クリスマスアドヴェントの週間に入り一つ目のキャンドルに火を灯した数日後、マザー・カタリーナは施設の倉庫の中で何やら探し物をしていた。
頼りない裸電球の明かりの下で目当てのものを探すのは随分と骨が折れる作業だったが、棚の一番下に置かれた箱を開けたとき、まるで天から差し込む光が顔に当たったときのように輝いてくる。
「……ありました」
額に汗を浮かべて埃まみれになりながら探したものは何冊かのアルバムで、大事そうに抱えて倉庫を出た彼女は建物の中から顔を出したブラザー・アーベルに何事だと笑われる。
「どうしたんですか、マザー」
そんなに埃まみれになってと笑う彼にマザー・カタリーナも笑みを浮かべ、胸に大事そうに抱えたそれを見下ろす。
「今日お客様がいらっしゃるでしょう。その方にお見せしようと思っているものです」
それはごく有り触れたアルバムのように見えた為にアルバムですかと問いかけたブラザー・アーベルは、はいと頷かれて目を細め、年代物に見えますがと問いかけつつ彼女と一緒にキッチンへと向かおうとするが庭先で何かに気付き、マザー・カタリーナをその場に待たせると建物の中に駆け戻り、再び出てきた時には埃を落とすための布を手にしていた。
「このままでは埃が舞ってしまいますね」
「そうですね」
アルバムの埃をはたき落として満足した後、二人並んでキッチンに入ると、テーブルにそのアルバムを置いて椅子に座る。
「そう言えば、今日いらっしゃる客とはどなたですか?」
「イングリッドです」
「……初めて聞く名前ですね」
マザー・カタリーナの言葉にブラザー・アーベルが小首を傾げて誰だと思案するが、ウーヴェの母だと教えられて端正な顔に驚愕を浮かべて彼女の顔をまじまじと見つめる。
「ヘル・バルツァーのお母様ですか?」
「はい。今日の夕食を一緒にと招待されているのですが、その前にこちらに寄りたいと連絡がありました」
何のために来るのかは不明だが、その時にリオンの幼い頃の写真があれば見てみたいと言われたことも伝えた後、アルバムを捲っていく彼女の顔に懐かしさが浮かんでくる。
「こんな時もありましたね」
アルバムの中の世界はモノクロだったが、中には色褪せてセピア色になっているものもあり、かなりの年数が経過していることを教えていたが、ブラザー・アーベルが何かに気付いて写真の一枚を指さしつつ笑みを浮かべる。
「これはリオンですか?」
「ええ、そうです」
ブラザー・アーベルが指さした写真の中、己の顔の半分ほどの大きさがある丸いオーナメントらしきものを持った幼児がいたのだが、その顔には幼児らしさを端的に表す笑顔や無邪気さは一切なく、事情を知らないものからすれば可愛げの無いと称されかねない表情のない顔をしていた。
その幼児の横で満面の笑みを浮かべた少し年上の少女が子どもの手を握っていたため懐かしさに目を細めつつゾフィーかと問いかけると、マザー・カタリーナも同じ表情で頷く。
「これは確か三歳くらいの冬でした。ツリーのオーナメントが気に入ったようで手放そうとしなかったのです」
それ以降、ここに飾り付けるツリーには必ずこのオーナメントを飾っているのだが、基礎学校に入るまでは本当に笑うことの少ない子どもだったと、当時を思い出して苦笑するマザー・カタリーナにブラザー・アーベルが納得したように何度も頷く。
「それでいつもボールのオーナメントを飾っているのですね」
「ええ」
「……それにしても、今から思えば信じられないですが本当に笑わない子どもだったのですね、リオンは」
オーナメントを片手に無表情に見つめる写真から何枚かアルバムを捲ってリオンが写っているものを見たブラザー・アーベルが何とも言えない困惑顔で一枚ずつ写真を見ていくが、そんな彼の困惑を遙かな過去に経験してきたマザー・カタリーナが理解出来る顔で頷く。
「そうですね。どうすれば笑うようになるのかずっと他のシスターらと話していたのですが、何をしても笑わなかった気がします」
結局、周囲の心配をよそに基礎学校に入学して間もなくの頃から急に笑うようになったが、その笑顔は随分と嘘くさいものだとゾフィーが心配していた事も思い出す。
