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逃げ癖と言い訳
防波堤の先の水は、
冷たい。
沼なのか、
泉なのか。
それすら、
まだ分からない。
ただ、
足を浸した瞬間の感触だけが、
やけに現実的だった。
——こんな重い話だとは、
正直、
思っていなかった。
もっと軽いものだと、
勝手に決めつけていた。
挨拶の延長で、
少し気が紛れる程度の、
そんなやりとりだと。
それなのに、
いつの間にか、
胸の奥に残る重さが、
無視できなくなっていた。
引き返せるはずだった。
実際、
一瞬だけ、
振り向いた。
防波堤のこちら側。
日常。
家庭。
父としての自分。
確かに、
そこにあった気がする。
——気がしただけだ。
見えたはずのものに、
はっきりと焦点を合わせる前に、
大和は、
また目を逸らした。
いつもの癖だ。
見なかったことにする。
気づかなかったことにする。
そうやって、
ここまで来た。
その感覚を抱えたまま、
大和は、
昼休みのベンチに座っていた。
工場の休憩室。
変わらない空気。
鉄や汗の匂い。
ぬるくなり始めた缶コーヒー。
誰かの話し声。
世界は、
何一つ変わっていない。
変わってしまったのは、
自分の内側だけだった。
スマートフォンを見下ろす。
菜月からの、
一通。
いや、
受け止めきれなかった、
言葉の重なり。
スカイツリー。
一人で登った夜。
綺麗すぎた景色。
埋めてきたもの。
零れた涙。
重い。
正直、
支えきれないと思った。
逃げるなら、
今だ。
防波堤のこちら側に、
戻ることはできる。
でも、
そうしてはいけない気がした。
この人は、
自分と同じだ。
捨てたつもりで、
捨てきれていないものがある。
大和自身も、
そうだった。
捨てたいのか。
捨てたくないのか。
もう、
分からない。
ただ、
重さだけが残って、
潰されそうになっている。
入力欄を開く。
打って、
消す。
誤魔化す言葉は、
いくらでも浮かぶ。
でも、
それを送れば、
何かを踏み越える。
気づけば、
くわえていたタバコの灰が、
指先に近づいている。
火種が、
限界まで来ているのに、
それにも気づかない。
ぼんやりと、
画面だけを見つめていた。
——もう、
足だけじゃない。
身を乗り出しているどころじゃない。
全身が、
水の上にある。
足は、
とっくに濡れている。
それを、
認めたくないだけだ。
休憩終了のサイレンが鳴る。
我に返り、
大和はタバコを消す。
スマートフォンを伏せる。
まだ、
送っていない。
それが、
最後の言い訳だった。
防波堤の先の水は、
冷たい。
それが、
沼なのか、
泉なのか。
今はまだ、
分からない。
分からないまま、
大和は立っていた。