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春陽……雪斗の元奥さんの名前。
たった一度だけ見た彼女の姿が脳裏をよぎった。
美しくて、人の目を惹いて、全身からエネルギーが溢れていた。
寝言で名前が出るって事は、雪斗は春陽さんの夢を見ているのかな。
苦しそうにしているのは辛い夢を見ているから?
……今でも心から離れないの?
それ以上雪斗の側に居られなくて、寝室から出た。
動揺しながらもシャワーを浴びて機械的に身支度をする。
食欲は無かったけど朝食の支度にとりかかる。何かをしていないと、ひたすら沈んでしまいそうだったから……そうしている内に、目を覚ました雪斗がリビングにやって来た。
「おはよう」
「……おはよう」
「美味そうだな」
「直ぐに食べる?」
「ああ。腹減った」
雪斗は椅子に座りながら答えた。
彼はいつも通り。むしろ上機嫌に見えた。
春陽さんの事は何でも無いのかな。たまたま夢に出て来ただけで深い意味は無いの?
「ねえ、雪斗」
「どうした?」
「最近、春陽さんに会った?」
「……いきなりどうしんたんだよ」
雪斗は驚いたのか少しの間を置き。それから怪訝な顔をした。
「ちょっと気になって……雪斗、寝言で春陽さんの名前を呼んでたから」
「……」
「雪斗?」
「全く覚えてない」
「そりゃあ、寝言は自分じゃ聞けないし」
「昔のこと、夢にでも見てたのかもな。けど意味なんか無いからな」
そうなのかな? そうだといいけど……。
「変に気にするなよ」
真っ直ぐ見つめて来る雪斗の瞳は優しい。
不安も有るけど雪斗の心が離れている様には感じない。
「分かった」
流されない様にって決心したばかりなんだから、しっかりしないと。
深い意味は無いって、雪斗の言葉を信じよう。
今日の仕事は有賀さんに着いて外回りだった。
初めは緊張した顧客への訪問も大分慣れて来た。
打ち合わせでもメモを取るだけじゃなく、時々は意見も言える様になっていた。
「秋野さん、余裕が出て来たね」
有賀さんもそう言ってくれる。
何だか凄く嬉しくなった。向いてないと思っていた営業部の仕事が少しずつ楽しくなって来ている。
異動が嫌で悩んでいた頃が嘘の様だ。
「秋野さん、お昼何が食べたい?」
有賀さんは腕時計を見ながら言う。
「私は何でもいいです。この辺り詳しく無いですし」
「じゃあこの先に知ってる店が有るからそこに行こう」
「はい」
十分ほど歩き連れて行かれたのは少し懐かしい感じのする洋食屋さんだった。
こぢんまりした店内は、特別綺麗じゃないけど居心地は良い雰囲気だ。
メニューは店構えを見て予想した通りで、ハンバーグ、オムライス、ナポリタンと定番のものが並んでいる。
「ここのハンバーグは美味しいよ。それからオムライスも美味しいって言ってたな」
「そうなんですか……じゃあ私はオムライスにします」
注文を終えると、大粒の氷が浮かぶ水を飲みながら窓の外に目を向けた。
オフィス街からちょっと離れただけなのに、人通りはそれ程無く静かだった。
ゆっくり疲れを取るにはいい場所なのかもしれない。
「有賀さん、この店良く来るんですか?」
「最近知ったんだけど、気に入ったんだ」
「そうなんですか」
「料理が出て来るのも早くて、気にいってる」
有賀さんがニコニコと言った直後、本当にオムライスが届けられた。
「随分早いですね」
「先に食べていいよ。俺のハンバーグも直ぐ来るから」
「はい、お先にいただきます」
スプーンで口に入れたオムライスは、有賀さんが褒めるだけ有って凄く美味しかった。
「美味しいです。卵がふんわりしていて」
「そうだろ? 彼女も絶賛してたんだ」
私はぴたりと動きを止めた。彼女って水原奈緒さんのことなのかな。
それならこのオムライスって水原さんお勧めの料理なんだ。
「あ、ごめん、秋野さんにする話じゃなかったな」
有賀さんは私と水原さんの関係を思い出したのか、気まずそうに言う。
「いえ……あの、有賀さんは水原さんと良く会ってるんですか?」
自分でもどうしてか分からないけど、突然そんな事を聞いてしまった。
「え?」
有賀さんも驚いている。
