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こと-koto
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Side健治
金曜日。
俺は勤務先である大手製薬会社アルゴファーマで、自分のデスクに向いパソコンのデータとにらめっこをしている。
伸び悩病んでいる|栢浜《かやはま》市の売り上げをどうにかする手立てを考えなければいけないのだ。
焦る気持ちを抑えつつ、目の前にある書類やメールの返信、電話対応などに追われ、妙案が出ないまま時間ばかりが過ぎていく。
「はぁ、まいったな……」
八方塞がりな状態に、ため息を吐きながら天井を仰いだ。
すると、電話を終えた友部課長が声を掛けて来る。
「菅生君、今良いかね」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、ミーティングルームで話そう」
友部課長の指示に従いミーティングルームへ向かう。
ミーテングルームに入ると宮本部長が既に腰を下ろした状態で、待ち構えていた。
改まって、何の話があるのかと緊張する。
着席すると宮本部長が、おもむろに口を開いた。
「菅生君、君は凄いパイプを持っているようだね」
宮本部長が、話している内容が何を指して言っているのか見当もつかない。
返事のしようもなくて「はぁ」と言葉を濁す。
すると、宮本部長は上機嫌で口を開いた。
「緑原総合病院の医院長から直々にご指名をもらうなんて、菅生君、すごいじゃないか! ジェネリックの見積もりを提出して欲しいとの話だ。|栢浜《かやはま》市を菅生君に任せて正解だったな」
思いも寄らない内容に、握った手のひらに力が入る。
野々宮の実家、緑原総合病院の医院長から直々にご指名と言う話に、血の気が引く。
緑原総合病院との関わりを絶ちたいと思っている傍から、今回の話。
これは、どう考えても野々宮果歩が裏で、父親に働き掛けているのだと察しがつく。
俺に対する情念を感じ、ゾワリと背筋が寒くなる。
咄嗟に立ち上がり、俺は宮本部長に深く頭を下げた。
「宮本部長、どうか|栢浜《かやはま》市の担当から外していただけないでしょうか」
「藪から棒に何を言っているんだ。この緑原総合病院の取引は君に掛かっているのに、|栢浜《かやはま》市の一強、三栄製薬に風穴を開けられるチャンスだと君だって分かっているはずだ」
「そうだぞ。この期に及んで、菅生君は何を言って居るんだ」
もちろん、宮本部長がこの様に考えるのは至極当然の事。横にいる友部課長だって、俺の名前を呼んでオロオロしている。
「大変申し訳ございませんが、緑原総合病院の件は私には手に余るお話です。誰か、他の者に……お願い致します」
宮本部長には、入社以来、目を掛けて貰っていた。
それなのに、組織の一員として、自分がとんでもない我儘を言っている自覚はある。
同じ大学出身の宮本部長には、入社から可愛がって貰っていた。
酒の席ではMRとしてのウンチクを披露され、上司の戯言と閉口しながら耳を傾け、それが後々役に立つ事もあった。
ふと、同じ大学出身……その事が心に引っかかった。
それなら、野々宮果歩も同じ大学の薬学部だ。すると、野々宮の親も医学部で同じ大学だった。可能性がある。
”学閥” その言葉が、頭を|過《よ》ぎる。
医療関係者の間では、同じ大学出身という事が重きを置かれる事が多々ある。
医局(病院)が人事権を握っていて、同じ大学の出身者である事が優先的に採用する基準になったり、出世にもかなり影響を及ぼす。
一般的な常識よりも、医療関係者の間では、同じ大学出身である事が重要で、タテ・ヨコの繋がりが非常に強く、ネットワークが張り巡らされている。
今まで、新薬の小口取引しかなかった緑原総合病院が、手の平を返してアルゴファーマに取引を持ち掛けた。しかも、営業担当に申し付けるのではなく、わざわざネットワークを使って、上から話を持って来るとは……。
私的な理由で断ったなら、仕返しとばかりに、ネットワークを通じて黒い噂を流されるだろう。
個人への攻撃だけではなく、アルゴファーマに関してある事ない事を拡散され、他の地区のみならず、各都道府県の支社に至るまで、どのような影響が起こるのか想像も出来ない。
《《断わる事の出来ない》》案件なのだ。
その考えに行き当たった刹那、宮本部長が口を開いた。
「そのような我が儘は、到底受領出来ない。緑原総合病院の件は向こうから、直々にと声を掛けて下さったんだ。それも菅生君御指名でだぞ。社会人としてありがたく受けるのが道理だろう」
この件を形にしなければ、長年勤めた会社に泥を掛けるだけでなく、この先の人生にも暗雲が立ち込めるだろう。
逃げ場のない迷宮に陥ってしまったようだ。
*
「美緒、おはよう」
土曜日の朝、リビングのドアを開けた俺は、身じたくを終えた美緒を見つける。
「おはよう、健治、お休みなのに早起きだね。毎晩残業で疲れて居るんだから、ゆっくり寝てて良かったのに」
