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「なぁ潔」
ずっと見つめていた人間がいる。
最初はただの脇役で記憶にも残らないような雑魚。次は兄以外で初めて敵意を持った相手。そして今は、誰よりも近くにいる宿敵。
「俺は、お前のことが好きだったんだぜ。知ってたか」
その感情に気づくまで二年かかった。認めるのに十年かかった。お互い大人になってそれぞれの人生を歩んでいたが、戦場以外では交わることのない線に、凛は我慢できなくなった。
「好きだ」
ゆっくりと腹を撫でる。
「好きだ」
潔世一は、ここにいる。
***
人間という動物には、三種類の区別が存在する。何の特徴もない”ノーマル”と、ある体質を持った”ケーキ”、そして”フォーク”だ。ざっくりしすぎて分からないと思うので、もう少し詳しく解説する。
フォークとは、後天的に味覚を失った人間だ。遺伝子に関係なく突然生まれるとされ、思春期前後で味覚が消滅する。彼らは後述するケーキの助けがなければ生きられず、国に登録されたフォークはケーキが提供する”食料”を糧に生きている。
ケーキとは、フォークが唯一味を感じることができる体を持った人間のことだ。唾液、汗、血液、何でもフォークにとっては美味しく感じ、普通の食事からエネルギーを吸収するために必要な栄養素を持っているので、フォークにとって必要不可欠な存在である。
ノーマルは人口の大多数を占める普通の人間のことだ。彼らは数の有利で自分たちがスタンダードであると世界に主張し、特にフォークを危険視している。ケーキと呼称される人間を食べる、つまり共食いが生物的に決めつけられた人間を恐れているのだ。
そして糸師凛はフォークである。他のフォーク同様自分の正体を大々的にひけらかすことはしないが、フォークは食事の際にケーキの体液を料理に混ぜるので近くにいる人間は知っている。フォークだからと距離を置く人間、そんなこと気にしないと笑顔を向ける人間、どちらも大して違いはない。『フォークだから』という前提で凛の価値を決める人間に、凛は興味がない。
その点で言うと、世一は最初から普通じゃなかった。初対面の時はまだしも、二度目に対戦した時には凛のことをフォークだと気づいていたはずだ。なのに敵意を向け、食らいつき、『糸師凛』という選手を超えたがった。そんな奴だったから、凛は無視できなくなって、進化を続ける世一にずっと執着を向け続けた。
宿敵としてこれ以上の相手はいない。世一のことを言葉にせずとも認めている凛だが、一つだけ、サッカーとは別に気に食わないことがあった。
世一にはマネージャーがいて、その男はフォークだった。そして世一はケーキで、二人は”専属契約”を結んでいた。専属契約はケーキがたった一人のフォークに食料を提供し続けることを約束したもので、その契約をしていると国に体液の提出をしなくて済むというメリットがある。ついでにケーキはフォークに食べられると快感を得るらしいので、世一と男の関係を知っている者は二人が恋人同士なのだと思っていた。
「は? 違うけど?」
我慢できずに関係を問いただした凛に、世一は怪訝な顔で即座に否定した。ならどうして契約しているのかと尋ねれば、世一は面倒くさそうに頭を掻いて目を逸らす。
「ケーキってさ、フォークに食べられないとどんどん甘くなるらしいんだよな。味が濃くなって、フォークに必要な栄養も蓄えて、めちゃくちゃ美味しくなるらしい」
「それが何だ?」
「そういうケーキは、ロイヤルゼリーって呼ぶんだって。王のための食料とか何とか……とにかく一度食べたらやみつきになって、止まらなくなるらしい」
「……」
「ケーキが体液を渡すのは、自衛のためでもあるんだ。誰だってフォークに食い殺されたくないだろ」
「……だったら」
だったらあんな男じゃなくてもいいだろう。それこそ、凛だって。
「それは駄目」
まるで凛の思考を読んだかのように、世一は笑って拒絶した。目を見開いた凛が盛大に顔を歪める中、流れた汗をタオルで拭った世一がユニフォームから私服に着替える。バタンとロッカーの扉が閉まって、帰宅の準備を終えた世一は振り向くと青く澄んだ瞳で見つめてきた。
「お前とは純粋に競い合っていたい。だから、お前は駄目」
再び拒絶の言葉を吐き出した世一は、凛を置いてマネージャーのもとへと去っていった。その時は世一の意思に共感したが、時間が経つにつれて徐々に不快感が募っていく。今この瞬間も世一があの男に体を差し出しているのかと思うと、腸が煮えくり返るような嫉妬に襲われた。だから凛は自分のために、二人を引き離す計画を立てはじめた。
「おい潔」
「何だよ」
「次の試合、負けた方は勝った方の言うことを一つ叶えろ」
「……は?」
だがまどろっこしいことは好きじゃないので、シンプルにマネージャーとの契約の解消、そして凛との再契約を迫ると世一は呆れた顔をした。
「同じチームにいるのに、どうやって勝ち負けを決めるんだよ」
「ゴール数でいいだろ」
「MFの俺に喧嘩売ってる?」
「最初から売りつけてるだろうが。それともポジションを理由に逃げるのか?」
「あ? 死んでもするか」
「決まりだ。死んでも忘れんじゃねぇぞ」
渋々頷いた世一に満足した凛は、さっさと練習着から着替えるとクラブハウスを出ていった。世一への対策も、敵チームの分析も可能な限りやり尽くした。あとは本番を待つだけだと気分が高揚していた凛は、翌日もたらされた知らせに頭が真っ白になった。
「は?」
世一が食い殺されたらしい。監視カメラに一部始終が映っていて、犯人はマネージャーの男だと判明していたがまだ逃走中なので全員気を付けろ、と伝えた監督の言葉が右から左に流れていく。
「……は?」
世一が食われた。凛じゃないモブに殺された。その事実に、脳が焼き切れるんじゃないかってくらいどす黒い何かが湧いてくる。その衝動が煮詰まって、固まって、凛の体を内側から食い破って出てきた時、ふと閃いた。
あの男を食えば、世一は凛が食べたことになるんじゃないかと。
クラブの練習をサボって男を探して、見つけて、追い詰めた。男は命乞いをしていたが、凛が男を食べるつもりだと知ると激怒した。
「潔くんは俺のものだ! お前には渡さない!」
「あいつは死んでもお前のものにはならねぇよ」
「ッ、そもそも……お前が悪いんだ! お前が潔くんに余計なことを言ったから、だから俺は捨てられそうになって……お前がいなければ、潔くんは死ななかった!」
「……つまり、潔に契約を切られそうになったから、カッとなって食い殺したってのか?」
「そうだ!」
叫ぶように肯定した男は、凛の顔を見て青褪めると全身を震えさせた。体を突き破る衝動のままに男を蹂躙しながら、凛は頭の中の冷静な部分で世一の見る目のなさに呆れていた。
美味しくも不味くもない肉を食い終わって、一息ついた凛は膨らんだお腹を撫でる。かなり食べ過ぎてしまったが、この中にどれだけ世一が残っているだろう。事件から数日は経ってるはずだから、既に消化されて男の細胞と混ざってしまっているだろうか。事件直後なら男の腹を捌いて世一だけ食べられたのに、と凛は余計な肉を食ったことに顔を顰めながら椅子に座る。
「なぁ潔」
お腹の中に話しかける。ここに世一はいる。ずっと好きで、サッカー以外でも特別な繋がりが欲しかった相手が、ここに……。
いる、のだろうか?
