あんなに長い間、決断出来なくて悩んでいたのに、別れはあっけなく訪れた。
長い付き合いの恋人は、思いやりの無いただの同居人に変わってしまった。
「おはよう」
湊は何事もなかった様に挨拶して来るし、態度も対して変わらない。
私は……とても普通に接することは出来なくて、自分の部屋に引きこもってばかりいる。
それでも湊の事が頭から離れなくて、気付けば気配を追い、リビングで堂々と彼女と電話している事に気付いてしまって落ち込んだりと、心が休まらない日々だった。
湊への想いは複雑だ。
今は怒りや恨む気持ちが強い。
でも彼女とのことを考えると、どうしようもなく嫉妬する。
嫌いだけど好き。
反対の感情だけど、どちらも湊に対して強い感情を向けている証で、彼に対して無関心になれない自分がいた。
仕事は相変わらず忙しい。
藤原雪斗は私と湊のもめごとを知っているはずだけど、関係無いとばかりに仕事を振って来る。
大変だけど当たり前の事だし、変に同情されたり詮索されるよりずっといい。
会社に居る時だけは、少し気が楽だった。
でも明日は土曜日だから湊も休みかもしれない。帰りたくない……。
定時が近付くにつれ息苦しくなる。
「秋野、今日残業出来るか?」
だから藤原雪斗に聞かれ、迷い無く頷いた。
「Y社にいくつか試作品を出す事になった。秋野はカタログを作っておいて」
藤原雪斗はそう言うと、忙しそうに電話を始めた。
私は言われた通り資料を見ながらカタログの入力を始める。
藤原雪斗の渡して来る資料は他の人と違って不備が無いから、スムーズに作業が進む。一時間も有れば終わりそうだった。
その後はマンションに帰らないといけない。
気が重い。毎日顔を合わせてしまうから、いつまでも気持ちを切り替えられない。
湊が気になって思い切り泣くことも出来ないし、何をしても存在を忘れられない。
湊は別れたことなんて気にも留めてないみたいで楽しそうにしてる。
そんな姿を見る度に、自分が情けなくなって落ち込んでしまう。
早く別々に暮らしたい。そうしないと、私はいつまでも立ち直れない。
もうこれ以上心を乱されたくない。
最後のカタログを入力し終えると溜め息が漏れた。
「終わりました」
報告に行くと藤原雪斗はPCから私に視線を移した。
「助かった、悪かったな急な残業頼んで」
「いえ、仕事ですから」
それに個人的にも都合が良かったし。
「他にやる事有りますか?」
「いや……」
「では私は帰ります。お疲れ様でした」
向きを変え自分の席に戻ろうとすると、
「……お前、その後大丈夫なのか?」
藤原雪斗に話しかけられた。
もう一度彼に向き直る。
その雰囲気から仕事の話じゃなく、湊の事を言ってるんだと分かった。
「……この前は迷惑かけてすみませんでした」
ちゃんとお礼をしていなかった事を思い出し、頭を下げると藤原雪斗は顔を曇らせた。
「そんなのはどうでもいいんだよ。もう大丈夫かって聞いてんだよ」
「……大丈夫です」
「和解出来たのか?」
「いえ……あの後、別れました」
感情を出さない様に努力して淡々と言う。
藤原雪斗は驚いたのか、珍しく顔色を変えた。
「……そうか」
「はい……」
……沈黙。藤原雪斗は何か考え込む様に黙ってしまったし、私も話題的にペラペラ話す気になれない。
「あの、他にないようでしたら、お先に失礼します」
一応声をかけてから帰ろうとすると、藤原雪斗が顔を上げた。
「秋野、お前――」
「藤原君!」
何か言いかけた言葉は、高い声に遮られた。
「真壁?」
藤原雪斗の呟きに、私も視線を追う様に振り返る。
フロアの入り口にはスーツ姿の真壁さんが立っていた。
外回りの帰りなのか右手に大きな手提げを持っている。製品のサンプルが袋から少し見えた。
「お疲れ様です」
真壁さんは私に小さく頷くと、藤原雪斗に向けて言った。
「藤原君、少し相談が有るんだけど。仕事の関係で」
「仕事?」
「ええ、ちょっと困った事になって」
「……分かった」
藤原雪斗は真壁さんにそう言うと、私に言った。