「ある日、ゾフィーが何故急に笑い出したと聞いたら、その方が相手がこちらを甘く見る、だからケンカの時に有利になると言っていたと教えられました」
「……あの笑顔はケンカに勝つためのものだったのですか?」
「そのようですね。ケンカはいけないといつも教えていたのですが、それ以上にきっとあの子にとって我慢出来ない事があったのでしょうね」
幼い頃から表情の少ない笑うことのない子どもだったリオンが基礎学校に入るとまず施設出身という事からいじめの洗礼を受けたことは想像に難くなく、その洗礼をかいくぐる術が笑顔で相手を油断させ、その隙を突いて攻撃する事だと教えられてどのように声をかければいいのかが分からなくなったマザー・カタリーナだったが、とにかく暴力はいけませんとしか言えず、リオンが暴力反対一辺倒の言葉を素直に聞き入れる訳もなかったため、月に一度はマザー・カタリーナや他のシスターらが学校に呼び出されることになったのだ。
その当時は本当に手の付けられない子どもだと周囲に思われていたが、ゾフィーの前ではどうやら素直になるらしく、マザー・カタリーナらが学校に呼び出された翌日には申し訳なさそうな顔でマザー・カタリーナに謝罪をしてきたのだ。
「ゾフィーの言葉は素直に聞いていましたから」
同じ境遇であり経験をしてきたであろう彼女の言葉は素直に聞き入れられたようでゾフィーが叱ればしばらくの間は大人しくなったと笑う彼女にブラザー・アーベルも苦笑するが、二人が同時に思い浮かべたのはそんな彼女が永遠の眠りに就いた時の顔だったため、どちらも沈黙してしまう。
「……それで、この写真をヘル・バルツァーのお母様に見せるのですか?」
「そうですねぇ、イングリッドが見たいと言ってるので見せるつもりですが……」
リオンの許可を取っていないので大丈夫だろうかと一抹の不安を表情に浮かべて頬に手を宛がうマザー・カタリーナにブラザー・アーベルが大丈夫だろうと微苦笑するが、その時、客が来たことを子ども達が教えてくれたため、二人がテーブルから立って廊下に出る。
廊下の先には暖かそうなコートを脱いで腕に掛けたイングリッドがいて、彼女を出迎えるためにマザー・カタリーナが笑顔で廊下へと進んでいく。
「こんにちは、イングリッド」
「こんにちは、カタリーナ。今日も寒いわね」
客人が珍しいわけではないがいつもと何かが違う事を察した子ども達がイングリッドを遠巻きに見つめているが、マザー・カタリーナに笑顔で彼女が何かを差し出したあと、ありがとうございますと胸の前で手を組んで短く祈る。
「アーベル、イングリッドが子ども達にドーナツを買ってきて下さいました」
「ありがとうございます」
子ども達が喜びますと天使像そっくりな顔に笑みをたたえてマザー・カタリーナの横に立ったブラザー・アーベルは、イングリッドに自己紹介をした後で差し出されるドーナツの箱を受け取ると、様子を見守っている子ども達におやつを戴いたから礼を言いなさいと告げてキッチンに戻っていく。
「おばさん、ありがとう」
「どういたしまして。皆で仲良く食べてちょうだいね」
子ども達に笑顔で頷きマザー・カタリーナにキッチンではなく己の部屋に案内されたイングリッドは、さして広くもない部屋を見回しながらベッドに腰を下ろし、今日は無理を聞いてくれてありがとうと笑みを浮かべる。
「いえ、それは全然構いませんが、アルバムを見たいってどうしてなのか教えてもらえますか?」
今日の夕方に食事を一緒にしようとは以前からの約束だったが、アルバムを見たいとは突然聞かされたために少しだけ慌ててしまったと笑う彼女にイングリッドも笑い、懐かしいものが出てきたのでつい見たくなったと教えられてハンドバッグから一枚の写真を取り出して見せられる。
「……これはウーヴェですか?」
「ええ。クリスマスの飾り付けをしていた時のものよ」
その写真はクリスマスツリーの前で写されたもののようで、ツリーの一番上に飾る星を片手に大泣きしている栗色の髪の子どもがいて、面影があるからかマザー・カタリーナが問いかけるとイングリッドが懐かしさに目を細める。
「この星を自分の手で飾りたいって泣いてきかなかったのよ」