その瞬間、凛は腹の中のものをぶちまけていた。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!!
世一以外の肉を食べたことが、世一の声が聞こえないことが、世一がどこにもいないことが気持ち悪くてたまらない!!
震える手で吐き出したものを口の中に入れたが、すぐに床に戻してしまった。この肉は世一じゃない。世一じゃないならいらない。食べたくない。
そうしてやっと凛は理解した。男を食べても世一は凛のもとへ帰ってきてはくれない。この世界に、潔世一は存在しない。
「……なら、もういい」
主人公がいない世界で、ラスボスだけが生きてても仕方がない。世一以外を宿敵に据えるつもりもなかった凛は、男を解体した時に使ったナイフで自分の喉を掻き切った。
「凛? 起きたか?」
「……にぃ、ちゃ……」
「無理に喋らなくていい。熱は……まだあるか」
子供部屋でベッドに横たわる自分の傍で、幼い兄が体温計を見て眉を顰めている。凛はゆっくりと室内を見回して、見慣れた部屋にぼんやりと記憶を掘り返した。
小学校で風邪が流行って、凛も熱を出して寝込んでいた。その時に長い長い夢を見て、遠い場所にいた大人の自分が、小さな体の中に入ってきた。凛は凛だけど、もう凛じゃない。ここにいるのは、”破壊者”の糸師凛だ。
「ぃ……ぎ……」
「凛?」
だからこそ、世一に会いたくなった。子供の自分に引っ張られているのか、素直な欲望と涙をあふれさせて、凛は目を閉じた。
「凛、また指かじってんのか」
「あに……兄ちゃん」
「血が出てんじゃねぇか。もう少し加減しろよ」
「あぁ、じゃなくてうん……」
凛がフォークに目覚めたのは、冴がスペインに渡った後の話だった。だが前世、もしくは未来の記憶を手に入れた代償なのか、熱が下がった凛はすっかり味覚というものを失ってしまっていた。普通の食事では満たされない感覚もするので、おそらく凛はフォークに変化してしまっている。家族に相談すべきだと思ったが、フォークになったら誰かも分からないケーキの体液が政府から支給されるようになる。そのことにどうしようもなく嫌悪感を抱いてしまい、結局誰にも相談できずに自分を噛んで飢えを誤魔化していた。
ガジガジと親指の付け根を噛んでいると、目を細めた冴は凛の手を引いてリビングに向かった。
「アイス食うか?」
「うん」
この頃はまだ喧嘩してなかったので、親身になって接してくれる冴に違和感を抱きながら頷く。どうせ味などしないし栄養もほとんど吸収できないが、今までと大きく違う行動をとって事情を探られたくなかった。
「お前、何か隠してんだろ」
「……」
冷たい棒アイスを齧っていると、冴が突然問いかけてきた。凛は横目で冴を見つめ、窓の外を眺める横顔に続きを待つ。
「別に無理に言う必要はねぇけど、その秘密は自分でどうにかできるものなのか?」
「……うん」
「ならいい。抱えきれなくなったらいつでも話せよ」
「うん。ありがとう兄ちゃん」
兄の優しさを受け取り、そろそろ行動に移すタイミングだと凛は腹をくくった。
よく晴れた土曜日のこと。溜まったお小遣いで埼玉県までやってきた凛は、駅から出ると世一の家に向かっていた。死んで時間を遡るという異常事態が起こっているものの、直近の問題は凛の飢餓感が限界を迎えようとしていることである。このままでは飢え死にしてしまうが、他人の体液など欲しくない。その問題を解決する方法はただ一つ、凛が食べたいと唯一思える世一から体液を採取することだった。
問題はどうやって世一から体液を譲ってもらうかだが、会ってから決めようと思っていた凛は通り過ぎようとした河川敷でボールを蹴る一人の子供を発見した。ランニングする大人や追いかけっこする子供たちの輪から外れて、黙々と高架下の壁にボールを蹴っている。子供にしては正確なキックだと眺めていると、ふと子供が凛の方を向いた。
「―――」
暗がりで光る青い目に、どくんと心臓が高鳴る。揺れる黒髪や流れる汗の甘い香りが、風に乗ってここまで届いているかのように背筋がぞくぞくした。間違いなく世一だと確信した凛が声をかける前に、世一は視線を外してシュート練習を再開する。ケーキは体液の分泌量が多く、汗も大量に流すので世一の頬や首筋にはてらてらと汗が光っていた。ごくりと唾をのんだ凛は今すぐ全部舐めとりたい欲求と戦いつつ、斜面を下りて世一のもとへ向かう。
「おい」
「……?」
「お前、あー……サッカーやってるのか」
「……」
何を質問してるんだ、そんなの見れば分かるだろう。世一も不審そうな眼差しを凛に送っていて、どう挽回しようか考えている間にボールを回収して帰ろうとしてしまう。
「待て!」
「……何?」
振り返った世一が探るように見てくるので、ゆっくり深呼吸した凛は動揺を追い出すと、冷静にボールを指さした。
「サッカー、一人でやってもうまくならないだろ。一緒にやろうぜ」
「……」
「もし俺に勝てたら、アイス奢ってやる」
「……ふーん」
瞳に興味を浮かべた世一が頷いたので、ボールが川に落ちては大変だからと公園に移動した後、日が暮れるまで1on1をした。結果は凛の全勝で、悔しそうに歯を食いしばった世一に少しだけ満足する。冴がいる場所では本気でサッカーができなかったので、久しぶりの解放感に胸が躍った。だが乱雑に汗を拭った世一が視界に映って、堪えていた空腹が限界を訴える。
ぐぅううううう。
