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「あの子の解剖学」
第1話:偽りの救済
その日も、尖崎灰次は呼吸の仕方を忘れていた。
教室という箱の中は、いつも酸素が薄い。笑い声が耳に刺さるたび、肺が縮む。視線が絡むたび、心臓が嫌な音を立てる。
——また、何か言われる。
そう思うだけで、指先が冷たくなる。
机の上に置いた教科書は開かれているのに、文字は一切頭に入ってこない。黒板の音も、教師の声も、すべてが遠くにある。
ただ一つ、はっきりしているのは。
ここにいてはいけない、という感覚だけだった。
「ねえ、それ触らないでくれる?」
不意に、背後から声が落ちた。
灰次の肩が跳ねる。
振り返る前に、分かる。
自分に向けられたものだと。
「汚れるからさ」
笑い声が重なる。
軽い調子なのに、逃げ場がない。言葉は柔らかいのに、棘がある。
灰次は、何も言えなかった。
謝ることも、否定することもできない。ただ、手を引っ込める。
それだけで、いい。
それ以上を求められたことは、一度もない。
——終わったら、行こう。
灰次の頭の中にあるのは、それだけだった。
校舎裏の非常階段。
踊り場の、誰も来ない場所。
あそこだけが、唯一の「安全」だった。
授業が終わると同時に、灰次は立ち上がった。
誰とも目を合わせず、音を立てないように教室を出る。
背中に視線を感じても、振り返らない。
走りたい衝動を押し殺しながら、階段を降りる。
廊下を抜け、扉を押し開ける。
外の空気が、肺に流れ込む。
それだけで、少しだけ楽になる。
非常階段の踊り場に座り込むと、全身の力が抜けた。
膝を抱え、額を押しつける。
ここなら、誰も来ない。
誰も見ない。
——大丈夫。
何度も、心の中で繰り返す。
だが、その「大丈夫」は、どこにも根拠がなかった。
足音がした。
静かな空間に、不自然なほどはっきりと響く音。
灰次の体が強張る。
逃げるべきか、それとも動かない方がいいのか、判断が追いつかない。
足音は、止まらない。
ゆっくりと、近づいてくる。
「……こんなところにいたの」
声は、驚くほど柔らかかった。
灰次は顔を上げる。
そこに立っていたのは、葛城藍だった。
光の中にいるような存在。
教室の中心で笑っている側の人間。
灰次とは、何もかもが違う。
「かわいそうに」
藍は、そう言って微笑んだ。
その言葉は、同情だった。
上からの視線だった。
だが。
灰次の中で、それは初めての「肯定」になった。
藍が、一歩近づく。
逃げなければならない。
そう分かっているのに、体が動かない。
手が、伸びてくる。
細くて、白い指。
「怖がらなくていいよ」
その手が、灰次の手に触れた。
冷たかった。
けれど、確かにそこにある温度だった。
——離さない。
気づけば、灰次の指が絡みついていた。
必死に、縋るように。
逃げられる前に、消えてしまう前に。
藍の目が、わずかに細められる。
その変化に、灰次は気づかない。
「大丈夫。私がいるでしょ」
その言葉は、救いだった。
少なくとも、灰次にとっては。
だが。
(——ああ)
藍は、内心で静かに息を吐いた。
これは、いい。
指先に伝わる震え。
力の入れ方すら分からない、不器用な縋り方。
壊れかけているのに、完全には壊れていない。
——面白い。
今までの「それ」とは違う。
少し優しくすれば笑うだけの人間ではない。
距離を取れば勝手に崩れるだけの存在でもない。
もっと、深い。
「名前、教えて?」
藍が尋ねる。
灰次の喉が、かすかに動く。
「……とげざき、はいじ」
か細い声。
消えそうな音。
藍は、ゆっくりと頷いた。
「そっか。ハイジっていうんだ」
その呼び方に、ほんの少しだけ親しみが混ざる。
それだけで、灰次の呼吸が乱れる。
「私は藍。葛城藍」
名乗りながら、藍は手を離さない。
むしろ、ほんの少しだけ強く握る。
——逃がさないように。
灰次は、それを「優しさ」だと思った。
藍は、それを「固定」だと理解していた。
「ねえ、ハイジ」
藍の声が、少しだけ低くなる。
「もう、一人でいなくていいよ」
甘い言葉。
拒絶しようのない提案。
灰次の視界が、滲む。
——助けて。
その言葉は、口には出なかった。
けれど、指先がすべてを語っていた。
藍は、それを見逃さない。
(この子は)
確信する。
(私がいないと、生きられない)
その事実が、静かに胸に沈む。
同時に、微かな熱が灯る。
それは、これまで感じたことのない感覚だった。
支配欲とも違う。
観察欲とも違う。
もっと、粘ついた何か。
藍は、その正体をまだ知らない。
ただ一つ、分かっている。
——これは、手放してはいけない。
「一緒にいよう」
囁くように言う。
灰次は、何度も頷いた。
壊れた人形みたいに。
それでいい。
藍は、微笑む。
外では、風が吹いている。
校舎の中では、いつも通りの時間が流れている。
だが、この場所だけは。
すでに、少しだけ壊れていた。
救いの形をした何かが。
確実に、歪み始めていた。
#百合