーナーを攻めてみた。
無駄に張り切る宮本の様子に、すべてを見越した店長から、はしゃぎすぎるなよと言われていたけれど、橋本にいいところを見せるべく、ここぞとばかりに頑張ってしまった。
もちろん人様の車なので、限りなく9割に近い8割くらいの力量で――。
その結果が、橋本を失神させてしまうという、悲しい顛末に至った。
地獄の底まで落ち込んでしまうこの失態は、抱いたばかりの恋を、自らの手で絶望的なものにしたけれど。
「貴方の笑顔が、こんなにも俺の心を乱すせいで、この胸の高鳴りはもう抑えられません。陽さんがしていた、キョウスケさんを想う気持ちを隠すような真似は、不器用な俺にはできない。だから……」
友達として始まった関係を崩してしまうかもしれない、橋本に恋する気持ち。それを告げてしまったら、何もかもが終わってしまうかもしれない。
「俺の気持ちを受け入れてくださいなんて、ワガママは言いません。近いうちに想いを告げるので、逃げずに聞いてくださいね」
ちゅっ (*  ̄)。-_-。)
橋本の頬にキスを落として、勝手に約束をした宮本。ガックリとうな垂れたまま、運転席に戻った。
(く~っ! 本当は唇にキスしたかったのに、『信頼してる』って言った陽さんの顔が頭に浮かんできたせいでそれができないとか、恋に初心な中坊かよ。超情けねぇ……)
そんなことを考えると、胸は締めつけられるように苦しくなる。でもそれは心地の良い苦しさだった。いくらでも耐えられる苦しさだからこそ、微笑むことができた。
久しぶりに感じる、誰かを好きになるあたたかな気持ちを、宮本は愛おしく思いながらハンドルを握りしめてUターンし、ふたりきりでいる短い時間を惜しむように、来た道をゆっくり戻ったのだった。