「……」
「……アイス、食べる?」
「……別に」
「どっちだよ」
盛大に腹の虫を鳴かせた凛は呆れた顔をした世一に近づく。薄暗い公園に子供たちの笑い声はなく、ちょうど二人きりになれた凛は世一の首筋に吸い付いた。びくりと震える体を抱きしめて、鎖骨に溜まった汗を舐めとると暴力的な甘味に舌が痺れる。
「ちょ、なに」
「動くな」
「放せ!」
「お前は俺に負けた。なら俺の言うことを一つ叶えろ。”黙って舐められる”、今日はそれだけだ」
「はぁ!?」
「勝利の褒美は俺にだって与えられるべきだ。ルールは公平じゃなきゃ駄目だろ」
「……」
世一は嫌そうな顔をしながらも抵抗をやめたので、凛は存分に世一の首や顔、指先から腕まで味わいつくした。
「……ふ、は」
「……」
「んっ」
世一はどこもかしこも頭がおかしくなるくらい甘くて、ケーキから初めて直接体液を貰った凛は夢中で舌を這わせていた。すると徐々に世一の息が荒くなってきて、舐めとったはずの汗が再び滲んでくる。ちらりと見上げれば頬は上気しており、瞳には涙の膜が張っていた。ケーキはフォークに食べられると快楽を感じるらしいので、凛の舌によって世一が気持ちよくなっているという事実に気づくと、衝動的に自分の口を淡い唇に押し付けていた。
「んっ!?」
「はっ」
「ちょ、んぅ、ま」
舌を突っ込んで小さな歯をなぞり、咥内を舐めまわして薄い舌と絡み合わせる。逃げないよう後頭部を押さえた凛は、あふれる唾液をすすってうっとりと目を細めた。世一が凛のせいで気持ちよくなって、涙を流している姿に興奮する。脳から快楽物質が馬鹿みたいに分泌されて、二人で快感を追う様子は、きっとセックスに似ている。
崩れ落ちた世一にようやく口を離した凛は、真っ赤な顔で必死に息を吸う世一を見下ろしてぺろりと唇を舐めた。死ぬほど飢えていた体が嘘みたいに、全身にエネルギーが満ちているのが分かる。今なら走って実家まで帰れそうだ、と考えてハッと空を見上げた。もう既に太陽は消えていて、夜空にぽつぽつと小さな星が浮かんでいる。こんな時間まで外出していたことなどないから、絶対に心配をかけていると焦った凛は公園の出口に駆け出した。だが出る寸前で踏みとどまると、振り返って叫ぶ。
「俺は凛! お前は?」
「……はぁ。潔……」
「潔、また会いに来る。今日はさっさと帰れ」
「……」
座り込んだままの世一を置いて急いで帰宅した凛は、心配しすぎて警察を呼んでいた両親にこっぴどく叱られ、冴からも小言をいただいてしまったのだった。
***
子供のお小遣いは有限だ。大人の価値観を持つ自分からすると雀の涙レベルの紙幣を握り、凛は毎月一回だけ世一に会いに行った。世一はいつも一人でサッカーをしていて、凛を見ると『またお前か』と言わんばかりに呆れた顔をするが、勝負に負けると潔く凛に体を預けた。一度目の反省から日が落ちる前に公園の木陰に連れ込んで、服から出ている皮膚を隅々まで舐めると一ヶ月の飢えが満たされていく。最高の瞬間に凛はやみつきで、世一も気持ちよさそうに頬を染めていた。
もちろん月一の食事で満足するはずもなかったが、耐えて耐えて耐え抜いて、我慢できなくなりそうな時は自分の肉を食べた。そうすると食欲なんて消え失せて、凛は誰にもフォークだと悟られることなく数年を過ごした。
冴がスペインに渡ってからは実家近くでも本気でサッカーができて、誰にも負けないように厳しく自分を鍛えた。凛は世一を最高の主人公に育て上げるラスボスなので、そこらのモブに後れを取るような失態は死んでも犯さない。
ある時、いくら探しても世一を見つけられない時があった。仕方なく世一の実家に向かって、出かけているという世一を家で待たせてもらう。帰ってきた世一はひどく驚いた顔をしていて、凛を自室に上げると険しい顔で質問した。
「お前、どうやってここが分かった?」
「近くの家を回ったり、通行人に尋ねた」
「完全にストーカーじゃねぇかよ……」
「それよりお前どこ行ってたんだ」
「買い物。ていうか、今度からお前とサッカーできないから」
「あ?」
「サッカー部に入ったんだ。もう公園でサッカーはしない」
「……」
「お前、近所の人間じゃないんだろ。何しに来てたのか知らないけど、俺のところに来るのはもうやめろ」
「成長の機会を手放すのか?」
「は?」
「俺よりうまい選手なんて存在しねぇ。格上とタダで戦れるチャンスなんかそうそうないってのに、お前は部活ごときで満足できるのか?」
黙り込んだ世一に、凛は持ってきたスマホを見せた。
「休みの日は連絡しろ。特別授業をつけてやる」
「……お前が格上かはともかく、タダで勝負したことなんてねぇだろ。今度は何を要求するつもりだ」
「今までと変わんねぇよ。負けたら大人しくしてる、勝ったらアイス貰う。これだけだ」
「……はぁ。まず連絡先の交換からしようぜ」
諦めたような表情でスマホを出した世一の連絡先を手に入れ、帰ろうとした凛はふと足を止めた。振り返ると世一が無表情で眺めていて、凛がじっと見つめると居心地悪そうに後ずさる。
「何だよ」
「腹減った」
「……は?」
元の場所に戻った凛は、世一の前まで来ると近くのベッドに押し倒した。
「なっ、おま」
「静かにしてろ」
「今日は勝負してないだろ!」
「お前が帰ってくるまで大人しく待ってたんだ。その分の褒美があってもいいだろ」
「どういう理屈……っ、んんっ」
