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夏目莉央
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くま🐻☁️
12
そして僕の体調が回復すると、いつものように母に気を遣い、いい子でいるように努めた。
僕は母のことが好きだ。
仕事を頑張る母を尊敬しているんだから。
早く大人になって母の役に立ちたい。
そのためには、今はたくさん勉強するべきだと思い込んでいた。
「祐二、庭でボール投げしよう。黒川が一緒に遊んでくれるって」
「やったー!」
僕の兄、貴浩は穏やかで優しい人だった。
「うわー、兄さん、力強いよ」
兄が投げたボールが僕の頭上を通り抜ける。
転がっていくボールを追いかけるのも楽しかった。
「祐二、ごめん! 次はもう少し低く投げるよ」
運動も勉強もできる兄は、僕の憧れだった。
僕も兄のように立派になれば、母のそばに座って頭を撫でてもらえるかもしれない。
だから僕は、兄を目指して頑張ったんだ。
だけど、僕は兄を越えることはできなかった。
母との距離は、一向に変わらなかった。
母と僕との間に距離がある理由。
それを知ったのは、十五歳のときだった。
高校生になり、定期試験で学年トップの成績をとった。
トップは、兄もまだ取ったことがなかった。
(母に初めて褒めてもらえるかもしれない!)
僕は嬉しくて、すぐに母に報告した。
「母上! 学年一位でした!」
僕は母に、意気揚々と試験結果を見せた。
母はそれを確認すると、ゆっくりと眉をひそめた。
そして、試験結果の用紙をテーブルにそっと戻した。
「母上?」
「祐二。兄を越えて満足?」
「……え?」
一瞬、言われている意味がわからなかった。
だけど、母の仕草と声のトーンから、褒められないことは悟った。
心臓が徐々に速くなる。
「祐二は優しくて学業優秀。あなたの能力は、父親ゆずりなのね」
母は哀愁を漂わせ、目を細めて僕を見る。
「浮気をして愛人と死んだ、あの父親のね」
ドキンッと心臓が大きく脈打った。
浮気……?
愛人と死んだ……?
(……父が……そんなことを?)
事故死した父には、裏事情があった。
そんな父の話を聞いたことがなかった僕は、受け入れられず、ただ立っていることしかできない。
母が艶やかなウェーブの髪を後ろに払う。
「あなたの父親はね、祐二の誕生を楽しみにしていたのに、裏では私を裏切っていたの。ひどい人だったのよ」
(そのひどい人に、僕が似ていると言うの?)
心臓が壊れると思うくらい跳ねている。
でも、何も言うことができない。
母が、僕ではなく「父」を見るような目で見つめてきた。
「あなたは、失態を演じた父親が残した朝倉家を祐ける二番目の子。それが祐二なの」
母が僕の頬にそっと触れる。
「それなのに、兄を出し抜こうだなんて、思い上がってはいけないわ」
その指先は、想像より冷たかった。
「そ……そんなつもりは……」
遠くでキーンと音が鳴る。
身体の芯が熱い。
突然、息の吸い方がわからなくなる。
「祐二は大人しく兄の次に控えていなさい。出しゃばってはだめなのよ」
(この人は──本当に僕の母親なのか)
僕の中で、そんな疑問が生まれた瞬間だった。
頭がクラクラして気が遠くなる。
同時に、目の前が暗くなっていった。
どうやら僕は脳貧血を起こして倒れてしまったらしい。
気が付いたら、自分のベッドに寝かされていた。
そして、ベッドのすぐ横で鈴川さんが目にハンカチを当てて泣いていた。
「鈴川さん……なぜ泣いているの?」
僕はぼんやりと訊ねた。
ハンカチが外され、そこから現れた目は真っ赤だった。
「奥さまの仕打ちがひどすぎます! こんなに母親の愛情を欲しがっているのだから、抱きしめてあげればいいものをっ。旦那さまの不誠実の責任を祐二さまに背負わせるなんて、鬼の所業ですよ!」
鈴川さんの言葉で、倒れる直前の記憶が戻った。
そうだった。
母から衝撃の事実を聞かされたんだっけ。
そっと、僕のために泣いてくれる鈴川さんを見た。
僕のために泣いてくれる人──。
それだけで、一人じゃない。
そう思えて、心が潰されずにいられた。
僕は腕を伸ばして、鈴川さんの手を握った。
「僕のそばにいつも優しく寄り添ってくれる鈴川さんがいるから、僕は心を強く保てるんだよ。だから、そんなに心配しないでね」
「坊ちゃま……」
鈴川さんがいなくなったら、僕の心は簡単に潰されてしまうだろう。
ガタン。
部屋の扉が開いた。
母が僕たちを見ていた。腕を組み、厳しい目で。
「鈴川さん。子供に私の陰口を吹き込むのはルール違反よ」
「奥さま! 坊ちゃんを抱きしめてあげてください! この子は小さい頃から母親からの愛を渇望しているのですよ?」
「黙りなさい! わかった口を聞かないで!」
母は、鈴川さんを間髪入れずに切り捨てた。
流石の僕も我慢ならなかった。
「母上、その言い方はひどいですっ! 鈴川さんは母の代わりに僕を育ててくれたんですっ!」
僕も頭に血が上り、つい叫んでしまった。
鈴川さんが僕に愛情を注ぎ、育ててくれたのは事実だ。
母親の目と眉が吊り上がった。
そして、その視線が僕から鈴川さんに移った。
「鈴川さん、祐二を懐柔したようね。残念だけど、あなたは今日で契約解除にするわ」
鈴川さんへの唐突な解雇宣言だった。
なぜそうなるのか、僕は抗議したかった。
でも、できなかった。
僕に染みついた、母親の機嫌を損ねてはならないという思考が邪魔をした。
「は……母上、ごめんなさいっ。悪いのは僕です! ごめんなさいっ!」
僕から大切な人を奪わないで!
僕は両手をつき、母に頭を下げて懇願した。
「母上っ……お願い……します……っ」
「坊ちゃま、おやめくださいっ。私は平気ですからっ」
鈴川さんが、頭を下げ続ける僕を引き起こそうと必死になってくる。
しかし、どうしても許してもらわなければならない。
僕には、いつもそばで見守ってくれる鈴川さんが必要だから。
母は静かだった。
僕は恐る恐る顔を上げる。
すでに母の姿は消えていた。
僕の頭は真っ白になった。
(なんで、こんな僕が苦しんでいるのに⁈)
あの人には、慈悲の心がないのだろうか。
僕から大事な人を引き離すなんて、母は人間ではない。
僕の心が冷たく凍りついてゆくのがわかった。
今日、この日。
僕の心は死んだ。
母は、人の形をした悪魔──魔人だ。
このことをきっかけに、僕は母親をそんな目で見るようになった。
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