「あの、有賀さん忙しいから時間作るの大変だろうなと思って」
誤魔化す様に言うと、彼は柔らかな表情になった。
「確かに大変だけど、それでも会いたいから時間は無理矢理作ってるよ」
「……そうなんですか」
有賀さんは本当に彼女が好きなんだ。私にとっては不愉快な人だけど、有賀さんにとっては大切で無理をしてでも会いたい人。
でも大丈夫なのかな。水原さんは結婚や具体的な将来の約束を出来ない人だって、湊が言っていたけれど。
こんなに一途な有賀さんの想いはどうなるのだろう。今は幸せでも、いつか傷付く事にならなければいいけど。
オムライスを口に運びながら、そんな事を考えていると、有賀さんが私をじっと見つめている事に気が気がついた。
「あの……どうしたんですか?」
スプーンを置きながら聞くと、有賀さんは少し躊躇いながら言った。
「秋野さん達は結婚はまだなの?」
「えっ?」
突然の台詞に驚き、高い声が出た。
有賀さんは苦笑いになる。
「そんなに驚く事じゃ無いだろ?」
「いえ、驚きました。有賀さんがそんなことを言うなんて」
お酒の席って訳でも無いのに。
「そうかな。でも皆気になってると思うよ」
「皆って……」
「だって藤原は二人の付き合いを全く隠さないだろ。堂々としてるし、あの態度から見てもいずれは結婚するつもりなんだろうと思ってたけど」
「……そうですかね?」
「ああ、藤原は考えてるんじゃないかな。社内の女性と付き合って隠さないって事はそういう事だと思うけど」
客観的に見たらそうかもしれない。でも私達の間で出たことは無かった。
以前、私の方から聞きたいと思った事は有ったけれど、その時は元奥さんの事とかに気を取られてちゃんと話し合えなかったんだった。
また聞いてみようかな。
私は雪斗とこの先もずっと一緒に居たい。
その形が結婚だったらって思う。
「秋野さん?」
「……まだ付き合ったばかりだし、具体的な話は出て無いんです」
「時間はあまり関係無いんじゃないかな? 相手を絶対に必要な人だと思ったら悩まないと思うよ」
「有賀さんは水原さんとの結婚を考えてるんですか?」
「ああ。実はそうなんだ」
屈託無い笑顔にドキリとした。
「……彼女は何て?」
「彼女も同じ気持ちだって言ってくれてるよ」
少し照れた様な有賀さんの言葉に驚愕した。
湊には未来は考えられないって言った彼女が、有賀さんとの未来は受け入れてる。
「あっ、ごめん。こんな話をして。秋野さんは話しやすいから、つい余計な事言っちゃうな」
「いえ……」
この事を湊が知ったら、どうなるんだろう。
たった独りになってしまった湊。
最後に会った荒んだ様子の湊が思い浮かんだ。
夜は冷蔵庫に有る食材で簡単な夕食を作った。
雪斗の帰りを待ち一緒に食べるとき、小さな幸せを感じる。
この時間がずっと続くといいと願いながら雪斗に切り出した。
「今日ね、有賀さんと結婚について話したんだ」
「結婚?」
「そう。私と雪斗が結婚すると思ってるみたい、会社で隠してないからそんな目で見られるんだろうけど」
話ながら回りくどい言い方をする自分にが情けなくなった。
はっきり聞けばいいのに。何、臆病になってるんだと思う。
でも、雪斗に結婚の話ってし辛くて……。
雪斗は少し考え込んでから言った。
「まあ、今は無理だよな」
「……そうだよね、仕事も忙しいし」
内心がっかりしながら頷く。
「その内考えないとな」
今は考えてないって事か……仕方ないよね。
気持ちを伝え合ってまだ日は浅いし。
こうやって一緒に住んでるだけで、凄い進歩なんだし。
でも、どんどん欲張りになってる私は寂しい気持ちでいっぱいになった。
有賀さんが言った、「相手を絶対に必要な人だと思ったら悩まないと思うよ」という言葉も頭から離れなかった。
私は雪斗にとって絶対に必要な人になれるのかな。
今、私はどれ位必要とされてるのだろう。
恋人同士でも、身体を重ねても、全てを知るのは無理だ。
それに雪斗がどんなに気持ちを伝えてくれても、受け取る側の私の心の持ちようで何もかもが変わる。
だから不安になってしまう。
恋を信じるのも、未来を信じるのも、自分自身の弱さが一番の敵なんだ。