背後に脚立らしきものが写っているが、そこに上って自分の手で飾り付けると言って泣いて仕方が無かったと笑うイングリッドに、どこの子どもでも同じようなものだとマザー・カタリーナも笑い、小首を傾げる彼女にアルバムを取ってくる事を伝えて戻って来た時には先程ブラザー・アーベルと一緒に見ていた写真を見せる。
「これは、リオン?」
「はい。リオンはボールのオーナメントが好きで離しませんでした」
お互いの息子が幼い頃飾り付けるオーナメントを気に入り手放さなかったエピソードを披露してしまい、今の二人からは想像も出来ないことだと笑い合う。
「今のリオンの事はウーヴェから聞いて少しは知ってるけど、小さな頃はどうだったのかを知りたいと思ったの」
だから急で悪いと思ったが写真を見せて欲しいと思ったと頷くイングリッドにマザー・カタリーナも頷き、そういう事情でしたらどうぞとアルバムを示すが、ただ、今のリオンを知っている人からすれば幼い頃のあの子の話は信じられないかも知れないと不安を浮かべれば、イングリッドが頭を左右に振る。
「ウーヴェも……今のウーヴェからは考えられない子どもでした」
その事情は詳しく話すことは出来ないが、子どもの性格のまま成長した人の方が少ないのではないかと笑うとマザー・カタリーナもそうだと頷き、ベッドで肩を並べるようにイングリッドの横に座ると、膝の上で幼い頃のリオンを含めた孤児院出身の子ども達が喜怒哀楽を精一杯表現しているその時々のイベントの様子などを見ては、懐かしさに着色されている当時の記憶を思い出して楽しそうに語り合うのだった。
数冊のアルバムを見終えた頃、リオンがどのように成長し今のような性格になったのかの一端が知れたと満足そうに溜息をついたイングリッドにマザー・カタリーナが目を細め、ウーヴェはリオンから聞かされている限りでは事件を境にかなり家族関係が変化をしたそうでと問いかけると、イングリッドの顔が一瞬曇るが、次いで誇らしげな色を浮かべたため、彼女の心の中でどんな化学変化が起きたのかを知りたくなる。
「そうね、そう。この写真のように家族仲は本当に良かったわ」
だけどと言葉を繋ぎ、事件を切っ掛けにして大きく関係が変化をしたというよりは幼かったウーヴェに総てを背負わせてしまった気がすると、どれほど悔やんでも悔やみきれない過去を振り返りつつ述懐するイングリッドにマザー・カタリーナがそうでしたかと同情する顔で頷き、イングリッドの手に手を重ねる。
「ねえ、カタリーナ、リオンが本当に手の付けられない思春期を過ごしていたとき、本当に大変だったと思うわ」
「イングリッド?」
ブラザー・アーベルに持って行きなさいと言われた子どもが運んできてくれた紅茶を飲みながらイングリッドが羨ましいと溜息を零したため、羨ましいとはどういうことかと真意を知りたい一心で問いかけると、ちゃんと説明をするから聞いて欲しいと断られて表情を僅かに硬くする。
「ウーヴェは事件があった十歳からわたくし達家族に心を閉ざすようになった。あなたの子どものリオンが多感な思春期やきっと手の掛かったであろう反抗期があったようにウーヴェにもあったはずだった」
でもその人生において実は本当に大切な多感な時期をあの子は壁を作り誰にも心の中を見せずに過ごしてきたと、己の罪に打ちひしがれている顔で告白するイングリッドに何も言えずに横顔を見つめたマザー・カタリーナは、好意を持った人の話や友人達との他愛もない話等も聞かせてもらう事も出来なかったと目を伏せ、息子の進路を彼が通っていた寄宿舎を経営している友人を通して聞かされたときは本当に寂しかったと笑われて腿の上で手を握りしめる。
「クリニックの開設もそう。知人を通して教えて貰ったアリーセが教えてくれたから知ったけれど、それがなければきっと言わなかったはず」
家族でありながら遠い存在となっていたウーヴェの心がどこにあるのかを知ることも出来ず、他人よりも遠い存在だったと自嘲するイングリッドに言葉を掛けようとしたマザー・カタリーナだが、でもと言葉を続けられて口を閉ざし、彼女の本心をしっかりと聞き取ろうと真摯に向き合うためにベッドに腰掛けながら身体をイングリッドへと向ける。
