テラーノベル
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あれから数分にも数時間にも感じられる時間がたった。砂鉄は仕事の疲れを感じながらも、チョモが心配で眠れずにいたが、容態が落ち着いてきた様子をみて、少し微睡んでいた。その時だった。
「ごほっ……っ、ごほっ……!」
乾いた咳が聞こえる。咳き込むたびに、彼の体が砂鉄の腕の中で大きく震え、小さく痙攣する。砂鉄は、ハッと目を覚まし、顔を覗き込んだ。
「…チョモ? 大丈夫?」
砂鉄が小声で話しかけると、チョモは苦しそうに目を開けた。その瞳には、熱と咳による苦痛が色濃く浮かんでいる。
「はっ……はっ……ごほっ、げほっ……!」
チョモの呼吸は、さらに荒くなっていく。一度咳が出始めると止まらない。苦しげに胸元の服を掴んでいる。肺の奥から湧き上がるような咳が、何度も何度も彼の喉を突き上げる。その度に、彼の顔は苦痛に歪み、目尻には生理的な涙が滲んだ。砂鉄はすぐに、チョモの背中を優しくさする。
「しんどいね、チョモ。大丈夫、大丈夫だからね」
砂鉄の声は、心配に満ちていた。毛布の上からでも、チョモの体の熱さが伝わってくる。熱で火照った体は、限界まで無理をしている証拠だった。砂鉄は、再びチョモの口元にスポーツドリンクのストローを近づけた。少しでも喉を潤してやりたい。
「ちょっとでいいから、飲んで」
チョモは、咳き込みながらも、わずかに水分を口に含んだ。しかし、すぐにまた激しい咳が彼の体を襲う。ネットカフェのブースに、苦しそうな咳の音だけが響き渡る。砂鉄は、ただひたすらにチョモの背中をさすり続け、彼の苦痛を少しでも和らげようとした。
その時、隣のブースとの薄い壁が、ドン、と一度だけ叩かれた。
「……っ」
砂鉄は、思わず息を飲んだ。激しい咳の音が、隣の客の迷惑になっているのだ。ただえさえ真夜中で、しかもネットカフェという狭い共同の場所で、大きな音を立てるとうるさく感じる人間はいるだろう。だからってそんなことをするなんて。
チョモも、壁の音に気づいたのか、咳き込みながらも、ハッと目を見開いた。その瞳に、申し訳なさそうな色が浮かぶ。
「ごほっ……ごめ……っ……うるさく……て……」
チョモは、苦しい息の合間に、掠れた声で砂鉄に謝った。その顔は、熱のせいだけでなく、罪悪感でさらに歪んでいた。自分のせいで砂鉄に迷惑をかけている、という気持ちが、彼を苦しめているのが分かった。砂鉄は、すぐにチョモの顔を覗き込み、彼の頬を優しく包みこんだ。
「何言ってるの、気にしなくていいから。何も悪くない」
砂鉄の声は、普段よりもさらに優しかった。チョモの背中をさする手に、さらに温かさを込める。
「今は、自分のことだけ考えて。早く良くなることだけ。な?」
砂鉄は、そう言ってチョモの頭を自分の胸に引き寄せた。チョモは、砂鉄の言葉に、小さく頷いた。まだ咳は止まらないが、砂鉄の温かい腕の中で、少しだけ安心したようだった。
ネットカフェの薄暗い空間で、砂鉄はチョモの体を抱きしめ、夜が明けるのを待つしかなかった。外が白み始めるまで、まだ長い時間がかかるだろう。
しかし、チョモの体調は、良くなるどころか、さらに悪化しているように見える。咳は止まらず、呼吸は浅い。熱も下がっている気配がない。このままネットカフェにいるのは危険だと、砂鉄は冷静に判断した。
「ねぇ……病院行こう」
砂鉄は、チョモの耳元で、そっと呟いた。チョモの体が、ビクリと硬直した。
「……びょう、いん……?」
チョモの声は、掠れていて、まるで幼い子供のようだった。その瞳に、はっきりと恐怖の色が浮かぶ。
「うん。このままだと、もっと体調悪くなりそうだし。先生に診てもらった方がいい」
砂鉄は、優しく説得しようとする。しかし、チョモは、砂鉄の腕の中で、弱々しく首を横に振り始めた。
「病院なんか……いい……行かない……っ……」
チョモの拒絶は、とてもはっきりとしたものだった。
「……チョモ」