うるさい口を塞いで唾液を舌先で掬い取り、深く深く潜らせる。凛のものと混ざり合った唾液は世一の腹の中にも収められて、お互いを貪っている状況にぞくりとした。舌が疲れるまで舐め続けて、口を離した凛はぺろりと世一の唇を舐めると問いかける。
「お前、高校はどこだ?」
「は……は……」
「『は』?」
びくびくと震えていた世一は数秒悩むように目を逸らしたが、諦めたように大きく息を吐き出すと「一難高校」と答えた。凛は忘れないようにスマホのメモ帳に高校の名前を入力すると立ち上がって、倒れたままの世一に視線を落とす。
「休みの日は忘れず連絡しろよ」
「……気が向いたら」
「一ヶ月以内」
それ以上は凛の体が保たないという本音をしまって、今度こそ世一の部屋から出ていった。
両親は突然の話に困惑し、クラブのコーチには残念そうな顔をされたものの、凛は進学先を一難高校に変更して春から埼玉で一人暮らしを始めた。世一は入部してきた凛を二度見どころか五度見くらいしてきたが、周囲と衝突しがちな凛を宥めてサッカー部の和が乱れないよう努力していた。
その努力は、凛が本格的にチームの破壊を始めたことで無駄になったが。
一難高校は埼玉県でも有数の強豪校だったが、エゴイストとして覚醒した凛には地獄でしかなかった。誰があんな仲良しこよしのぬるま湯サッカーなんかやるか。世一にも悪影響が出始めていたので、凛は監督の思想を一からぶち壊すことにした。チームワークを捨てた個人技で敵を砕き、勝利を掴む。何度も繰り返せば馬鹿じゃない選手は凛につき始めて、チームはぐちゃぐちゃになった。世一は中立を選んでいたが監督よりも凛のフォローをすることが多かったので、本心ではチームの崩壊を喜んでいたかもしれない。
凛は世一を自分の宿敵だった潔世一に戻したい。だからなるべく世一の環境を変えるべきではないのかもしれないが、変化を恐れるなど自分らしくないし、むしろかつての世一を超える選手に成長させればいいのではないかと思い直したので割と自由に過ごしていた。月一での勝負は週一に変わり、空腹も満たされてコンディションもいい。何もかも順調だったので、凛は夏を迎える前に世一を自宅に招いて次の段階に進むことにした。
「はい、アイス」
「あぁ」
道中に寄ったコンビニで購入したアイスを渡されたので、冷凍庫に片付けた凛は部屋を見回す世一を観察する。今回の1on1も凛の勝利で終わり、無敗記録を伸ばした凛は週末に自宅への宿泊を提案した。世一は随分と嫌がったものの勝者の言葉は絶対なので、渋々お泊まりセットを持って迎えに来た凛とともに虎穴に踏み込んでいる。
「お前の家、俺の家から結構近いんだな」
「あぁ」
「両親は一人暮らしに反対しなかったのか?」
「心配はされた。どうしても行きたい高校があるって言ったら応援してくれた」
「……ふーん。いい人たちだな」
「あぁ」
凛が変なことを知っていて、まともな人間に育つよう願っている普通で素敵な人たちだ。そういえば先日両親から野菜や魚が届いたので、後で世一に食べさせてやろうと思いつつ寝室に案内する。
「ここが寝る部屋」
「見れば分かるよ。わざわざ案内する必要あるか?」
「今日はほとんどここで過ごすからな」
疑問を浮かべた世一をベッドに押し倒し、服を捲り上げて割れた腹筋に舌を這わせる。ここ数年の習慣にすっかり慣れて無抵抗の世一をちらりと見ると、両手首を隠し持っていたガムテープで拘束した。
「え」
「お前がやることは変わらない。全部が終わるまで、大人しくしてろ」
見開かれた世一の瞳には、珍しく笑みを浮かべた凛が歪に映っていた。
***
「はっ、あっ、んゃっ、凛!」
「……」
「そこ、だ、めっ!?」
上半身の服は手首でぐしゃぐしゃになっていて、下半身の服はすべて剥ぎ取られた世一はベッドの上で悶絶していた。今まで触られたことがないだろう後孔に指を突っ込まれ、太腿の内側を丹念に舐められて、表情を歪めながらも頬は紅潮している。胎内にあったしこりを刺激してやれば、背筋を逸らせて両足の間にあった凛の頭を挟んできた。
何度かローションを継ぎ足して入念に解した後孔に、服を脱いだ凛が性器の先端をくっつける。自身の性器にもローションを塗りつけて、準備が整った凛は世一に覆いかぶさった。
「りん、も、やめ…」
「ここからが本番だろ。へばんなよ、潔」
「ぁ、ふ、んんん……っ」
キスをして漏れ出る声を食べながら、腰を押し進めてゆっくり性器を挿入する。押したり引いたりして少しずつ孔を広げていった凛は、ふと世一の頭の下にある枕とベッドの隙間に手を伸ばして青いリボンを取り出した。体を起こした凛を見上げていた世一は、そのリボンが自身の性器の根本を縛ったのを見て顔を強張らせる。
「り、凛」
「途中で空っぽになったら最悪だからな。終わるまで我慢しろ」
「や、まって、んひぃ!?」
縛られた性器の先端をぐりぐりと刺激され、びくりと跳ねた腰を空いた手で掴まれる。胎内と性器を同時に刺激され、気持ちいいのか気持ち悪いのか分からなくなった世一を見下ろしながら、舌なめずりした凛は徐々に性器を深いところへ侵入させていった。
絶え間なく流れる汗を舐めとって、時折こぼれる涙や唾液に吸い付く。最奥にコツンと先端が到達した時にはお互い汗だくで、強い鼓動に生を実感した。生きている、凛も、世一も。ずっと、生きている間に、こうしたかった。
「動くぞ」
「ん……ぁあっ」