「……リオンと付き合うようになってから……少しずつ変わっていったわ」
「そうなのですか?」
「ええ、そう。最初は男性と付き合うなんて想像も出来なかったから驚いたけど、アリーセに頼んでウーヴェの家に泊まりに行ってもらったとき、二人がどんな思いで付き合っているのかを知って考え方が少し変わったの」
「……」
その時に二人の身に起こったささやかな事件の一部を当時聞かされていた事を思い出し、ウーヴェの姉が突然やって来たのはそんな事情があったのかと呟いてしまい、イングリッドが少しだけ申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
「それからの二人の付き合いはあなたも知っているでしょう?」
「ええ……本当に色々なことが二人の間にあったと聞いています」
ウーヴェの過去に関係する出来事でもゾフィーが関係した事件でお互いの存在の大きさに気付かされたことやその延長とも言える先日の事件では二人に最大の不幸と最大の幸福が訪れたことも知っていると頷くと、イングリッドもうっすらと涙を浮かべながら頷く。
「本当に、不幸と幸福は表裏一体ね。どちらかだけなんてあり得ない」
「ええ……神が与える試練は本当に慈悲深いものです」
イングリッドの述懐にマザー・カタリーナが胸の前で手を組んで短く祈るとリオンと出会った事であの子は足を悪くしたかも知れないけれど、それ以上に幸せになったとイングリッドが呟き、マザー・カタリーナが目を瞠って彼女の顔を真正面から見つめてしまう。
「イングリッド?」
「……リオンと出会った事で……あの子は大きく変わったわ」
そうでしょうかとウーヴェの変化が分からないと正直に首を横に振ったマザー・カタリーナにイングリッドが大きく変わったのと繰り返し、だけど何よりも変化をしたのはわたくし達家族だと教えられて今度は先程とは違う理由の驚愕から目を瞠ってしまう。
「ウーヴェが心を閉ざしたときに止まってしまった時を進めてくれたわ」
「え……?」
「わたくし達の中でウーヴェはずっと十歳のままだった。大学を卒業してクリニックを開設した時も、子どもが初めて一人で出かける時にハラハラする、そんな心配をついついしていたのよ」
それはさっきも言ったがウーヴェの多感な時期をイングリッドら家族は傍にいることも出来ずにただ遠巻きに見守ることしか出来なかった事から、いつまで経っても家族の中でウーヴェは十歳前後のまま時を止めていたが、昨年の秋にリオンがその時計の針を多少強引とはいえ進めてくれた結果、ウーヴェと家族が同じ時を歩めるようになったのだと少しだけ興奮気味に語ったイングリッドにマザー・カタリーナが呆然と目を瞠るが、幼い頃から問題ばかりを起こしては周囲に迷惑を掛け、支援者からも見捨てられそうになったリオンが社会的に地位のある女性から褒められている事実にただ驚いてしまう。
「あなたの息子がわたくしの息子だけではなく家族までも変えてくれたのよ」
手を焼いた思春期や反抗期を乗り越え社会人として働き出してからは落ち着き人の心が分かるようになってきたであろうあなたの息子が、誰も出来なかった事を容易くやってのけたのだと褒められてようやく実感したのか、マザー・カタリーナの顔に自慢げな笑みが浮かび上がる。
「人の心を変える事は本当に難しいこと。でもリオンはそれをしてくれたわ」
ウーヴェが苦しみ涙を流すことになったとしても、それを乗り越えれば必ず笑えると信じてくれた、人を信じ抜く力を持った強い男だと笑うと、マザー・カタリーナの頭が何度も上下する。
「ええ、ええ」
リオンは、あの子は自分が大切に思う人のことは最後まで信じ抜き支えることの出来る強い男ですと頷くと、イングリッドがマザー・カタリーナの手に手を重ねる。
「そんな男を育てたのはあなたですわ、マザー」
「イングリッド……」
「一体どのような方がリオンを育てたのか、すごく興味があったわ」
だから結婚式の後のパーティでもそれ以外でもお食事に誘っているのだとここの所のイングリッドからの誘いの理由を教えられてそんな事情があったのかと目を丸くすると、最初はそうだったが話をしている内に当初の理由など忘れ去ってしまったと笑う彼女に頷き、他の子ども達もそうだがリオンはわたくしの自慢の息子ですと胸の前で手を組みながら目を伏せる。