砂鉄は、チョモの震える体を強く抱きしめた。彼の恐怖が、砂鉄の胸に痛いほど伝わってくる。自分たちがあの件で、どれほど世間の目に晒され、日常を切り売りされたか。不特定多数の人がいる病院へ行くことを嫌がる気持ちは、痛いほど理解できる。
「俺も、気持ちは分かるよ」
砂鉄の言葉に、ピクリと反応する。チョモの頭を優しく撫でながら、続けた。
「でもさ、チョモ。このままじゃ、本当に危ない。もし、もっと熱が上がったり、呼吸が苦しくなったら……俺、どうしたらいいか分からない」
その言葉には、心配と、どうすることもできない現状への焦りがにじんでいた。
チョモの瞳が、恐怖と、砂鉄の言い分も理解できる気持ちとの葛藤に揺れる。
「……でも……っ……」
その声は、弱々しく、消え入りそうだった。
「……う……ぅっ……」
チョモの喉の奥から、押し殺したような小さな嗚咽が漏れる。隣のブースに聞こえないように、必死に声を抑えている。唇をぎゅっと噛みしめ、涙が目からとめどなく溢れ出す。咳の波が来るたびに、体の震えが止まらない。熱にうなされ、意識が朦朧とする中で、押さえ込もうとする感情と、止められない涙が、彼の内側で激しくぶつかり合っていた。
「ひっぐ……っ……ごほっ……うぅ……」
チョモは、呼吸するのも苦しい中で、声を殺して泣き続けた。顔は砂鉄の胸に埋めているが、その頬を伝う熱い涙が、砂鉄のTシャツに、じわりと染み込んでいくのが分かった。無理に息を吸い込もうとして、さらに咳き込み、その度に体が大きく跳ねる。
砂鉄は、チョモの寝巻代わりのTシャツが、汗でぐっしょり濡れているのを感じた。こんなに苦しんでいるチョモを、このままネットカフェに置いておくことはできない。だが、彼が病院へ行くことに、どれほどの恐怖を感じているかも、痛いほどわかる。
(どうすれば……)
砂鉄は、心の中で葛藤した。しかし、これ以上体調が悪くなったら本当にまずい。その考えが、砂鉄の迷いを打ち消した。砂鉄は、チョモの震える背中をポンポンと叩きながら、彼の耳元に、もう一度、優しく語りかけた。
「チョモ……しんどいよね。苦しいね」
チョモは、砂鉄の言葉に顔を上げた。嗚咽が、喉の奥から漏れる。
「……でも、ちょっといいから……病院、行こう?」
砂鉄の声は、説得するような強い調子ではなく、まるで懇願するかのようだった。無理強いするのではなく、チョモ自身の意思で決めてほしい。しかし、もう時間がない。
砂鉄は、チョモの顔をゆっくりと持ち上げさせた。汗と涙でぐちゃぐちゃになったチョモの顔。その瞳は、まだ恐怖に揺れているが、砂鉄のまっすぐな視線を受け止めていた。
「名前も変えてるし、パーカー被ってけば顔を見られない。それにお医者さんだってそんなジロジロ見ないよ。大丈夫だから。」
砂鉄は、チョモの手を取り、その掌を強く握りしめた。砂鉄の真剣な眼差しと、確かな温もりに、チョモの瞳がかすかに潤んだ。周りに迷惑をかけていること、砂鉄に心配をかけていること。そして何より、この苦痛から解放されたいという思いが、彼の心を揺さぶった。
チョモは、もう抵抗する力も残っていなかった。熱に焼かれた体は、ただ楽になりたいと願っていた。彼は、震える唇をゆっくりと開き、消え入りそうな声で、小さく答えた。
「……わかった……」
その言葉は、ほとんど聞こえないほどの小さな音だったが、砂鉄の耳には、はっきりと届いた。砂鉄の胸に安堵が広がり、チョモをもう一度強く抱きしめた。この薄暗いネットカフェのブースで、二人は、不安と恐怖を乗り越え、共に困難に立ち向かうことを決めたのだった。
そうと決まればすぐに準備をしようと、砂鉄は立ち上がり、そばにあったパーカーをチョモに着させる。その上から毛布を羽織わせた。自分は薄手のパーカーを着て、財布とスマホを持って、後片付けをする。そのまま靴下も履かずに靴を引っ掛け、ブースを出る。
「よし、行こ。チョモ。」
病院までの道を表示するスマホを片手に、2人は外に出た。
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