仕事に行くはずの美緒の服装は、生成り色のワンピース。白いジャケット羽織ると、オフィスカジュアルな印象で、いつもより華やいで見えた。
「今日、美緒は仕事の後、小松さんの家に泊まりに行くんだろう? 」
「う、うん」
そう言って、美緒は視線を何気なく泳がせた。
小松さんの家に行くだけなら、オシャレな装いなど必要じゃないはず……。
その態度に一抹の不安を感じ、気持ちがざわつく。
「俺は持ち帰りの仕事があるから、今日はなんだかんだ言って忙しいな。夕飯もテキトーに食べておくから気にしないで楽しんでおいで」
「うん、ごめんね。明日のお昼には帰れると思う」
「じゃあ、帰る前に連絡して。お昼ごはんは、一緒に食べよう」
「ありがとう、帰る時にメッセージ入れるね。じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
ざわつく気持ちを必死に押さえ込み、華やかな装いの美緒を作り笑顔で見送った。
パタンとドアが閉まると気持ちが沈む。
「さあ、仕事するかぁ」
持ち帰りの仕事。
それは、言わずもがな緑原総合病院のジェネリック薬品の見積もりだ。
ダイニングテーブルの上にパソコンを広げ、入力をしていくが、気の乗らない案件には集中力が続かない。それでも何とか終わりが見えて来た頃には、空が赤く染まり始めていた。
「ふぅ、やっと終わった」
凝り固まった肩をほぐすように大きく腕をまわし、窓の外へ視線を移す。
自宅にひとりきりで居るのも久しぶりで、夕日の差し込む部屋は、どことなく物悲しさを漂わせていた。
「夕飯どうしようか……」
いつもなら、美緒が温かいごはんを用意してくれる。ひとりきりだと、食事を考えるのも億劫だった。
カップラーメンで済ませてしまおうか、っと後で美緒にバレたなら怒られそうな考えが浮かぶ。
すると、不意に社用のスマホが振動を始め、着信を告げる音楽が鳴り出した。
画面を見ると、知らない番号が表示されている。
休みの日とはいえ、仕事の電話、取引先の病院の先生かも知れない。
コール音が鳴り終わらないうちに通話ボタンを押した。
「はい、㈱アルゴファーマ 医薬情報担当 統括 菅生健治です」
「ふふっ、私よ。お仕事は順調かしら?」
電話口から、野々宮果歩の声が聞こえてくる。
俺は、自分の不機嫌を隠そうとしなかった。
「何の用だ」
「あら、ご挨拶ね。緑原総合病院の薬局製剤責任者に向ってそんな態度でいいのかしら?」
「薬局製剤責任者?」
「そう、私だって薬剤師の資格を持っているんですもの。それに跡取り娘としての役割も果たそうかなって……ふふっ」
それを聞いて、ゾワリと背筋に悪寒が走る。
この前、ホテルでの出来事を思い出す。
美緒を下げる発言を繰り返す野々宮果歩に、「いざとなったら仕事を辞めて嫁さんに食わせてもらうからいいさ」と言った事に対しての当てつけだろうか。
それにしても、緑原総合病院の薬局を野々村果歩が仕切る事になるとは、考えもしなかった。
ワンマン経営の病院とは言え、強引過ぎる人事だ。
やっかいな事になったと、ため息を吐く。
「申し訳ございませんが、本日はどのようなご用件でしょうか」
「お得様は大事にした方が、いいんじゃない?」
「では、日を改めまして、上司と一緒に御挨拶の場を設けさせて頂きます」
あくまでもビジネス口調の俺に、しびれを切らした野々宮から不機嫌な声が聞こえる。
「わかっているクセにいい加減にして!私を怒らせたなら、後悔する事になるわよ」
大病院の一人娘として、今まで何でも思い通りになってきた野々宮は、いうことをきかない俺に苛立っている。
俺は、皮肉をたっぷりと込めて言う。
「別れた男にいつまでも纏わりつくようなキャラじゃなかっただろう」
「あら、そんな事言っていないで、私に媚びへつらった方が、いいんじゃないの? |緑原総合病院《うち》が買い上げる薬の量を考えて見てよ。この先、大きな受注を受けて出世するか、仕事を失うか、どっちが良い?」
仕事と引き換えに従わせようとする野々宮に、俺は素直に頷けない。
「さあ、どっちかな」
「ふふっ、とぼけても無駄よ。健治は出世したい人だもの」
「さて、どうだろう」
「んー、そう言えば、宮本部長に今回のお話をした時、たいへん喜んでいらっしゃったわよ。この取引のおかげで、宮本部長も上の席が見えて来たのかもね」
「くっ!」
宮本部長を引き合いに出されて、思わずスマホを持つ手に力を込めた。
会社の組織の中に入る以上、誰しも出世を望むだろう。
一人前のビジネスマンとして、育ててくれた宮本部長に泥を投げるようなマネをしたくない。
唇を噛みしめる俺に野々宮は悪魔のように囁く。
「私、いい所を見つけたの。健治に接待してほしいなぁ」
「待ってくれ、いきなり言われても……」
「ふふっ、いいじゃない。URL送るから、午後8時にね。待ってるわ」
「おいっ!待って……」
と、言いかけたところで通話が途絶え、スマホからは”ツーツーツー”っと、無機質な音だけが聞こえてくるだけだった。