「秋野はもう帰っていい。お疲れ様」
「……お疲れ様です」
藤原雪斗が何を言いかけたのか気になったけれど、帰るしかない雰囲気だった。
フロアに二人を残し、私は憂鬱なマンションに帰る為会社を出た。
マンションの玄関のドアを開ける時、身体も心も凍ったようになる。
冷たくて少しも安らげない家。
それでも他に行く所も無いから鍵を開けて中に入る。
リビングの灯りが点いていて、気分が沈んだ。
こんな状態になったのに、湊は以前より早く帰って来る。
そしてなぜかリビングに居る事が多いから、私は自分の部屋に籠もる事になる。
どうして私がコソコソしなくちゃいけないのかと思うけど、顔を合わせたくないのは私の方だから仕方ない。
湊は全然気にしてないみたいだし。
「お帰り」
何の躊躇いも無く声をかけて来るけど……少しは別れたんだって事を考えて欲しい。
それもすごく険悪な喧嘩をして、大きな溝が出来た私達なのに。
「ただいま」
一応そう答えたけれど、不満が顔に出てしまったようで湊は顔を曇らせた。
「感じ悪いな。何でそんな機嫌悪いんだよ」
何で? 言わないと分からないのだろうか。
湊からは想像力って能力が無くなってしまったの?
帰りに買って来た、ミネラルウォーターを冷蔵庫に仕舞いながら考える。
でも、湊の事はもう分からない。
「何か作るのか?」
湊も私の気持ちなんて分からないようで、手元を覗き込んで来た。
「作らないけど」
素っ気無く答える。
「最近料理しないんだな」
「食べて来たから」
嘘だけど、食欲が無いし今日は夕食は抜こうと思った。
「何だ。余ったら貰おうかって思ってたんだけど」
軽く言う湊に一気に苛立ちが湧き上がった。
「ねえ、家探してるの?」
自分で思っていたよりキツイ声になってしまった。
湊は驚いたように私を見る。
「私達別れたんだよね? それなのに何で平気で話しかけて来られるの? 食事の支度だってもう必要無いって言ってたでしょ? それなのにどうして貰おうなんて発送になるの?」
捲くし立てる私を見て、湊は不快そうに顔をしかめた。
「賞与が出たら引っ越すって言っただろ?」
「そうだけどこんなのやっぱり不自然だよ。別れたのに一緒に住んでるなんて……湊の会社に寮が有ったでしょ? 入れないの?」
「今更入れる訳無いだろ? それにここは美月の名義で借りてるけど家賃は俺も半分払ってる。俺にも住む権利は有る」
湊は声を荒くして言う。
「それなら……もうちょっと考えてよ。私達はもう友達ですら無いんだから遠慮して!」
私も負けないくらい、強く言い返す。
そして湊が言い返して来るより早く、自分の部屋に入り鍵をかけた。
最悪。最悪。
どうしてこんな風になってしまうんだろう。
今の湊に何か言っても傷付くだけだって分かってるのに、それでも我慢出来なくて喧嘩を売ってしまって。
今更喧嘩したって何も解決しないし、変わらないのに。
皮肉な事に、別れる前より私達は本音をぶつけ合ってる。
敵意とか怒りとか……悪いことばかりだけれど、それは間違い無く湊の、それから私の本心。
でも本心が分かったところで意味が無い。
もう湊との未来は無いんだから、何にも活かせない。
しばらくすると、湊の声が聞こえて来た。
また彼女と電話してるのか、さっきとは正反対の優しい声
彼女にはきっと優しくて無償の愛情を注いでいるんだろうな。
以前は私にも凄く優しかった。
まだ仲が良かった頃……学生だった湊はよく会社まで迎えに来てくれた。
休みの日は気分転換しようって連れ出してくれて……毎日が楽しくて幸せだった。
それがこんな風になってしまうなんて。
……私が彼女の事を騒ぎ立てなかったら、違う結果になっていた?
でも、あの時は耐えられなかった。
そして今も。
彼女の顔まで見てしまったのに、知らない振りをして暮らすなんて私には出来ない。
後悔しても私達にはこの結果しかないんだ。
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