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ビルとビルの間にカラスが飛び交った。
交差点ではクラクションが鳴る。
少し離れたところから救急車のサイレンが響いている。
歩行者信号機が青になった。
点字ブロックの上で青になるのを待っていた。
ハイヒールが地面に打ちつける。
A4ファイルが入るバックを肩にかけて持ち直した。
今日は、就活で初めて受かった会社の出勤日。
何度も何度も繰り返し面接を受けてきて、やっと受かった。
お祈りメールやわざわざ電話で断るのを聞いた。
胃がもたれるくらいのストレスだ。
採用しますという一言を聞いただけで生きた心地がした。人間として存在していいんだと光が見えた気がした。
大きな商業ビルの23階。受付で来客用社員証を渡されて、エレベーターに乗る。乗ろうとした瞬間に後ろから誰かが慌てて入ってくる。急いで、開くボタンを押した。
「あ、すいません。ありがとうございます」
息を荒くさせて、パタパタと持っていた書類をうちわがわりにあおいだ。
ギリギリセーフで間に合ったというところ。
「いえ……」
23階のボタンをすでに押していると、
「あれ、もう、ボタン押してる。あー、君も23階?」
「はい」
「見ない顔だよね……名前もまだ名札配られてないか」
「……えっと、23階はファーストトレード株式会社で合ってますか」
「ああ、そうだけど。もしかして、新人?」
ピロンと音が鳴った。エレベーターが23階に着いた。名前を言おうとすると一緒にエレベーターに乗っていた男性は、ささっとデスクの方へ急いで駆け出して行った。
「あ……」
1人ポツンと残った。オフィスフロアに着いて、ぐるぐると辺りを見渡した。
面接した会場とは別の場所だったため新鮮だった。
電話のコールがあちこちで鳴り続ける。
少し奥にパーテーションで区切られているたくさんのデスクがあった。
受付には看板が大きくあった。
(ここが私の働く場所……)
くるくるカールの化粧を厚めにした受付の女性がこちらをチラッと見た。
「あー、もしかして、新人さんかな?」
「あ、はい。今日からこちらで働くことになりました。楠 紬と言います。よ、よろしくお願いします。」
イントネーションと声の大きさが緊張のあまり不安定だった。
「ふふふ……可愛い。お話は聞いてました。こちらにどうぞ」
受付近くの応接室に案内された。
「今、担当の者が来ますから、待っててくださいね。私は、受付担当の坂本 祐子です。よろしくね」
手早く湯呑みに入った緑茶がテーブルに置かれた。ぺこりとお辞儀した。緊張して挨拶さえも忘れていた。
「はいはいはい。えっと……なんだっけ」
履歴書が挟まったクリアファイルをデスクの棚から取り出した。
「佐々木部長?」
「え、あ、坂本さん、どうかした?」
「いらっしゃいましたよ。新人さん」
「だよね、時間通りじゃん。って、さっき初めての人に会った気がするけどてかさ、俺、これから会議もあるからさ。
もう、ミッション多すぎ。ちくしょー。んで、どこに?」
「部長、落ち着いて。お茶、置いてましたから」
「ああ、ごめん。ありがとう。今行くわ」
部長の佐々木は、デスクに外した社員証を付け直して、紬のいる応接室に向かう。
「お待たせしました。総務部 部長の佐々木 拓海で……す。あ、あれ」
拓海は、手元にある履歴書と本人の顔をマジマジと照らし合わせた。
「は、はじめまして。楠 紬です。よろしくお願いします!!」
緊張のあまり、顔を見ずにお辞儀をした。
拓海は、一瞬何も言えなくなった。応接室の席にゆっくり座る。
「はじめてじゃないけどな」
受付の坂本が淹れたお茶を飲んだ。
「……え」
「さっき、エレベーターで会ったでしょう」
「へ、あ、すいません。気づきませんでした」
「だよね、顔見てなかったもんね」
「問題ありましたか?」
「そうだなぁ、明日から来なくていいよ?」
「え?!」
「嘘だよ。本気にすんなよ」
急にフランクに話す。
「さてと……。楠 紬さんね。今日は初日だから、とりあえず、会社の中案内するわ。着いてきて」
「はい」
立ち上がり、デスクフロアの通路を歩く。パーテーションで区切られたパソコンの前に案内された。
「ここ、楠さんのデスク。私物の置きすぎに注意ね。紛失事件が勃発するから。な? 田村」
隣にかなりの可愛いグッズを揃えている女性社員の田村は、ぎくっとびっくりさせていた。