長時間フォークに食べられていた影響で理性が飛んだ世一は、初めてとは思えないくらい中で感じて、凛の下で乱れた姿をさらした。その体に吸い付き、痕を残しながらずるずると性器を前後させる。
「あっ、あっ、んっ、は」
「潔……」
「ひっ、そこ、ゃっ」
前立腺に硬い亀頭が当たって飛び跳ねた腰を押さえて、何度も気持ちいいところを擦ってやる。大きな快感に流れた涙を舌で受け止めながら、凛の心の中は溢れんばかりの愛おしさに満ちていた。
好きだ。好きだ。好きだ。好きだ。
たとえ世一が凛を好きじゃなくても、誰にも渡さない。
ごちゅんッと最奥を突き上げて、世一の胎内に射精する。凛が世一を食べるように、世一も凛を食べればいい。お互い食らい合って、奪い合って、誰の手も届かない深淵まで落ちていけばいい。そこでなら、世一はずっとずっとずっと凛だけを見てくれるから。だから早く、落ちてこい。
夜通し犯しぬいて、もう射精したいと子供のように泣き出した世一にキスをする。
「約束できるか」
「ふぇ……?」
「これからも、俺を避けないって約束できるならイかせてやる」
「ふ、ぅ……わ、かったから、も、むり……ッ」
「もし約束破ったら外で犯すからな」
本気で脅せば世一は何度も頷いたので、胎内から性器を抜いた凛は後孔からあふれる精液を見つめた。この体液は凛のものだが、世一の中にあったのだから腸液も混じっているはず。いつか腸液も味わってみたいと思いつつ、世一の性器の先端を口に含んだ凛はリボンを外した。
「あ、え、や、ぁあああっ!?」
「ん……」
「ま、まっへ、むりらからっ、あたまへんになるっ」
悲鳴じみた声を無視して、壊れた蛇口のように精液を垂れ流す先端を舐める。汗よりももっと甘く、濃厚な舌触りが癖になりそうだ。世一はガムテープで拘束された両手で凛の頭を掴んで離そうとしたが、袋を揉み込まれて性感帯を刺激され、フォークから与えられる特有の快感にすぐに力を抜いた。
「ぁぁ、あぁ、りん……っ」
掠れた喘ぎ声に耳を澄ませながら、ちゅるりと最後の一滴まで精液を飲み込んで、喉を鳴らした凛は顔を上げた。見下ろした世一はぴくぴくと全身を痙攣させ、赤く染まった顔でぼんやりと凛を見上げている。
「潔」
「ぁ……」
好きだ。
そう言いたいのを堪えて、凛は世一の腹の中を綺麗にするために浴室に向かった。
***
週一回の勝負の後は、決まって凛の部屋でセックスした。世一は抗議していたが、そもそも世一が勝てば問題ないのだと言えば黙り込んだので、青い監獄に招集されるまで名前のない関係は続いた。
そして日本サッカーを飛躍させる計画が始まり、青い監獄に向かった凛と世一はそれぞれの場所で戦いに身を投じた。U-20日本代表と戦うまではほぼ記憶通りに進み、世一も順調にレベルアップしているようだ。指導者として世一を導いた凛はたまに箍が外れるものの、大事な卵を潰さないように注意しながらサッカーをしている。冴には本気でないことを見破られてしまったが、そこは兄弟なので仕方がないと諦めた。
二週間の休暇の間に世一を存分に堪能し、迎えた第二段階も知っている展開の連続で少々退屈していた。だが最後の試合だけは世一と戦えるので精神が高ぶっていく。まだ弱くても、世一は必ず凛の前に立ちふさがる。そう信じられるだけの才能の片鱗をずっと見てきた。
だがこんなことは記憶にない。
待ちに待ったドイツ戦で、世一と接触した士道は興奮した顔で世一の両肩を掴んだ。
「潔世一! お前ロイヤルだろ!」
「っえ」
「まさかこんな近くにいたとは思わなかった! なぁ、俺と契約しない?」
「ちょっと、何言って」
「あ、もしかして自覚ない系? お前ケーキなんだよ。それも超美味しいロイヤルゼリー! さっき間違って汗食っちまった時に―――」
「ッ、士道!」
焦った顔をした世一が士道を突き飛ばし、さっきまで士道がいた場所に鍛えられた足が振り下ろされる。確実に殺しにきていた速度に冷や汗を滲ませる世一に、芝生に叩きつけた足を再び持ち上げた凛が顔を上げた。青筋が浮いた頬と額、血走った目、歯の間からは軋む音が聞こえて、眼球を動かした凛が士道を睨み付ける。
「てめぇ、さっき、何て言った」
「あ?」
「こいつを、食ったって、言ったのか?」
「言ったねぇ。まぁ事故だが、何怒ってんだ凛ちゃ、ッ!?」
「ぶっ殺す」
「凛!?」
世一の悲鳴じみた声も聞こえていないように、士道に掴みかかった凛が拳を振りかぶる。近くにいた七星や時光が止めに入るが、凛は殺意にまみれた目で士道だけを見ていた。
「っ……」
このままでは凛が退場させられると思った世一は、凛の視線の先に立って士道を庇うように両腕を広げる。
「落ち着け凛!」
「邪魔だ、退け」
「試合中だぞ!? 出られなくなってもいいのか!?」
「そこの害虫を始末したらお前も潰してやる」
「言ってることがめちゃくちゃだ……! 先に試合、次に士道だろ!」
「潔さんそれも違うっす!」
「あ、ごめん」
二人の仲の悪さをよく知っていた世一は、つい士道を生贄にしようとした自分を反省すると、落ち着いた目で凛を見つめた。
「凛、何でそこまで怒ってるんだ。士道がうっかり俺の汗を食べたからって、お前に関係ないだろ」
「……あ゛?」
「俺とお前はただのライバル。ついでに高校の先輩後輩、これだけの関係なんだからそこまで怒るなよ」
「……」
そこで初めて凛の意識が世一に向いた。今まで散々サッカーして、セックスまでしたのに、ただのライバル?