イングリッドが先程言ったようにリオンの反抗期は本当に手の付けられない時期で、毎日毎日彼との関係に悩み溜息ばかりついていたが、それを通り過ぎた今、こうしてリオンを褒めてくれる存在がいることであの苦しかった時間が一気に昇華された気分になる。
「ありがとう、イングリッド」
わたくしの息子を認めてくれてありがとうとイングリッドに礼を言ったマザー・カタリーナは、ゆっくりと首を左右に振って礼を言いたいのはこちらだと返されたことに目を細め、お互い様だと笑い合う。
「今日の食事はゲートルートだと聞きましたが……」
つい先日も雑誌で紹介されていたが良く予約が取れたものだと感心したマザー・カタリーナにイングリッドが茶目っ気たっぷりに片目を閉じる。
「ベルトランはウーヴェにとって同年の兄弟のようなもの。家族同然よ」
だからではないがいつ電話をしても予約で一杯になっていようが都合を付けてくれると笑うイングリッドに確かにそうだと頷いたマザー・カタリーナは、では今日も心置きなく美味しい料理を楽しめるのかと問いかけ、もちろんと息子を褒めるような顔で頷かれる。
「リオンが迎えに来てくれる事になっているけど、まだ時間があるからもう少しお話していましょう」
あなたが見せてくれたアルバムももう一度見たいと笑う彼女に同じ顔で頷いたマザー・カタリーナは、リオンが迎えに来てくれるまでアルバムの中で様々な顔を見せてくれる子ども達の昔話で盛り上がってしまうのだった。
ゲートルートで今日のお薦めだとベルトランが自慢げに出してくれた料理は自慢するだけの事はあり、皆をいたく満足させるものだった。
ウーヴェが来るときには定番になっているリンゴのタルトを運んできたベルトランが今日の料理はどうだったと問いかけながら皆の顔を見つめるが、美味かったの一言しか返ってこないことに少しの淋しさとそれを遙かに上回る嬉しさに顔を綻ばせながら厨房に戻っていく。
「なー、ムッティ」
「どうしたの?」
リンゴのタルトを食べたいウーヴェがリオンの前の皿にそうっと魔の手を伸ばしてくるのを何とか押しとどめていたリオンが、ホームに迎えに行ったとき随分と楽しそうにマザーと話をしていたが一体何の話で盛り上がっていたと頬杖をつくが、その隙を突いたウーヴェがタルトを見事に奪い取ったことに気付いて蒼い目を限界まで見開く。
「オーヴェ! 俺のタルトを持っていくなよっ!」
「何だ食べるのか?」
「当たり前だろー!」
リオンの悲鳴混じりの声にウーヴェが胡乱な目つきで己の伴侶を見つめるが、まだ食べていないからてっきり俺に食べてくれと言いたいのかと思ったと舌を出すと、どの口がそれを言うんだよとリオンが嘆くふりをする。
「俺のじゃなくて親父のタルトを取れば良いじゃねぇか」
「おい、どういう意味だそれは」
リオンの不満タラタラの言葉にレオポルドが目を瞠ってリオンを睨むが、ウーヴェがそんなことは出来ないと返し、レオポルドが勝ち誇った顔で再度リオンを睨むが、次いで聞こえてきた言葉に二人が顔を見合わせたかと思うとほぼ同時にウーヴェを見つめる。
「父さんの分は……持って帰って家で食べる」
「オーヴェぇ!?」
「お、おい、ウーヴェ……」
持ち帰り用の箱に詰めて貰うと笑う息子に何も言えなかったレオポルドだが、イングリッドとマザー・カタリーナがそんな男連中のやり取りを心底楽しそうに見つめている事に気付き、何が楽しいのかと妻に詰め寄ってしまう。
「リッド、そんなに楽しいのか?」
「なぁんで笑ってんだよ、マザー」
それぞれの夫と息子に詰め寄られた二人はそれはそれは綺麗な顔で楽しいのだから仕方が無いと返すと、事の発端を作った割には一人涼しい顔でタルトを食べているウーヴェへと顔を向け、美味しいかと問いかける。
「……美味しい」
「そう、良かったわね、ウーヴェ」
ウーヴェが幸せそうにしているのが何よりも嬉しいと二人の母が顔を見合わせて頷き合う横では、そのウーヴェによって小さな不幸に見舞われたレオポルドとリオンが何とも言えない顔で肩を落としているのだった。
