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#へたくそだけど許して
それから、どれくらい経ったのか。 もう、よくわからない。
時間の感覚が、少しずつ曖昧になっていた。
朝とか夜とか、そういう区切りはあるはずなのに。
気づくと、いつも同じ場所に立っている。
白い光の前。
自販機の前。
「……次、何にしよ」
口から自然に言葉が出る。
もう、迷いはない。
むしろ、選ぶ時間が楽しかった。
最初は怖かったはずなのに。
今は違う。
“いらないものを捨てる”だけ。
それだけで、こんなに楽になる。
表示を見る。
『感情 売り切れ』
『記憶(詳細) 売り切れ』
『後悔 売り切れ』
『安心 売り切れ』
どんどん、項目が減っている。
その代わりに、増えていくものもあった。
『痛覚 1000円』
『罪悪感 1500円』
『執着 2000円』
どれも、もういらないものばかりに見える。
ふっと笑う。
「ほんと、便利だな」
コインを入れようとした、そのとき。
「——やめて」
背後から、声がした。
ぴたりと手が止まる。
ゆっくり振り返る。
そこにいたのは。
「……あ」
見覚えのある顔。
名前は——
一瞬、思い出せない。
でも、どこかで知っている。
「……誰だっけ」
そのまま口に出す。
相手の顔が、はっきり歪んだ。
「……やっぱり」
震える声。
「間に合わなかった」
その言葉の意味は、よくわからない。
ただ、少しだけ。
胸の奥に引っかかる。
「ねえ」
相手が一歩近づく。
「それ、もうやめて」
必死な顔。
何かを訴えている。
でも。
言ってることが、よく理解できない。
「なんで?」
純粋に、そう思った。
「別に困ってないけど」
むしろ、楽になってる。
余計なこと考えなくていいし。
嫌な感情も減ってるし。
何が問題なんだろう。
「困ってるよ!」
強い声。
一瞬だけ、空気が揺れる。
「全然、違う人みたいになってる!」
「……そう?」
首をかしげる。
自分では、よくわからない。
ただ。
前より“軽い”だけ。
「ねえ、これ見て」
相手がスマホを差し出す。
画面には、写真。
笑っている自分。
隣にいるのは、その人。
楽しそうで。
どこか、眩しくて。
「……」
じっと見る。
何も感じない。
「これ、覚えてない?」
「……うん」
正直に答える。
相手の手が、震える。
「……そっか」
小さく、息を吐く。
諦めたみたいに。
「でも、まだ間に合うかも」
顔を上げる。
必死に、笑おうとしている。
「それ以上、消す前に戻れば——」
「無理じゃない?」
言葉を遮る。
自然に出た。
「もう結構消したし」
事実だった。
戻るって、どういうことだろう。
何を戻すのかも、よくわからない。
「それに」
少し考えて、続ける。
「別に、困ってないし」
むしろ。
少しだけ、笑う。
「今の方が、楽だよ」
その一言で。
相手の顔が、完全に崩れた。
何かを言いかけて、止まる。
言葉が出てこないみたいに。
静かな沈黙。
その間に。
後ろの光が、強くなる。
自販機が、存在を主張するみたいに。
ちら、と視線を向ける。
新しい表示が出ていた。
『自我 5000円』
「……あ」
少しだけ、興味が湧く。
これを消したら、どうなるんだろう。
完全に、何も感じなくなるのか。
それとも。
もっと楽になるのか。
手が、自然に動く。
「待って!!」
強く腕を掴まれる。
びく、とする。
その手は、温かくて。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
何かを思い出しそうになる。
「……お願い」
震える声。
「それだけは、やめて」
必死な目。
涙が滲んでいる。
——ああ。
たぶん。
この人、自分にとって大事な人だったんだ。
そう、理解はできる。
でも。
それだけだ。
“理解”であって、“感情”じゃない。
「……ごめん」
やんわりと、その手を外す。
抵抗は弱かった。
もう、力も入っていないみたいに。
「大丈夫だよ」
根拠はないけど、そう言った。
安心させるみたいに。
「きっと、もっと楽になるから」
コインを入れる。
カチン、という音。
やけに大きく響く。
「——やめて」
最後の声。
でも、もう止まらない。
ボタンを押す。
落ちてきたのは、真っ白なガラス玉だった。
光そのものみたいに、眩しい。
手に取る。
何も感じない。
怖さも、不安も、何も。
ただ。
これを使えば、もっと“軽く”なれる。
それだけがわかる。
口に入れる。
溶ける。
消える。
その瞬間。
“自分”という輪郭が、静かにほどけた。
気づいたとき。
そこには、ただ“存在”があった。
名前も、過去も、意味もない。
ただ、立っているもの。
目の前には、光る箱。
それだけが、はっきりしている。
後ろで、誰かが崩れ落ちる音がした。
泣いている声。
何かを叫んでいる。
でも。
それが何かは、もうわからない。
興味も、ない。
白い光の中。
自販機の表示が、静かに変わる。
『感情 入荷済み』
『記憶 入荷済み』
『自我 入荷済み』
まるで、何もなかったみたいに。
新しい“誰か”のために。
——そのとき。
何もないはずの顔を、ひとすじだけ、涙が伝った。
理由はない。
悲しみも、後悔も、もう存在しないはずなのに。
ただ、静かに。
こぼれ落ちた。