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第2話:隔離と選別
次の日、尖崎灰次は教室の扉の前で立ち止まっていた。
昨日と同じ空間のはずなのに、まるで別の場所のように感じる。
理由は、分かっていた。
——藍がいる。
それだけで、この場所の意味が変わってしまった。
扉に手をかける。
開ければ、いつも通りの地獄がある。
だが、昨日と違うのは。
その地獄の中に、“逃げ場”があることだった。
教室に入ると、数人の視線がすぐに刺さる。
「うわ、来た」
「まだ学校来るんだ」
小さな声。だが隠す気もない。
灰次の足が止まりそうになる。
——戻りたい。
そう思った瞬間。
「おはよう、ハイジ」
柔らかな声が、空気を切り裂いた。
全ての視線が、一斉にそちらへ向く。
葛城藍。
窓際の席で、いつも通りに微笑んでいる。
その一言だけで。
教室の温度が、変わった。
「……え?」
「なんで、あの子に話しかけてるの?」
ざわめきが広がる。
灰次は、動けなかった。
自分に向けられることのなかった種類の言葉。
それが、信じられない。
「こっち来なよ」
藍が手招きする。
拒否という選択肢は、灰次の中に存在しなかった。
足が勝手に動く。
周囲の視線が、刺さるように痛い。
だがそれ以上に。
藍から目を逸らせなかった。
席の横に立つ。
何をすればいいのか分からないまま、ただ立ち尽くす。
「隣、空いてるでしょ?」
藍が当然のように言う。
クラスの誰かが、小さく舌打ちした。
灰次は、ゆっくりと座った。
心臓の音が、うるさい。
「大丈夫?」
小さな声で、藍が囁く。
その距離の近さに、息が詰まる。
「……うん」
かすれた声で返す。
藍は満足そうに微笑んだ。
(簡単だな)
内心で、静かに思う。
昨日触れた時点で、ほとんど終わっていた。
あとは、少しだけ環境を整えるだけでいい。
——逃げ場を、私に限定する。
それだけだ。
「ねえ」
藍が、わざと少し大きめの声で言う。
「ハイジ、昨日一緒に帰ったんだよね」
教室が静まり返る。
事実ではない。
だが、そんなことは関係ない。
重要なのは、“そう見える”こと。
「……え、なにそれ」
「マジ?」
ざわめきが、質を変える。
単なる嘲笑から、異物を見る目へ。
灰次の喉が詰まる。
否定しなければ。
そう思うのに。
「ね?」
藍が、軽く手を握る。
その瞬間。
言葉が、消えた。
「……うん」
気づけば、頷いていた。
——終わった。
どこかで、冷静な自分がそう思う。
もう、戻れない。
だが同時に。
指先の温度が、妙に安心を与えていた。
(ほら)
藍は、内心で笑う。
(選んだ)
強制ではない。
この子は、自分でこちらを選んだ。
それが、何より重要だった。
授業中も、休み時間も。
視線は消えない。
むしろ、増えている。
「感じ悪いよね」
「調子乗ってない?」
今までとは違う種類の言葉。
敵意が、はっきりと形を持っている。
灰次の呼吸が、浅くなる。
だが。
隣に、藍がいる。
それだけで、完全には崩れない。
「気にしなくていいよ」
藍が、優しく言う。
「そういうの、くだらないから」
正論だった。
だからこそ、残酷だった。
灰次には、それを無視する強さがない。
「でも……」
小さく呟く。
藍は、少しだけ首を傾げた。
「ハイジは、私がいればいいでしょ?」
さらりと、言う。
逃げ道を塞ぐように。
灰次の思考が止まる。
それは、極端な言葉だった。
普通なら、拒否するべきもの。
だが。
——正しい。
そう思ってしまった。
他に、何もない。
他に、誰もいない。
なら。
それでいい。
「……うん」
再び、頷く。
藍の指が、わずかに強くなる。
(完成が早いな)
予想以上だった。
もっと時間がかかると思っていた。
だがこの子は。
思っていたより、壊れやすい。
そして。
思っていたより、“自分で壊れに来る”。
それが、たまらなく愛おしい。
放課後。
灰次は、また非常階段にいた。
だが昨日と違うのは。
隣に、藍がいることだった。
「ここ、好きなの?」
藍が尋ねる。
灰次は、少し迷ってから頷いた。
「……誰も来ないから」
正直な答え。
藍は、それを聞いて。
静かに笑った。
「そっか」
その声は、柔らかい。
だが。
「じゃあ、もう来なくていいね」
言葉は、冷たかった。
灰次が顔を上げる。
「ここは、“一人でいる場所”でしょ?」
藍が、当然のように言う。
「でもハイジは、もう一人じゃない」
逃げ場を、否定する。
ゆっくりと。
確実に。
「だから、ここは必要ないよ」
にっこりと笑う。
優しさの形をした、切断だった。
灰次の中で、何かが揺れる。
ここは、大事な場所だった。
唯一の、安全だった。
それを、失う。
怖い。
だが。
藍がいる。
なら。
それでいい。
「……うん」
三度目の肯定。
その瞬間。
灰次の世界から、“逃げ場”が一つ消えた。
藍は、それを確認するように、手を握る。
(いい子だ)
心の中で、優しく撫でる。
同時に。
ほんの少しだけ。
満たされる。
——この子は、私のものだ。
その実感が、ゆっくりと広がる。
だが。
それでも、足りない。
もっと。
もっと深く。
壊して。
閉じ込めて。
逃げられないようにしなければ。
「ねえ、ハイジ」
藍が、静かに囁く。
「これから、もっと一緒にいようね」
その言葉に。
灰次は、迷いなく頷いた。
——それが、何を意味するのかも知らずに。
風が吹く。
非常階段の扉が、わずかに軋む。
その音は、まるで。
何かが、完全に閉じたことを告げているようだった。