「お前は俺のものだ」
「違う」
「違わねぇ。俺が最初に見つけた、俺だけのケーキだ」
「そんな約束はしてない」
「だから何だ? お前が体を捧げるのは俺だけだ。他の人間が食ったならそいつを殺すし、自分から差し出したってんならお前も殺す。そんなことにならねぇように俺がどれだけお前に群がる虫を駆除してきたと思ってるんだ?」
「……虫って」
「部活にいる蛆虫もクラスにいるゴミ虫も、お前を気持ち悪い目で見てた奴らは全員潰してきた。それもこれもお前が自衛を徹底しなかったせいだろうが、もっと危機感持てアホ潔」
そういえば世一と仲良くしてくれた友人の一部が、いつの間にか近くからいなくなっていることがあった。凛の仕業だったのかと気づいた世一は衝撃を受けて、想像以上の執着に絶句する。唖然とする世一を睨み付けた凛は、今まで我慢していた言葉を苛立ち混じりに吐き出した。
「俺はお前しか食ってねぇんだから、お前も俺だけに食われろ」
フォークはケーキが持つ栄養素を摂取しなければ生きていけない。だから政府から支給されたものを食べて、補食として自分を食べていると思っていた世一は固まった。凛の家には何度も行ったし冷蔵庫の中も見たことがあるが、体液の入った瓶は見たことがなかったことを思い出したからだ。
「お前……まさか、政府にフォークだって申告してないのか……?」
「……」
そこで初めて凛が気まずそうな表情を浮かべて、世一は自分の懸念が当たったことを理解した。
「馬鹿だろ、フォーク用の栄養剤は国から支給される。絶対栄養が足りてない。お前今までどうやって生きてきたんだ」
「だからお前しか食ってねぇって言ってんだろ」
「月一回しか会ってない時もあったんだぞ!? あんな少量で耐えられるわけねぇだろ!」
「腹減ったら自分の肉を食えばいい。そうすりゃ我慢できる」
「……何で、そこまで」
「お前以外の体液なんて気持ち悪くて食えねぇから」
真面目な顔でおかしなことばかり言う凛に理解が追いつかなかった。わなわなと唇を震わせた世一は、すべての言葉をかみ砕いて飲み込んで、導き出された答えに額を押さえる。
「凛―――お前、俺のこと好きすぎるだろ」
「……は?」
「出会った日から今までの十年、神奈川から埼玉まで毎月会いに来て、俺とサッカーしてちょっとつまみ食いして帰って。俺が下手な振りしても諦めずに鍛えようとするし」
「下手な振り……?」
「俺が距離置こうとしたら近所の人に聞きまくって自宅特定して乗り込んでくるし、わざわざ一人暮らししてまで同じ高校受験して、自分に合ってないって分かってる部活に入って俺とサッカーしてたし」
「……」
「極めつけに、俺以外食えない? 偏食もそこまでいくとストイックに感じるっつの変態ストーカー」
「潔、お前は……」
驚きに満ちた目で見つめる凛に、深呼吸して鼓動を落ち着けた世一は覚悟を決めた。
「あの日の約束、果たしてやるよ」
「約束?」
「『俺が勝ったらお前は俺の専属になれ』、あの日お前はそう言ったよな」
「!」
「今日が約束の日だ。この試合、勝った方が相手の願いを叶える。文句はないな?」
「……お前が勝ったら何を望む?」
「俺が勝ったら、お前は死ね」
ざわりと空気が揺れて、周囲に動揺が走る。だがそんなことは知ったことかと世一は凛だけを見つめた。
「人生がかかってるんだ。お前も命をかけなきゃフェアじゃねぇだろ」
暗い青目に射抜かれて、凛の瞳孔が開く。自然と口角が上がって、”戻ってきた宿敵”に全身が歓喜に包まれた。
「上等だ。ぶち壊してやるよ」
「決まりだな。……ここからは、本気出す」
リスタートした試合で、世一と凛は今までとは別人のように動きが格段に良くなった。両足を器用に使いこなし、優れた視野と先を読む能力が誰よりも高い世一。わざと相手の得意分野で戦って、強みをへし折る技術と身体能力を持った凛。プロですら唸るようなスーパープレーの連続に、周囲は足を引っ張ると理解して二人から距離をとった。
最初に得点を決めたのは世一だった。凛の妨害を受け、カイザーに反対側を挟まれながらも、両足をうまく使ったフェイントでエアボレーを決めて膠着した試合を動かす。すると呼応するように凛もギアを上げ、世一の体を張った妨害をものともせずシュートを放った。我牙丸の予測や反射すら超えるスーパーシュートにP・X・Gは勢いづくが、覚醒したカイザーが得点を決めてバスタード・ミュンヘンも士気が上がる。次に得点を決めたのは、世一と凛が潰し合ってる隙をついてシャルルが上げたクロスに反応した士道だ。
2-2となって誰もが次の1点を渇望する中、先読みに長けた世一とフィールドを壊す凛がぶつかり合い、試合はまたしても膠着状態に陥った。世一がゴールを決めようとすれば凛が邪魔し、凛がボールを持てば世一が妨害する。細かな技術や戦術眼はただの高校生のレベルをはるかに超えており、疲弊していく周囲を利用したり遠ざけたりしながら二人だけの世界で戦う世一と凛に、動いたのはロキだった。
「このままでは埒があきませんね。凛さんに死なれても困りますし、僕も参加させてください」
「チッ。邪魔すんなよ指導者」
「さて、どうでしょうか」
笑みを浮かべるロキにため息をついたノアも参戦し、試合はマスターストライカーを加えてさらに熾烈なものとなった。ノアとロキがマッチアップする中、お互いに潰し合っていた世一と凛は弾かれたボールのもとへ駆け込む。
あと一歩。あと一歩で届く。けれど、その一歩は凛が踏み出した道の上にあって。
先にボールに辿り着いた凛は、世一の妨害を受ける前にダイレクトシュートを放った。反応した我牙丸の指先を掠ったボールは、弾かれることなく枠の中に納まり―――長い試合の決着に、勝者は歓喜の雄叫びを上げる。
その喜びに混じるように、悲痛な叫びが響いた。
「ああぁああぁぁぁあ!!」