「カタリーナ、今日は楽しい時間をありがとう」
「こちらこそありがとう、イングリッド」
レオポルドとイングリッドを迎えに来た車の傍で互いの背中を抱き合って今日の充実した時間に感謝の言葉を伝え合った二人の母は、それぞれの息子が己を呼んだことに気付いて今度は息子の背中を優しく抱きしめる。
「ウーヴェ、マザーをちゃんと送って差し上げるのよ」
「分かってる。母さんも父さんを頼む」
タルトを食べられなかったショックが大きいようだとさすがに悪いと思っているウーヴェが声を潜めると、気にしなくて良いと笑われる。
「今日は楽しかったわ。今度はあなたの家に招待してちょうだい、ウーヴェ」
「分かった。……父さん、今日はありがとう……おやすみ」
「おぉ、今日は楽しかったな。おやすみ、ウーヴェ」
リオンが力を貸してくれたおかげで本当の意味で乗り越えられた過去、その成果が窓から顔を出す父へのおやすみのキスであり、頬に受ける返礼のキスだと気付いているウーヴェは、母にも同じようにキスをした後、背後で待ってくれている伴侶とその母に向き直る。
「では行きましょうか」
「ええ、お願いしますね、ウーヴェ」
迎えの車に乗り込んだ父と母を見送った三人はもう一人の母を今度は送り届ける番だと笑い、白いクーペの後部席にマザー・カタリーナを座らせると、助手席にウーヴェが、次いでリオンが運転席に乗り込む。
「なー、マザー、さっきも聞いたけどさ、マジでムッティと何の話してたんだよ?」
「そうですねぇ、わたくしもイングリッドも自慢の息子がいるという話でした」
「は? 何だそりゃ?」
運転しつつ気軽に問いかけたリオンにマザー・カタリーナが目を伏せて返すが素っ頓狂な声とウーヴェが半ば振り返りつつ見つめてきた為、胸の前で手を組んで短く祈りを捧げる。
「こんなにも親孝行な息子が二人、本当に自慢の息子達です」
「……マザー」
「……尻がむずむずするから止めろよ、マザー」
そんな手放しで褒められると尻の辺りがむずむずしてくると実際にシートの中でもぞもぞするリオンにマザー・カタリーナが事実だから仕方が無いと笑い、安全運転でお願いしますと伝えるとそれを実行してくれる頼もしい息子達に運転を任せ、ゆったりとシートにもたれ掛かるのだった。
安全運転で送り届けてくれたリオンとウーヴェにそれぞれキスをしておやすみの言葉を届けた後、車が見えなくなるまで見送ったマザー・カタリーナは、まだ起きて作業をしているブラザー・アーベルの姿がキッチンにあることに気付き顔を出して今帰ってきたことを伝える。
「お帰りなさい、マザー。料理はどうでしたか?」
「ええ、それはもう美味しかったし楽しかったですよ」
「そうですか」
それは良かったと心の底から思ってくれているブラザー・アーベルに頷き、リオンもウーヴェも本当に自慢の息子ですと笑うと、意味が分からないなりにもマザー・カタリーナが楽しい時間を過ごした事が嬉しいと言うようにブラザー・アーベルが再度頷く。
「そうそう、ビルギッタがバザーのことで相談したいと言ってましたよ」
「そうですか。では明日相談しましょう」
今日は本当に楽しかったのでその気持ちのまま寝る事にしましょうと笑うとブラザー・アーベルも是非そうして下さいと笑みを浮かべ、お休みなさいとキッチンから出て行く彼女の背中に声を掛けるのだった。
自室に戻りベッドに腰掛けたマザー・カタリーナは、今日は本当に楽しかったと小さく呟き、ベッドサイドに置いたナイトテーブルの上の写真に笑いかける。
「お休みなさい、ゾフィー」
小さな頃問題ばかりを起こしていたリオンだったが、今では立派な大人になっていて褒められたことが嬉しいと笑うと、本当にと嬉しそうな娘の声がどこかから聞こえてくる。
「本当に嬉しいことです」
その声に何度も呟いた言葉を返したマザー・カタリーナは、就寝の準備に取りかかるとさほど時間も掛けずにベッドに潜り込み、幸せな気持ちのまま眠りに就くのだった。
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