「えー、そんなことないですよ。パンダちゃんがいなくなったことくらい根に持たないてください」
「あれ、探すの大変だったんだぞ! って、ガチャガチャのフィギュアを飾りすぎて、無くすってことが起きて、社員一同になって探したって……結局は田村のポケットにあったっていう話だ。楠さんも気をつけて」
可愛い話を聞いてちょっとおかしくなった。
「そんな面白いか? まぁ、いいや。次行くよ」
拓海は、長い通路をどんどん進む。
「楠さんのお父さんってプログラマーの仕事してるんでしょう」
「はい、そうですけど」
「お母さんは、元広告代理店で働いてた人?」
「……はい。どうして、そんなに詳しいんですか?」
「いや、まぁ。俺のポジションになるといろいろ情報を得られるっていうか」
「え、そうなんですか?」
「嘘だよ」
「……はぁ、嘘ですか」
拓海は、腕時計を見て、時間を確認する。
「ごめん、楠さん。俺、すぐ会議に参加しなきゃないんだ。受付のさっきのおねえさんいるっしょ」
「坂本さんですか?」
「坂本さんに声かけて仕事もらってくれない? ごめんね」
仕事がたくさんある人なんだろうなと思った紬は、ため息をついた。
頬をポリポリとかいて、受付の坂本のところに行く。
「すいません、佐々木部長から言われまして、仕事もらってくださいってことなんですが」
「えーーー、部長。私に許可なしに言ってくるの? もう……」
坂本は感情むき出しに不機嫌になる。
「仕方ないなぁ。ほら、おいで。新人さん」
「はい」
紬は、坂本の後ろに着いて歩く。給湯室に向かった。
「あのさ、新人さん。最初から何もできないってわかってけどさ。今日から出勤なんだからぼんやり立ってるのはやめてね。
社会人だから。学生じゃないよ」
「は、はい。ご指導ありがとうございます」
「……うん、別に指導してないけど、当たり前のこと言ってるだけ」
「はい」
「あと、その体育会系みたいな返事もやめてくれない。それ、好きじゃないかな、私」
「すみません」
「はい、これ、コーヒーの詰め替えをこの瓶に入れる作業してね」
「えーと、承知しました」
紬は、はいというなと言われたため、なんと言えばわからなくなる。
「は?承知しましたって、どういうこと?」
「い、いえ……。あの、わかりましたってことです」
「そんなの知ってるわよ。いいから、いれてくれる?」
「………」
喋るのも嫌になった紬は、黙ってインスタントコーヒーを
瓶に詰め替える作業をした。
「あと、これ」
三角コーナーにある生ゴミの網を指差す。紅茶のティーパックや緑茶の茶殻が入っていた。
「これは、ビニール袋にいれて捨ててね。あと、これとこれ」
生ごみの他に食器かごに入ったマグカップや湯呑みを指差す。
「これは?」
「は? 乾いてるんだから、食器棚に置くに決まってるでしょう」
「あ、はい」
棚に急いで置く。何だか、陰湿な雰囲気が漂った。喉がごくりと言った。
どれくらいの時間を坂本と過ごしただろう。紬は、声を発することが怖くなった。
そこに拓海が戻ってくる。
「お? 仕事やってるね」
「ちょ、部長。全部、仕事私に振りすぎですよ!」
「ごめんごめん。ありがとうな。楠さん、あと、それ終わったら帰っていいよ。初日だからね」
「……」
静かに頷いた。何かあったのだろうかと疑問符を浮かべる。
坂本は面倒くさそうに舌打ちを打ちながら、自分の持ち場に戻っていく。
紬は給湯室に1人取り残された。
その様子を見て、拓海は何かまずいことしたかなと紬の横に立つ。
「楠さん、大丈夫?」
資料を片手に紬の顔をのぞく。
目がうるうるとなっている。
「……だ、大丈夫です」
「何かされた?」
「いえ、玉ねぎを切っただけです」
「いや、ここ、料理するとこじゃないから」
「……大丈夫じゃないです……」
紬は、我慢していた涙を流した。初日にまさかこんなにズバズバと言われるとは思っていなかった。
その通りにしても何をしても文句を言われた。やっかみだった。
拓海は、紬の大丈夫から大丈夫じゃないの言葉に申し訳ないことしたと反省した。
拓海は、自分自身の胸に紬の顔を引き寄せて、涙を隠した。
「よしよし……俺が悪かった。泣きたいときは泣くんだ。今のうちに」
涙を我慢していた紬は、そう言われて余計に涙が出た。嬉し涙と悔し涙が同時に出たのだ。
それが、大人になってからの佐々木拓海と楠 紬の再会だった。