両手で頭を抱えた世一が叫ぶ。腹の底から絞り出された怨嗟の声に、何事かと振り向いた周囲を気にも留めずに頭を掻きむしった。
「クソ、クソ、クソ! また負けた! 今度こそ勝てると思ったのに!」
今まで弱みをほとんど見せなかった世一の奇行にバスタード・ミュンヘンが呆気にとられる中、ガリガリと頭皮を引っ掻く指先を凛が掴んで遠ざける。
「触るな!」
「うるせぇ、これ以上引っ掻いたら血が出るだろ。ここでおっぱじめてもいいのか?」
「……」
何を? と聞くのは愚行に違いなかった。世一は憎々しげに凛を睨みながら手を振り払うと、そのまま芝生に仰向けに倒れる。むっつりとした顔で天井を見上げる世一に凛は不審そうな顔をした。
「……何やってんだ」
「まな板の鯉のポーズ」
「は?」
「煮るなり焼くなり好きにしろの意」
端的で無愛想な声に呆れた凛は、自分と同じく大人の記憶を持っているはずなのに子供っぽい世一の隣に屈みこんだ。
「……敗者は勝者に従うのがルールだ。お前の望みは叶える。ただしオファーしてくれたクラブ次第では、契約の履行は後になる」
「あ? そんなこと聞いてねぇぞ」
「言わなくても分かるだろ。お前だってプロ……の世界を目指してるんだから」
長かった試合が終わり、どっと押し寄せた疲労で体が床に沈み込むような気がした。そんなことあるわけないが、このまま床を突き破って地球の中心で燃え尽きたいなんて馬鹿みたいなことを思う。
世一が大人の自分の記憶を思い出したのは、四歳の秋のことだった。サッカーの試合を生で観戦して、興奮と希望を抱きながら眠った夜。プロのサッカー選手になって活躍して、ライバルと大事な約束をして、信じていたマネージャーに生きたまま食い殺される夢を見た。最初はどんな悪夢だと思っていたが、毎晩同じ夢を見続けたことで次第に理解していった。この夢はただの夢ではなく、現実に起こる、もしくは起こった悲劇なのだと。
自分がケーキだと知った世一は、世界のすべてが怖くなった。フォークは外見では区別がつかない。だから誰が自分を狙っているか分からず、世一は怯えながら日々を過ごした。同類のケーキのことも怖かった。夢の中の世一はとても痛がって、やめろと何度も叫んだけれど、フォークに食べられる気持ちよさでろくに抵抗しなかったから。
生きたまま食べられる恐怖が分かる? 血塗れのフォークが美味しそうに自分の肉を食べてる光景を見つめる嫌悪感が分かる? 食べられることを一瞬でも幸福だと思った自分への怒りが、憎悪が、不信が、誰に分かるというのだろう。
誰も信じられなくなった世一は、一人でサッカーを始めた。人気の少ないところに向かって、黙々と技術を磨き続ける。いつか世界に羽ばたく日を夢見て、他人に対する恐怖から逃げて、チームスポーツを一人でやり続けた。
凛が現れたのは、一人で行う練習に限界を感じた時。初めて見た時は、どこかで見たような顔って印象。次にプレーを見て、『あ、こいつ糸師凛だ』って分かった。かつて超えたいと願った、誰よりも近くにいたライバル。潔世一がずっと追いかけた相手。どうしてここにいるのかと疑問に思ったが、もしかしたら自分と同じように記憶があるのではないかと気づいて世一は嘘をつくことにした。
弱い振りをして凛を遠ざけようと思ったが、凛はむしろ世一を強くするために特訓をつけるようになった。今更『実はプロだった記憶があります』なんて言えないし、世一は凛を信じられなかったので嘘を突き通すことにした。世一に執着していた凛はフォークだったから、どうしても信用できなかった。
なのにこんなところで、自分から嘘の殻を破ってしまった。やはり世一が最も信じてはいけない人間は自分自身に他ならない。
不満そうな顔で見下ろす凛に、顔を傾けた世一は静かに告げた。
「フォークは嫌いだ」
「……あぁ」
「お前も例外じゃない」
「……あぁ」
「正直みんな消えればいいと思ってる」
「あぁ」
「ケーキも嫌い。自分が嫌いだ」
「あぁ」
「食われるのが気持ちいいなんて頭おかしいとしか思えない」
「あぁ」
「世界が怖い。人が怖い。生きるのが怖い。一人が怖い」
「……あぁ」
「自分を許せない。相手を許せない。何もかもが憎い」
「あぁ……」
世一はずっと苦しかった。大人の自分が抱えていた絶望を受け取って、幼い心は元の形が分からないくらい歪んでしまった。ケーキは体液の提供が義務付けられているが、世一は自分を損なうことがどうしようもなく嫌で、家族にもケーキであることを言えずにここまで来た。臆病で、卑怯者。変えられなかった自分の本性に絶望して、自分を偽って生きていくことが憂鬱だった。
だがもしも、変えられるチャンスがあるとしたら。
隠していた本音をぶつけても、受け止めてくれる凛に少しずつ涙があふれてくる。目頭に溜まった涙が鼻筋を通って反対側の頬を流れた時、呻くように呟いた。
「………でも、もし食われるならお前が良かったって、ずっと思ってた」
マネージャーに食われている間、世一の頭の中には凛がいた。助けてほしいと思った。傍にいてほしいと思った。目の前にいるのがお前ならと、浅ましくも願っていた。
これが世一の本性。隠してきた本音。さぁ、どうする、糸師凛。
試すように見上げた凛の顔が下がってきて、鼻筋から目頭までを舐められる。思わず閉じた目蓋にキスが落とされて、薄く開くと頬に手を添えられた。真上を向かされた世一と凛の顔の距離がゼロになって、何度も交わした口づけに瞬きをする。
「……俺も、お前を食うのは俺が良かったって思ってた」
「……」
「フィールドで殺し合うだけじゃ満足できなかった。だからお前を手に入れて、言いたいことがあった」
「言いたいこと?」
「好きだ。お前が一番。誰よりも、好きだった」
「……何それ。憎めって言ったり、好きだって言ったり、お前の情緒どうなってんの」
「昔言ったことを撤回する気はねぇ。ただ俺たちの関係を一つ増やしたいと思っただけだ。……もしお前が死んだら、血も肉も骨も食いつくして、お前と一緒に死んでやるよ」
目を見開いた世一の上で、凛は静かにまつ毛を揺らした。
「俺を憎み続けろ。殺しにこい。そうすりゃ恐怖も少しはマシになんだろ」
物騒なことを言うくせに、その声は優しくて。頬を撫でる手の温もりが心の柔いところに届く。ずっと自分を縛っていた恐怖が薄れて、あふれた涙にしゃくりあげる世一の背中に手を回し、自分の胸に引き寄せた凛はぼさぼさの頭に顎を乗せた。
「あんまピーピー泣くな。食いたくなる」
「ッ、う、ああぁ……」
背中に回った手が縋りつくようで、どれだけの恐怖を背負ってきたのかと凛は目を伏せた。この様子だと、マネージャーを凛が食い殺したことは言わない方がいいだろう。
絵心によって最後の年俸額が発表され、1、2フィニッシュを決めた凛と世一は部屋着に着替えて激闘を繰り広げたフィールドに戻ってきた。目尻を赤くした世一の手を握って芝生を歩き、ハーフラインで立ち止まる。振り返れば凛を見ていた世一と目が合って、気まずそうに顔を逸らした世一の頭を掴んで振り向かせた。
「いだだだ、暴力反対」
「お前が顔逸らすからだろ」
「正面から見られたくないんだよ。恥ずかしいこと言わせんな」
「泣き顔なんざ散々見てきた。今更恥ずかしいもクソもあるか」
「そうだったなこの変態野郎」
悪態をついた世一は凛の隣に歩み出ると、二人を分かつように引かれたラインに目を落とす。
「……お前さ、良かったの」
「何が」
「フォークだってばらして。家族にも言ってなかったんだろ」
「別に。いつかは言おうと思ってた。お前こそケーキだって俺以外に教えてなかったんだろ、大丈夫なのか」
「お前にも教えたつもりはなかったけどな。……父さんたちには、ちゃんと謝る」
「俺も行く」
「何で?」
「お前の死体は全部俺が貰う。何も遺せないことは謝っておくべきだろ」
「修羅場の予感……まぁいいけど。その場合俺もお前の家族に謝罪に行くべきだよな」
「来なくていい」
「そうもいかないだろ。息子が将来犯罪者になるのが確定してるのに」
「チッ……専属契約の条項に死体の所有権も盛り込んどけよ、馬鹿政府が」
「おい凛、マジで口には気を付けろよ。今は中継されてないらしいけど、カメラの前で滅多なこと言うな。これからは俺にも迷惑がかかるんだからな」
第二段階が終了し、外国からやってきた選手や指導者たちは帰国の準備に追われている。青い監獄の選手も生き残った者や脱落した者たちで別れ、各々好きなように過ごしているようだ。
小さくため息を吐いた世一を横目で見て、凛は気になっていたことを問いかける。
「お前、何であんな約束をした?」
「何のこと?」
「お前が勝った場合、俺に死ねって言っただろ。生命がかかった勝負で一番実力を発揮できる俺に有利な条件をつけて、勝つ気あったのか?」
「あ? あるに決まってんだろ。その条件にしたのは本気の凛じゃなきゃ殺す意味がなかったからだ。別にお前に負けたかったわけじゃない」
「フン。ならいい」
「いいのかよ。まぁお前ならそう言うと思ってたけど」
契約を交わすと決めても告白されても、結局世一と凛を繋ぐのは刃のような殺意だ。そのことに呆れと納得を抱いて、世一は疲れたように呟く。
「やっとトラウマが終わったのに、凛といると心が休まる時がないな。色々早まった気がする」
「終わったならいいじゃねぇか。これからもどんどん早まっていけ」
「生き急げってことか? 本当に俺のこと好きなの?」
「何回言わせる気だ。好きだから早く一つになりたいんだろ」
凛の腹の中で一つになるのか。嫌だなぁと思う心は確かにあったが、ちょっと嬉しく思ってしまった時点で世一もまともじゃない。
「……なんつーか、俺たち、どうしようもないほど終わってるな」
「確かに俺たちは一度終わった。だから今スタート地点に立ってる」
「え?」
「走り出す覚悟があれば、またここから始まるんだよ」
そう言って凛はハーフラインの反対側にいる世一を引き寄せた。同じエリアに立って、見つめ合った二人は自然と唇を重ね合わせる。キスしながら薄く目を開けた世一は、眼前にある翠色に恥ずかしくなって目を閉じた。すると顔が離れて、再び目を開けた世一は少し頬を膨らませる。
「凛、キスしてる時は目を瞑るもんだぜ」
「どっちでもいいだろ」
「見られてると恥ずかしい時もあんの」
「お前だって見たくせに」
「美形は見られてなんぼだろうが」
「意味分かんねぇこと言ってんじゃねぇ。……潔」
「何だよ」
「今まで聞かなかったが、何で俺とのセックスを拒まなかった? 拒絶するタイミングはいくらでもあっただろ」
「……そうだなぁ」
世一が凛を嫌いながらも拒絶しなかった理由。そんなもの、世一にだって分からない。愛情があったのか、ただ快楽を求めたのか。未だに出ない答えを求めて凛に問いかける。
「なぁ凛。俺はお前を愛してると思うか?」
「あ? 知るかよそんなこと。自分で考えろ」
「考えたけど分からなくてさぁ」
「なら考え続けろ。死ぬまでに答えを出せ」
「愛してないって答えだったら?」
「俺を愛するまで離さない。死んでもだ」
「……凛が言うと現実になりそうで怖いな。そういえば、凛って前の時は最後どうだった? 寿命?」
遠回しに死亡の理由を尋ねると、凛は数秒黙り込んでから世一の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「もう少しお前が強くなったら教えてやる」
「は? 何それ、俺は強いだろ」
「まだまだ弱ぇよ。これからもみっちり鍛えてやる」
「その上から目線、すぐに逆転してやる」
睨み上げる視線に満足そうに目を細めた凛は、もしかしたら一生真実を教えることはないかもしれないと思いながら、世界一大切な宿敵の唇に噛みついた。